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第九章 熾火(おきび)
一
和田戸山にある尾張藩下屋敷に、左近寺織人と賀茂屋一右衛門は足を運んでいた。広大な下屋敷の外側は箱根山があり緑豊かな自然に囲まれている。前日の曇り空が嘘のように晴れ渡り、小鳥たちの囀る声が耳に心地よい。
織人と一右衛門は、藩邸内の離れのような小屋で家老の成瀬正親と同じく家老の渡辺定綱を待っていた。
「織人様。浅野親戚縁者の大名屋敷の襲撃、見事成果を挙げることが出来、誠に祝着至極でございます。」
「他人事みたいに言わないで下さいよ。計画は御所様とあなたがお立てになったこと。」
「いやいや、実働部隊を率いておられるのはあなた様でございますので・・・。」
「私は強い相手に巡り合えれば、それでよいのです。天下の情勢など、朝廷だろうと幕府であろうとどちらでもよい。」
織人はそう言うと高らかに笑ってみせた。命を奪うことへの罪悪感など微塵もない無邪気さに、一右衛門は背筋が寒々としていた。
「しかし・・・切腹した赤穂の浪士たちの人気は、留まるところを知らず凄いですね〜」
「亡君の恨みを晴らし主への忠義を貫いたってところが庶民にはたまらないのでしょう。」
「それにしても、吉良上野介という方はそんなに悪い奴なのですか?」
「悪い奴などと、とんでもござりません。その逆でございますよ。なかなかの名君だったと私共の調べでは、そう掴んでおりまする。」
「でも世間では、吉良上野介は悪人と・・・そう知れ渡っていますよ。」
「それは・・・そのほうが都合が良い何者かの流言でごさいましょう。」
そういう裏家業を生業にしてきた織人と一右衛門は互いに含み笑いをする。そこに漸く、尾張藩家老/成瀬正親と渡辺定綱が現れた。
「お待たせいたした。」
両家老は、織人と一右衛門の対面に座った。
「さて、成瀬様・・・渡辺様。浅野家所縁の大名屋敷への襲撃、祝着でございました。」
一右衛門は二人に深々と頭を下げた。この襲撃には、残りの甲賀五人衆が加わっていた。
「・・・が、しかし大石様の御後室、りく様を仕損じたのは返す返すも残念ですな。」
体裁が悪そうに正親も定綱も互いに顔をしかめた。
「更に甲賀五人衆のうち、二人も失うとは・・・。兵力としても大きな損失でございました。」
一右衛門の声色には感情というものが無かった。憐れんでいるでもなく、嘲笑しているかのように聞こえる。
「一右衛門。これから先は、御所様よりどのような指示を仰いでおるのだ。」
「御家老様。そう慌てないでください。」
「何?」
見下したような織人の態度と言葉に、正親の我慢も限界になっていた。隣にいる定綱は取り乱しそうな正親をなだめるように肩を掴む。
「ご無礼の段、平にご容赦願いまする。」
一右衛門は、先んじて頭を深々と下げた。
「これから先の事・・・でございますが。暫くは何もいたしません。」
「な・・・何だと!」
正親は驚きのあまり声を上げ、定綱は絶句してしまう。
「今、幕閣は浮足立っておる。攻め時ではないのか?」
「御家老様・・・先程も申したではありませんか、慌ててはなりませぬと。」
織人は薄ら笑いを浮かべている。
「保土ヶ谷宿での大立ち回りは、思わぬ結果をもたらしました。宿場役人を巻き込み、町全体が大騒ぎになりました。大目付や徒目付の動きが目立ち、謀反を企てる輩を探そうと躍起になる。大目付の仙石伯耆守は無能な男です。赤穂の浪士たちを罪人として扱った張本人。庶民は赤穂の者共が受けた仕打ちを味わうようになるでしょう。」
一右衛門が話している間、織人は退屈そうに欠伸をしている。
「浪士共が各大名屋敷にお預けの処分を受けたとき、暫くしてから次のような狂歌が詠まれ広まりました。」
ー 細川の 水の流れは 清けれど ただ大海の 沖ぞ濁れる ー
一右衛門は家老二人の表情を見つめながら詠んだ。
「この狂歌が詠まれ批判を受けた松平隠岐守定直様は、細川家に見習って待遇を改めたとか・・・。」
正親も定綱も押し黙ったまま口を開こうとはしなかった。
「赤穂の浪士共は、罪人でございます。それが細川家や水野家が、まるで客分のように扱いました。それほど綱吉公の御威光は人心から離れていっております。」
「確かに細川家も水野家も、特にお咎めはなかった。」
定綱は一右衛門の話に引き込まれていた。
