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第1話【ペルセウスの夜】
私たちはあの頃、笑いながら、青く透明な風の中を駆け抜けていた。
そこには何もなかったけど、世界は輝きで満ちあふれていた。
「どうした、今日はやけに大人しいじゃないか」
彼が私の後ろで声をかけた。
マンションのベランダで手すりに腕を乗せ、夜の街の光を見下ろしていた。
大人になって、ふと思うことがある。
いつの間に、こんな所まで来てしまったんだろうか。
「何かあったのか?」
「別に……。私って普段そんなに騒がしい?」
「いや……、いつにも増して大人しいってことさ」
彼が後ろからそっと抱きついた。夏の熱気が背中にこもる。
「……なあ、不安になるんだよ。俺何か悪いこと言ったかな」
彼は優しい。気が利くし、お金もあるし、顔も悪くない。男として完璧に近いと言っていいかもしれない。
一介のOLでしかない私が、こんな高層マンションのベランダで物憂げにネオンを見下ろせるのも、全ては彼の力のおかげだ。
「星、見えないね」
「あ? ああ……、今日は曇りだって天気予報も言ってたろ。晴れたとしても、こんな都会じゃ大して見えないだろうさ」
泣けてきたので、手すりに乗せた腕に顔をうずめた。
私は、わがままだ。どうしようもなく、わがままだ。
こんなに幸せなはずなのに、心がどうやっても満たされない。
「そんなに見たいなら……来年、友達の別荘借りて山の方にでも行こうか。伊豆だったかに誰かが持ってたと思うんだよな。あっちは涼しくていいんじゃないかな」
違う。私が欲しいのは、そんな事じゃない。
私が欲しいのは、この心が求めてやまないものは、私の手には届かない。
彼でも手に入れられないもの。
「……ホラ、もう部屋に戻ろうぜ」
腕で顔を隠しながら、いやいやと首を振った。
私は、わがままだ。
彼は小さくため息をつくと、私から離れた。夏の夜の空気が、背中に流れた。
「カクテル作って待ってるよ」
静かに部屋に戻って行く足音が遠ざかった後、私は顔を上げた。
涙の跡を、都会の湿った風が撫でる。
泣き叫びたいほど、この手が、この心が求めるものは、遠く遠い、遠い遠い、過去だ。
「あなたも今、見てますか」
見上げた空は、厚い雲で月明かりさえも見えなかった。
この上では今、数多の星々が大気との摩擦で燃え上がり、綺麗な閃光になっているんだろう。美しく碧い地球に恋をした星は、近付き過ぎると、死んでしまう。衛星のように付かず離れずの距離を保ち続けなければ、その引力に引き寄せられて、やがては燃え尽きる。
今日は、ペルセウス座流星群の最接近日だった。
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