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「君に、いったん本部を預けたいんだ」
たっぷりと数秒の間を置いたというのに、夜久燎の口からまず漏れたのは、はあ、という気の抜けた返事だった。
「それが兄師とやらの命令ならば、俺に拒否権はあるのかなぁ」
目の前にいる男、綱島渚はゆったりと椅子に腰掛けて微笑み続けている。モブ、という言葉が頭によぎる。綱島は、見た目は文字通りどこにでもいそうな男性だった。
特徴自体がないわけではない。現代日本において男性には珍しく、伸ばした長い髪をくくっているのだから。だが、それでも彼は人混みにいれば紛れてしまいそうな印象を受ける。どこにでもいる、そう思わせるのはどうにも薄味でぼんやりとした顔立ち、すなわち塩顔だからだろうか。
だが、彼がただのモブではないことを夜久はよく知っていた。彼は、この教団、光の家においてトップの存在、すなわち教祖だからだ。教団内では教祖とは呼ばず、兄師と呼んでいる。兄、としたのは教祖と信者の関係であれども近い立場の存在であるから、ということになっている。光の家、と言う名前を冠する通り、信者を家族と呼び、己を兄と呼ぶのだ。夜久をはじめとした幹部は侍兄、あるいは侍姉、家族同士は弟やら妹やらをつけて互いを呼び合う。
綱島は、夜久が何か言うのを待っているのだろう。だが夜久の脳はぴたりと働くのをやめてしまったかのように次の言葉を見つけられずにいた。しばらくしても何も喋らないとわかると、男は緩慢な仕草で口元に手を当てる。
「この教団で信頼が置けて仕事ができる、すなわち適任なのは君だろう? だから頼みたいんだ」
穏やかで柔らかな低音。強制力のないように思えるその声が、しかし夜久の頭を抑えつけた。
「わかった。詳しい話を聞かせてくれ」
目の前に置かれた椅子を引いて座る。綱島の笑みは深まることもなければ消えることもない。まるで全てが予定調和に収まっていくとでも言いたげだ。夜久が拒否するということは一切考えなかったのだろう。嫌だ、と突っぱねてしまえば彼の驚く顔の一つも見られただろうかと、できやしないことを考えながらいつものように背中を丸めた。
「家族が増えて、ここも手狭になってきただろう? 遠方の家族も増えてきたし、こことは別に支部を置こうと思ってね」
そう言った綱島の後ろに、別の人間の影を見た。
「誰が提案を?」
「西田君だよ。確かにその通りだと僕も思ってね」
その言葉に、夜久は溜息を吐いた。そうだと思った、というのが夜久の率直な感想だった。
この宗教団体――正しく言えば、ほとんどカルト集団であり、上層部が搾取を行う形の信者ビジネスなのだが――がまだ小さな母体であったときから夜久は中枢で運営に携わっている。携わっている、と言っても、他の上層部のように教団が運営する会社に属して仕事をしているわけではない。真っ当な仕事に就いているから、副業にならないように宗教活動として無償で手を貸している状態だ。宗教的奉仕活動と言えば聞こえがいいが、実質サービスというわけだ。
この組織で夜久のサービスが発展に寄与してきたことは事実であり、だからこそ今回の大役が回ってきたことは周囲から見て不自然ではない。しかし、あくまで裏方として振舞ってきた夜久にわざわざ話が上がるのには違和感があった。小さな疑心は、西田の名前があがったことにより確信に変わった。
西田敦彦、彼もまたこの教団が創設された時分からいた初期メンバーであり、現在幹部の一人である。しかし、金にがめつく、信者を金ヅルだと思っているのが容易に透けて見えるタイプである。もとより金のためにしか動かない男だ。今回もその金ヅルを増やそうと画策しているのだろう。
であれば、わざわざ夜久を指名してきたのは、支部を設立する過程で何かしらの理由で夜久が邪魔であったと見るのが妥当だ。そうでなければ両方のグループを手中に収めようとする男だ。
教祖の手直々にグラスに注がれたアイスティーをストローでくるくると無意味にかき混ぜる。擦り切れた白い袖口がスーツから覗いているのが目に留まる。こんな風によれた服を着ている人間を上に据えて大丈夫なのだろうか、と他人事のように思った。