「討ち入り脱盟者たちは勿論のこと、討ち入りを妨害せしめし親戚縁者の大名たちは連座を恐れた臆病者。これが襲われれば庶民の間に世直しの機運がさらに高まりましょう・・・この時こそ攻めの一手。」
「それ故、今は待てと申すのだな。」
定綱が険しい表情を崩さぬまま答えた。
「水が真綿に滲み込むように・・・。事は、それからにごさりまする。」
「・・・しかし。」
恐れと不安が拭えぬ正親は考え込む姿勢を崩さない。
「心配ござりませぬ。今、この時も西国では御所様が手を打っておられます。」
一右衛門は正親の抱える不安を取り除くように言った。 これを聞いた定綱は安心したように溜息を漏らすが、正親は不敵に笑う一右衛門をずっと見つめていた。
二
仙台藩伊達家の上屋敷は外桜田にある。藩主/伊達綱村は奥座敷で家老である遠藤山城守斉信を待っていた。こちらへ向かってくる足音が聞こえ、閉めていた障子を見る。障子の色は陽が落ち始めたのか、薄い朱色に染まっていた。
障子が開いて斉信が二人の男を連れて入ってきた。一人は伊達家黒脛巾組当主/世良修理介、もう一人は腹心である大林坊晟海であった。黒脛巾組は、伊達家の忍集団である。
「文七郎。三人揃って如何いたした。」
斉信は通称“ 文七郎 ”といった。斉信は神妙な面持ちで綱村に報告をした。
「殿。一条冬経様を・・・?」
「うむ、前の関白様であろう。だが、今は・・・。」
「今は宮中を追われ静かに隠遁生活を送っておられるはず・・・。」
「その冬経様がどうしたというのだ。」
斉信は懐から幾重にも折り畳まれた一枚の書状を取り出した。
「密書と・・・思われまする。」
「何!」
「殿宛ての書状でござりましたが、得体の知れぬ書状故・・・某が先に目を通しました。」
書状を読む綱村の表情が一層険しくなった。
「内密に上洛するよう促しておる。」
「はい。これは公儀に対する謀反の企みかと存じまする。」
後ろに控える修理介と樹海は互いに目を合わせた。
「この書状、如何にして当家に届けられた。」
「我が配下の者が中間より手渡されました。」
「その中間は誰から・・・。」
「出入りの商人としか・・・それ以上は顔も素性も何も。」
考え込んでいる綱村と斉信だが、修理介は黙っていられず口を開いた。
「殿、御家老。花押でございますが冬経様のもので間違いござりませぬか?」
修理介に言われ綱村は改めて密書を見る。
「間違いないか・・・どうかは判断出来ぬが・・・。」
「恐らく本物。」
綱村の言葉の続きを斉信が言った。
「御家老、その根拠は・・・。」
「江戸御城下にて起きておる元赤穂藩士の殺害事件。合わせて幕閣諸侯の狼狽ぶり。このような騒動を起こす者が、今の外様におると思うか。」
修理介を表情が一層険しくなる。
「修理。お主はこの密書を大目付に届け、京の御公家様と当家の関わりをなくそうと考えておるな。」
「御意。」
「しかし、それはならぬ。」
「何故でございますか。」
「この密書を大目付に届ければ、痛手を被るのは我等だ。大目付から聴取を受けた場合、謀議を持ち掛けたのは我等だと不審を抱くに相違ない。」
打開策が浮かばぬ斉信は、俯いて黙ってしまう。
「文七郎。」
沈黙を破って綱村が呟く。
「余は、村和の無念を晴らしたい。」
斉信は、綱村の弟/伊達村和の身に起きた改易事件を思い出した。
元禄十二年九月九日、江戸城へ登城する行列の前を横切った旗本・岡孝常に供回りの者が怪我を負わせてしまったのだ。公儀の対応は素早く謹慎を命じられた村和は、事件から僅か一ヶ月半経った十月二十八日に改易に追い込まれた。
「あの事件も内匠頭殿同様に仔細を調べるべきだった。」
村和は現在、仙台藩宮城郡の野村に逼塞している。
「村和の無念だけではない。内匠頭殿の無念も合わせて晴らしたい。」
「な・・・なんと!」
主君の意外な心の内を知り斉信は驚いた。
「内匠頭殿はの・・・。赤穂藩の塩田製法を仙台藩にも取り入れたいと申すと快く願いを聞き入れ、直ちに仙台へ職人たちを向かわせてくれたのだ。」
「存じておりまする。」
「内匠頭殿は、この仙台藩の財政を豊かにして下された大恩人じゃ。・・・その御方を事もあろうに。」
斉信は綱村の拳が小刻みに震えるのを見た。
「文七郎。生類憐れみの令に端を発し、村和や内匠頭殿への幕府の専横ぶりは限度を超えておる。今こそ、我等が立つ時である。」
綱村は持っていた扇子で畳を幾度となく叩いた。
「斉信!修理と晟海を伴い急ぎ、京へ上るのだ。」
斉信、修理介、晟海は綱村の命を受け京へ向かうのだった。
三
陽も落ちて賑わいを見せていた日本橋も、その面影はなく静まり返っていた。通りも数ヶ所ごとに提灯が置かれているだけである。
多都馬の店、調達屋は店先に提灯を掲げ通りを僅かながら照らしている。
薄暗い通りの中を隼人が手土産を持って歩いて来る。六ツ半ともなると、どの店も閉まっている。当然調達屋の戸も閉められていた。裏に回ろうとした時、音がして調達屋の戸が開いた。
「神月様。多都馬様も元締も、先程からお待ちになっておりやす。」
戸の隙間から弥次郎が顔を出して隼人を中に入れる。弥次郎に案内され隼人は調達屋の居間に入った。中には多都馬と長兵衛以外に須乃と丹、そして長兵衛配下の三吉も座っていた。おしのは日が暮れる前に須乃が家に帰していた。
「神月様。どうぞ、こちらへ。」
須乃は多都馬の隣に座っていたが場所を隼人に譲った。
「隼人。手にぶらさけているのは何だ?」
多都馬が手を伸ばすと、隼人は取られまいと手土産を背中に隠した。
「おっと!あんた等に買って来たんじゃねーぜ。」
隼人は手土産を須乃にそっと手渡した。
「えっ?私に?」
「あぁ。日頃、美味いもんを食わしてくれる礼さ。」
「何かしら〜。」
「大坂屋の饅頭さ。」
「えーっ!多都馬様、ここ評判のお店なのですよ。」
まるで少女のようにはしゃいでいる須乃が愛らしく、多都馬は暫く見惚れていた。
「丹様。二階の数馬殿とお茶でも飲みながら頂きましょうか。」
「いいですね。」
丹は優しい眼差しを須乃に向けて答えた。須乃は待ちきれないとばかりに、丹の手を取り二階へと上がって行った。
「隼人。らしくないことをするじゃねーか。」
多都馬が冷やかすように言う。
「多都馬様。そりゃそうでございましょう。あんなもん隼人様が選ぶわけがね~。」
三吉は真相を知っているとばかりに薄ら笑いを浮かべている。
「な〜に言ってやがる。俺が選んだもんに決まってんだろ〜。」
「へぇ~、そうでございやすかね。では日本橋小網町の大坂屋にお艶ちゃんと入って行ったお侍様はどちらの方なのでしょう。」
四人の視線が一斉に隼人が集まる。
「この野郎、いつの間に!」
多都馬は隣の隼人を肘で小突く。気取り屋の隼人が珍しく照れているらしく、頬がほんのり赤く染まっていた。
和やかな雰囲気をよそに弥次郎は、二階の様子を覗いに行った。二階からは須乃たちの笑い声が聞こえてくる。弥次郎は階段下から長兵衛に向けて頷くように合図をする。
「多都馬様。」
長兵衛が多都馬へ話を促すように合図を送った。
「さて・・・。」
多都馬は持っていた猪口を卓の上に置いた。
四
弥次郎は階下で二階にいる須乃たちを気遣いながら、多都馬たちの様子を見つめていた。隼人は注がれている酒を飲んでいる。卓には酒の肴として、まぐろの煮付けと刺し身が並んでいた。
「隼人。まず今の町方の動きを教えてくれ。」
「動きも何もねぇさ。市中は大目付と目付衆がうろうろしやがって町方の出る幕じゃねーんだよ。あれじゃ、ただ庶民の不安を煽っているだけだぜ。」
公儀のやり方に不満を抱いていた隼人は、猪口に残っていた酒を煽るように飲んだ。三吉がすかさず猪口に酒を注ぐ。
「大目付の仙石伯耆守は功名心に駆られ過ぎる。闇雲に突っ走ったところで何も成果は生まれねーよ。」
「敵の思うがままって感じですかね。」
三吉が隼人の機嫌を取るように酒を注いだ。
「隼人、それも致し方あるまい。刃傷事件の折、同輩だった庄田下野守安利は務めが悪いという事で、その後御役御免となっている。無理もねーさ。」
長兵衛は多都馬の話を頷きながら聞いている。
「長兵衛、町の皆はどんな様子だ。俺にとっちゃ、そいつが一番気にかかる。」
「へい。瓦版が謳っているとおりです。不埒な不忠者を成敗し、不義理なお武家様を懲らしめた。まさに世直し大明神、様様でございますよ。」
事情を知らぬ庶民を上手く抱き込み、その人心を巧みに操る敵の脅威は計り知れない。
「多都馬さんよ・・・。」
「ん?」
「奴等の後ろ盾・・・どう見ている。」
隼人の問いに多都馬は戸惑っていた。
「・・・流石のあんたもわからねーよな。」
隼人はそう呟いて大きく溜息をついた。
「隼人・・・。政吉とお艶ちゃんを襲った相手だか、奴等をどうみた。」
「そうだな・・・奴等の剣は、明らかに柳生新陰流。しかし、柳生新陰流は将軍家御家流のはず。」
「将軍家御家流といってもな、柳生新陰流には江戸と尾張の二つがある。あの攻撃的な剣は、江戸柳生のそれではない。」
「では、尾張藩が黒幕って事でしょうか。」
長兵衛が堪らず先走る。
「いや、元赤穂藩士たちを斬ったあの刀傷。あれは柳生新陰流の太刀筋ではない。」
「そうですか・・・。」
長兵衛と三吉は互いに肩を落とした。
「それに・・・。隼人が斬ったあの賊徒等の懐に忍ばせてあった米沢の一刀彫。あのような小細工は武骨一辺倒の尾張に出来る芸当ではない。」
「ったく〜!どこのどいつなんだっ畜生!」
三吉が悔しそうに自分の膝を拳では打った。再び沈黙が多都馬たちを支配する。暫くして二階を覗っていた弥次郎が、その沈黙を破って話しかける。
「しかし、なんだって奴等・・・こう赤穂の方たちに拘るんでしょうね~。」
弥次郎の言葉は、多都馬もずっと気にかかっていた。そこへ弥次郎と一緒に須乃が多都馬たちのところへ顔を出す。
「弥次郎さんも・・・そろそろ皆さんのお仲間に入れてあげて下さいませ。」
須乃は多都馬の気持ちを察し、隼人の手土産を口実にわざと席を外していた。しかし、話し合いに熱が入り過ぎているのを感じ心配して降りてきたのだ。
「そうだな・・・弥次郎、済まなかったな。」
「い・・・いえ。」
「弥次郎さん、もう大丈夫です。」
弥次郎が須乃に付き添われ、三吉の隣に座る。
「お酒・・・今、ご用意しますね。」
須乃の細やかな気遣いに、多都馬たちはいつの間にか心が癒やされていた。
「須乃さん・・・済まねーな。」
隼人が台所へ向かう須乃の背中に頭を下げた。多都馬はまたしても、甲斐甲斐しく働く須乃の後ろ姿に見惚れてしまっていた。
「須乃様、アッシもお手伝いいたしやす。」
三吉と弥次郎は。須乃がいる台所へ向かった。
「多都馬さんよ・・・。」
隼人は隣の多都馬に話しかける。
「見惚れてねーで、早く祝言をあげなよ。」
「わかっているさ。」
多都馬は障子を開け、夜空に浮かぶ月を見上げた。星影がかすむほど輝く月を灰色の雲が覆い隠そうとしていた。多都馬は、その雲に正体の掴めぬ敵を投影していた。
五
尾張藩家老/成瀬隼人正正親は、下屋敷の庭で池の鯉を見ながら一人佇んでいた。陽の光が池に反射して正親の顔を照らす。
尾張藩主/吉通は若輩ながら、武道勉学に励み歴代藩主の中でも異彩を放っていた。剣は尾張柳生新陰流の皆伝の腕を持ち、儒学、国学、神道なども修め内政面でも多くの改革に挑むなど早くも名君として誉れ高き人物だった。
― 殿こそ、次期将軍家として相応しき御方。 ―
正親は目を閉じて吉通が第六代将軍となる事を思い浮かべていた。その時、正親は背後から声かけられ振り返った。そこには甲賀五人衆の鵜飼勘兵衛と岩根半左衛門が控えていた。
「御家老・・・お呼びにより罷り越しました。」
「うむ、良くぞ参った。」
「どのような御用でございますか。」
正親は話し辛そうに俯いてしまう。
「御家老・・・。」
勘兵衛が正親に発言を促す。
「うむ・・・先日、登城の際にある事を耳にした。此度の騒動について大目付/仙石伯耆守が、米沢藩上杉家へ吟味伺いに参るという・・・。」
「何故、上杉家に。」
「撒いておいた餌に漸く食いついた・・・というわけだ。」
勘兵衛と半左衛門は、一刀彫を忍ばせた事を思い出す。
「・・・そこでだ。上杉に向う前に仙石伯耆守を襲撃し彼奴の命を頂戴仕る。」
正親の言葉に衝撃を受け、勘兵衛と半左衛門は度肝を抜かれてしまう。
「その襲撃、あの公家共の指図でござりますか?」
「いや、わしの一存にて執り行う。」
勘兵衛と半左衛門は、驚いて互いの顔を見合わせ
「御家老、それは一味から我等尾張藩は脱盟するという事でござりましょうや。」
「いや。企てから抜けるつもりは毛頭ない。あの公家共は、十分利用価値がある。」
「なら何故、我等尾張藩のみで・・・。」
正親は己の考えを勘兵衛と半左衛門に伝えた。
「此度の企て・・・我等尾張藩は公家共の補佐をしているに過ぎぬ。いわば将棋の歩如き扱い。これでは事が成し得た時、立場を強うすることは出来ぬ。」
口を真一文字に結んだ正親の表情は苦悶に満ちていた。
「我等の悲願は、藩主/吉通様を第六代将軍にすること。それには、この企ての主導権を取らねばならぬのだ。」
半左衛門は正親の考えに感動して何度も膝を叩いている。正親の身を案じる勘兵衛は、ただ黙って俯いていた。
「どうした勘兵衛。そのほうは反対か?」
「い・・・いえ。ただ佐太夫、十郎太、珠印等を討った奴等の事が気になりました故。」
「犠牲になりし三人と配下の者たち・・・彼等の死は決して無駄にはせぬ。何人が現れようと恐れる事はない。」
「御家老・・・で、決行はいつでござりますか。」
半左衛門が急かすように迫った。
「今夜だ。仙石伯耆守は・・・今夜、御生涯を閉じることになる。半左衛門、そちとわしとで行く。勘兵衛、そなたは残れ。」
正親の言葉に勘兵衛は驚いた。
「残って公家共の企てを完遂させろ。わしが死んだら後の差配は半蔵殿に・・・。」
「そ・・・そんな。」
半左衛門は、動揺する勘兵衛の肩に手を置いて言った。
「勘兵衛・・・案ずるな。必ず御家老を連れて帰る。」
此度の襲撃相手、仙石伯耆守の情報は事前に知らされていない。即ち計画は付け焼き刃に違いない。つまり生還出来る可能性はかなり低いのだ。
「勘兵衛。吉報を待っておれ。」
正親と半左衛門は高揚感を抑えながら、勘兵衛を一人残して去って行った。
六
昼九つの鐘が鳴って時を知らせる頃、豆腐売りが調達屋を訪れおしのが豆腐を数丁買っている。購入した豆腐をそそくさと奥間へ持っていく。
奥間には多都馬や須乃、丹と数馬、弥次郎が待っていた。
「おぉ、待ってました~!」
弥次郎はおしのが来たと同時に台所へ皿を取りに行く。食卓に並べられた豆腐の食卓を華やかにする。弥次郎以外、小分けされた豆腐に早速箸を伸ばす。弥次郎は自分の皿に乗せられた豆腐を見つめていた。
「どうした。食わぬのか?」
不審に思った多都馬は弥次郎に尋ねた。
「多都馬様と須乃様のご好意により、毎度毎度贅沢な食事を頂かせておりやす。」
「贅沢なんて、そんな・・・。」
「少しは遠慮しないと元締に怒鳴られそうで・・・。」
「弥次郎。」
数馬が弥次郎の名を呼んだ。
「はい・・・。」
「食卓を皆で囲むのは、叔父上が決めたこと。そして、美味しい物は皆で食べるとより美味しく食べられるもの。」
数馬は弥次郎に優しく微笑んだ。いつの間にか頼もしく成長したものだと、多都馬も須乃も数馬を見てそう思った。
食事が一段落して一同、須乃が淹れた茶で一息入れていた。その時、調達屋の裏木戸に人の気配がして多都馬と弥次郎が反応する。
「多都馬様。」
「あぁ、わかっている。」
裏木戸の戸が開いて、編笠を被った侍が入ってきた。多都馬は、即座に刀を左に置き柄に手を置いた。弥次郎が須乃たちを守るように、多都馬の背後で戦闘態勢に入る。
「何者だ。」
弥次郎が多都馬の背後で叫んだ。
「御無礼の段、平にご容赦を・・・。」
編笠の侍は手をかざして頭を下げた。
「手前、広島藩探索方/外聞衆組頭/野尻次郎右衛門と申します。吉長様の命により参上仕りました。」
多都馬は、後ろで警戒している弥次郎に” 味方 “であると合図を送る。
「若殿の命だと?」
「はい。我等の掴んだ事を多都馬殿にお知らせしろ・・・と。」
「それで、何を掴んだ。」
「今、仙石伯耆守様が米沢藩上杉家を訪れております。」
「何のために。」
「江戸御城下を賑わせておりまする。旧赤穂藩士殺害事件についてだと思います。」
「米沢藩の仕業だという証はないはずだ。」
「一刀彫という米沢藩縁りの木彫りが決め手として、北町奉行の保田越前守様が上申したのでは?」
「馬鹿な・・・あれは米沢藩に疑いを向けさせるための餌だ。」
「伯耆守様は、そうは思わなかったようで・・・。」
須乃は場の空気を察し、丹と数馬とおしのを連れて二階へと上がって行った。
「それで・・・。」
先を読んで多都馬が次郎右衛門に言った。
「我等は名だたる外様、御三家、旗本に網をかけて参りました。」
「どこが引っ掛かった。」
「尾張藩でございます。」
多都馬は驚かなかった。統率された集団を抱えられるのは容易なことではない。少なくても石高十万石以上の藩しかいないと考えていたのだ。
「その尾張藩が今夜、仙石伯耆守様を襲います。」
「何だと!」
「米沢藩上屋敷の帰路を襲うか、仙石伯耆守様の御屋敷を襲うか・・・どちらかの手立てを練っている事でございましょう。」
「米沢藩上屋敷へ行くぞ!」
「お知らせするおつもりですか?」
「今、行けばまだ間に合う。」
「しかし、上杉家が取り次いでくれるかどうか。」
「俺の名は、家老の色部が知っている。訪ねて行けば尋常ではない事態だと、すぐにわかる。」
「では、参りましょう。」
「弥次郎!須乃たちを頼むぞ!」
「はい!」
多都馬は刀を差し、次郎右衛門と共に米沢藩上屋敷へ向かって行った。
七
芝西久保明舟町に仙石伯耆守久尚の屋敷はある。時刻は亥の刻を過ぎて辺りは静まり返っていた。節約のためか仙石家をはじめ殆どの屋敷の灯りは灯されていなかった。
成瀬隼人正正親と岩見半左衛門は、夜陰に紛れ仙石伯耆守の到着を待っていた。屋敷と屋敷の間の通りは狭く、夜は月明かりも届かない。
「御家老・・・、来ませんな。」
「長引いておるのだろう。」
「もしや、感づかれたのでは?」
「馬鹿な・・・討ち手は、そちとわしだけ、配下の者は屋敷に控えさせておる。」
正親と半左衛門は、槍組配下の者を引き連れて行かなかった。
「供回りは、せいぜい十人程度。我等の敵ではござりませぬ。御家老。尾張柳生新陰流の腕、衰えておりませぬな。」
「剣の尾張ぞ。日頃の鍛錬、欠かさずやっておるわ。」
「これは、御無礼仕りますました。」
正親と半左衛門は、互いに顔を見合わせて笑った。
「手筈通りに参るぞ。まず、わしが供回りなどの露払いを致す。その間に半左は、真っ直ぐ伯耆守を狙え。」
「御意。」
半左衛門が、馬の蹄の音を捉え十文字槍を構えた。
「来たな。」
正親は刀を抜いて突撃の用意をする。通りを覆う闇の中から、若党三人を先頭に編笠を被った仙石伯耆守が馬に乗って現れた。仙石伯耆守一行は、ゆっくりと屋敷の表門に向かってくる。
「まだ、まだ・・・。」
半左衛門が突撃する頃合を計り、正親に声をかける。ゆっくりと歩み寄る伯耆守の一行は突然その足を止めた。半左衛門が正親の肩を掴み引き戻す。
「まだまだ。」
するとその言葉が聞こえたかのように、伯耆守の乗せた馬が供回りを残して走り出す。出鼻を挫かれたような正親と半左衛門だが、一斉に伯耆守の馬前に躍り出る。正親が斬りかかるが、伯耆守は目にも止まらぬ速さで抜刀し弾き返す。
半左衛門は、先に斬り込んだ正親の背を利用して飛び上がった。馬上の伯耆守を突き刺そうと大上段の構えから唸りを上げて振り下ろす。馬上の伯耆守は半身になって半左衛門の十文字槍を躱して馬を下りた。十文字槍は空を切り勢いよく地面に突き刺さった。伯耆守のあまりの身のこなしに、正親も半左衛門もたじろぎ後退る。
「貴様〜伯耆守ではないな!」
半左衛門の十文字槍で切れ目の入った編笠を外し現れたのは多都馬だった。
「おのれ〜、何者!」
「尾張柳生新陰流に、宝蔵院流の槍術か。」
正親と半左衛門は、肩を並べて多都馬に立ち向かった。
「なるほど・・・汝等尾張の者たちか・・・。」
仙石伯耆守の供回りの者たちも刀を抜いて駆けつける。仙石伯耆守の供回りは、外聞衆の次郎右衛門たちだった。
「手出し無用!」
半左衛門は、目の前の多都馬に背筋を凍らせた。柳生新陰流の太刀を弾き返し、乾坤一擲の一撃を躱した男が目の前にいるのだ。
「貴様が十郎太たちを・・・。」
半左衛門は十文字槍を中段に構える。
「某が時を稼ぎまする・・・その間に、お逃げ下され。」
半左衛門は小声で隣の正親に囁く。
「何を言う。そちを残して行けるかっ!」
「この男、ただ者ではござりませぬ。恐らく我等に勝ち目はありませぬ・・・。」
構えたまま打ち掛かってこない相手に、多都馬がしびれを切らして言う。
「おい、何をぶつぶつ言っていやがる。参らぬなら、こちらから行くぞ。」
半左衛門は中段の構えから、多都馬に向けて息もつかせぬほどの速さで突き出す。十文字槍が、撓りながら多都馬を襲う。多都馬は刀を合わせず、紙一重で難なく躱していく。
「早く!」
半左衛門は叫ぶが、正親は多都馬に向かって斬り込みにいく。多都馬は斬り込んでくる正親に、十文字槍の突きを躱しながら“ 心の一方 ”を放った。正親は握っていた刀を落とし体は石のように固まり動けなくなる。
「か・・・体が。」
この有り様を見た半左衛門は驚愕して動きが止まる。
「二階堂平法・・・心の一方。き・・・貴様、何者だ。」
「最早、勝負はついている。得物を捨てろ。」
額に汗が玉のように吹き出しているが、半左衛門は多都馬の忠告を聞かずに大上段に構えた。
「そうか、では・・・死んだ赤穂藩士の無念、晴らさせてもらうぞ。」
多都馬は刀を鞘に入れ、二階堂平法・奥義/一文字の構えで半左衛門と向き合う。
― 馬鹿な、この間合いで居合いだと?―
半左衛門は多都馬を見て、構えを中段に変える。
― 中段からの突き一点に賭ける。この間合いでは奴の切っ先は届かぬ。 ―
半左衛門は刀が抜かれる多都馬の胴を狙い十文字槍で突き刺す。空気を切り裂く音が闇夜に響き渡る。十文字槍の切っ先が多都馬の胴を貫くと思われた。しかし、垂直に斬り上げた多都馬の刃は、十文字槍を真っ二つにしていた。多都馬は二の太刀で半左衛門の頭を斬った。
「お・・・お見事。」
半左衛門は、崩れるように倒れる。手は真っ二つされた十文字槍を握りしめたままだった。多都馬は血振りをして刀を鞘に収めた。多都馬は倒れている半左衛門を見つめていた。毎度漂う虚しさを堪えながら、多都馬は固まって身動き出来ない正親を見つめる。正親は次郎右衛門等、外聞衆に取り囲まれていた。
「お主、名は?」
正親は外聞衆たちに脇差しも取り上げられ身動き出来ず立ち尽くしていた。
「どのように問い詰めようと、その男は名乗るまい。」
近寄ってきた多都馬が言った。
「今、術を外す。後は、勝手にすりゃいい。」
「多都馬殿!御公儀に・・・大目付に突き出すのではないのか!」
「そんな事をしても、また赤穂藩のように路頭に迷う侍が増えるだけだ。」
「しかし、このまま放免してしまっては・・・。」
次郎右衛門は、多都馬の決断に納得がいかなかった。
「心配しなくても、この男は逃げたりはしないさ。」
そう言いながら、多都馬は“ 心の一方 ”の術を外した。術が外れ正親は、力が抜けたように崩れ落ちる。
「わ・・・脇差しをくれぬか。」
「返してやれ。」
外聞衆の一人が取り上げた脇差しを正親に返す。
「かたじけない。」
そう言うと正親は脇差しを自分の腹に突き刺した。苦悶の表情を浮かべる正親に次郎右衛門が歩み寄る。
「介錯仕る。」
そして、次郎右衛門は正親の首を斬り落とした。正親の血で通りの道が真っ赤に染まっていく。四半刻ほどの出来事だったが次郎右衛門等には一日を過ごしたかのような疲労感が漂っていた。
八
尾張藩/家老の渡辺定綱と甲賀五人衆の鵜飼勘兵衛は、下屋敷の裏にある箱根山を登っていた。山と言っても小高い丘のようなもので、本家の箱根山に遠く及ばない。しかし、鬱蒼と草木は生い茂り、月の明かりは地面には届かない。
「御家老、嫌な予感がいたします。ご油断無きよう・・・。」
定綱と勘兵衛は左手で鞘を握り、親指で鍔を持ち上げ歩いている。草木が僅かに開けた場所に、二体の遺体が荷車に載せられていた。二人は荷車に駆け寄る。二体の遺体は、成瀬隼人正正親と岩見半左衛門だった。
「投書の通りでしたな。」
勘兵衛は辺りを警戒しながら呟く。
「約束通り二人だけで来るとは大した度胸だな。」
物陰から多都馬と次郎右衛門の二人が出てくる。その方向に向き直り勘兵衛は臨戦態勢を取る。
「何者か。」
勘兵衛の左の親指は刀の鍔を押し上げている。
「そんな事は、どうでもいいじゃね~か。」
「何だと!?」
「それよりも・・・。尾張藩、これからどうする。」
勘兵衛の耳に多都馬の言葉は届いていなかった。
「半左・・・。」
勘兵衛は半左衛門の遺体を見つめ体を震わせる。
「お主が斬ったのか。」
多都馬は頷いた。勘兵衛は多都馬に視線を送り、居合いを繰り出す構えを取った。
「居合いか・・・。」
多都馬は勘兵衛の構えを見て呟いた。
「構えろ!」
案山子のように立っている多都馬に勘兵衛が叫んだ。
「待て!我等は争うために呼んだのではない。」
次郎右衛門は臨戦態勢の勘兵衛に言った。
「無駄だ。こいつ等の耳には届かねーよ。」
「多都馬殿!」
「さ、もっと後ろに下がってな。」
次郎右衛門は、邪魔にならないように下がっていく。
「遠慮はいらねー。かかって来な。」
勘兵衛は少しずつ腰を落としていく。多都馬は相変わらず案山子のように突っ立ったままである。
無風だったその場所に突風が吹く。勘兵衛は、それを待っていたかのように動いた。左手で刀を逆手で抜き、そのまま斬り上げる。多都馬が左に躱した残像を追って勘兵衛は二の太刀を浴びせた。
― 斬った! ―
そう思った時、多都馬の気配を背後に感じ振り返る。不意に首筋に冷たいものを感じ勘兵衛は動きを止めた。多都馬の抜き放った刀が、勘兵衛の頸動脈を捉えていた。
「殺れ・・・。」
勘兵衛は反撃しようにも出来なかった。妙な仕草を見せれば、清流のような動きで忽ち首が撥ねられていた。
「ここに呼んだのは、斬るためじゃない。」
「何?」
「この男の意思を伝えるためさ。」
多都馬は成瀬隼人正正親の遺体を見つめながら言った。
「あんた達、尾張藩は藩主/吉通様のために何らかの陰謀に加担したのだろう。それは・・・決して私利私欲のためではないはず。」
定綱は心底を見透かされ膝を落とし、その場にうずくまる。
「さしずめ、泣き所を突かれたのだろう。」
「ま・・・まさか次期将軍家の座。」
次郎右衛門が堪えきれず口を挟む。
「尾張には将軍位を争うべからずという家訓がある。・・・これがあるため、よほどの事がない限り尾張から将軍は出ない。」
膝を落としている定綱の肩が悔しさの余り震えていた。
「吉通様を次期将軍家の座に据える事が出来る人物。その人物から、次期将軍家の継承を条件に陰謀に加担したのだろう。その陰謀は赤穂の悲劇を利用して、目論見通り江戸市中及び幕閣を震撼させている。だが、こいつは気付いた。尾張藩は利用されているだけ、決して尾張から将軍が選ばれる事はないと。」
定綱も勘兵衛もうなだれたままである。
「加担した陰謀から抜け出そうにも抜けられねーと悟った時、こいつは己の命で責任を取ったのさ。今後、尾張藩が首謀者と関わりを持たねーようにな。」
四人の間に沈黙が訪れる。風が吹いて草木を激しく揺らす音だけが聞こえる。
「氏素性は知らぬが、俺たちも命を賭けたこの男の気持ちは無にしたくはない。後の始末は任せるから好きにしな。」
「公儀には届けぬと申すのだな。」
多都馬は、黙って頷いた。
「ま・・・待て。」
勘兵衛は立ち去ろうとする多都馬と次郎右衛門を呼び止めた。
「奴等を相手に戦うというのか?」
多都馬は不敵な笑みを浮かべ、勘兵衛に向かい頷いた。
「手強いぞ。特に“ 織人 ”という名の男、怪し気な剣術を使う。倒せるか?」
「何人であろうと、俺たちの町を脅かす奴等は必ず倒してやる。」
立ち去る多都馬たちの後を追うように、小さな木枯らしが箱根山の山道を吹いていた。
九
品川宿の外れの流円寺の本殿に織人と一右衛門はいた。寺の裏側の雑木林が吹く風に煽られ激しく揺れている。
「風が強くなりましたね。」
部屋のどこかに隙間があるのか、行灯の火が揺れている。
「・・・織人様。尾張藩の事、いかがいたしましょう。」
一右衛門は空になった織人の盃に酒を注ぎながら言った。
「何がですか?」
「我等に断りもなく大目付を襲った件でございますよ。」
「あぁ。先程、一右衛門さん配下の者が血相を変えて知らせてきた一件ですか?」
「はい。捨て置く事は出来ません。」
真剣な面持ちの一右衛門に対し、織人は相変わらず笑みを浮かべていた。
「捨て置かないって、何をするつもりですか?」
「まずは、生き残った者の始末。その旨、御所様へご報告申し上げ、御指示をお待ちいたしまする。」
「そのようなこと、なさらなくともよいではありませんか?」
驚愕している一右衛門に織人は、更に続けて話をする。
「第一、我等にそんな暇はありません。」
この瞬間、微笑みを浮かべていた織人が真顔になった。
「前にも申しましたが、どんな弱者も追い詰めれば思いもよらぬ抵抗をするもの。ならば、そのようなものは捨て置くのが一番です。」
「しかし、我等のことを外部に漏らすやも知れませんぞ。」
「御心配無用。彼等とて自ら墓穴を掘るような真似はしませんよ。」
真顔だった織人の顔は、いつもの不気味な笑みを浮かべた表情に戻っていた。
「それよりも、やはり現れましたね。」
一右衛門の盃が空になっているのを見て、織人はさり気なく酒を注いだ。一右衛門は申し訳無さそうに盃を手に取った。
「あ、これは・・・どうも。」
一右衛門は注がれた酒を一気に煽る。
「織人様。何が現れたと?」
「仙石伯耆守を救ったのは、恐らく公儀の手の者ではありませんよ。」
「何者でしょう。」
「例の・・・二階堂平法の男ですよ。」
「何故、そう申されます。」
「あの尾張藩の家老、成瀬某とお抱えの甲賀の者共。特に槍と居合の男は、相当な遣い手です。それを騒ぎも起こさず、仕留めています。そのような事が出来る者が他におりますか。」
一右衛門は大きく溜息をついた。
「如何いたしましょう。」
「まずは我等の計画が第一優先。ま、何れどこかで相まみえることでしょう。慌てることはありませんよ。」
織人は一右衛門の前で高らかに笑ってみせた。織人とは対照的に一右衛門は険しい表情を浮かべていた。部屋の隅で行灯の火がゆらゆらと揺れている。揺れ動く火を見つめながら、何れ訪れる直接対決への不安を抱く一右衛門だった。
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