カラカラと鳴る氷の音と、綱島のゆったりとした声が混ざって、徐々に己の呼吸がその音と重なる。彼のテンポは心音にでも近いのだろうか。なんとなく心地よくなり、瞼が落ちてきそうになる。話の内容は右から左に流れていくどころか、頭上を通過していった。あるいはそれは、現実からの逃避であったのだろうか。概要が頭に入らないわけではないが、その言葉がきちんと実感を持って脳に、心に落ちてくるのに時間がかかっていた。綱島が、この場所からいなくなることを理解できていなかった。
もしくは、綱島がこの場所を離れることしか理解ができていなかったのか。
「そういうわけでね、しばらく僕は支部のほうをメインに顔を出さなくちゃいけないから、その間本部を管理してほしいんだよね」
返事が出来ずにまた数秒の沈黙。その間、やっぱり綱島は断られるなんて欠片も思っていない顔で微笑んでいる。そして夜久もまた、断ってしまえばいいのに、と思いながらもわかった、と口にしていた。その瞬間、ぎゅ、と強く心臓を握られたような心地がするのに、それ以上何かを言うこともできずに膝の上に下ろした手を握りしめる。
「よかった、頼むなら君しかないと思っていたんだよ」
その言葉に、唇の片端だけを吊り上げて応えた。ありがたいとも嬉しいとも思えず、しかし、邪魔者をよそにやりたいだけだろうとか、仕事の分の報いもないくせにとかそんな批難も向けられず黙り込む。彼だって、本当は、夜久がやりたくなんてないことくらい、わかっているだろうに。
「こちらには、いつ戻ってくるの?」
「そうだなあ、週に一度くらいは顔を出したいとは思っているけれど」
その答えが質問とわずかにかみ合っていないことから察した。
きっと、その後に続く言葉はわからない、なのだろう。ではいつわかるのだろうか。夜久の考えが正しければ、その答えは彼の中には存在していない。いつだって綱島の行動を決めるのは綱島自身ではなく西田だ。主体性がないというのとは微妙に違う。
綱島はいつだって微笑んで言うのだ。皆幸せがいいね、と。西田の決定に従って幸せになるのは西田本人くらいだ。信者の幸福とすり合わせるのはいつだって夜久で、夜久がいなければ綱島の言う皆幸せなんて永遠にやってこないだろう。
けれど綱島は西田の提案を聞く。それはおそらく、西田の言いなりになれば皆が幸せになるからではなく、西田を幸せにしないことには〝皆〟が幸せにならないからだ。そういうポーズなのか、無気力なのか、本当に博愛なのかはわからないが、それにしても行き過ぎだった。
その論理で行けば、実際に教団を回している夜久の幸せはどうなるのだろうと一瞬頭をかすめた。西田の言う通りにすれば、救われるとでも思っているのだろうか。だとしたら大間違いだと思いながらも、夜久はここから抜け出せずにいた。
光の家。たかだか十数年前に立ち上げられたこの集まりは、いわゆる新興宗教というものだ。下手になんとか教だの、なんとか会だのという名前よりも親しみやすさを重視して宗教色を減らした名前にしている。メインの宗教で謳っているものは存在するが、実際は宗教がごちゃ混ぜになった胡散臭いものである。新興宗教、といえば怪しい儀式やら金稼ぎやら、過激な思想やらというものが悪いイメージで挙げられるかもしれない。
そんな印象とは違い、光の家では実際は、と言いたいところだがそれがここでは真実だ。信者は違うと言うだろうが決して客観的な思考とは言い難い。それらで救われているとしたら、信者自身が過激な思想や、財を投げ打つことを浄財であったり、清貧の印象を持ち楽になっているだけだ。
集会はほぼ洗脳のための儀式だ。集金目的でグッズ販売は行うし、胡散臭い専門用語は集団意識を強めるのに使われている。勧誘をさせるのは、断られる体験により信者を社会から切り離して孤立させる意図と、その傷心をこの集団なら認め、癒してくれる印象を与える意図とある。そうして、徐々に周りの援助を受けづらく、逃げ場をなくしていく。幹部たちは暴利を貪り、心酔する信者たちは幸せになりたいがために湯水のように金を使う。ボロい商売だ。
そんな状態でも被害届が出ていないのは幹部連中の運営の腕の良さではなく、母数が大きくなく信者全体に目が行き届きやすいと、単純に運の良さ。
西田をはじめ、立ち上げ当初からいたメンバーはほとんどが綱島の学生時代からの知り合いらしく、彼らは皆、綱島のことをそれっぽいという理由で教祖に仕立て上げたらしい。当然誰一人綱島を本当の宗教家だとは思っていないし、信者のことも馬鹿な金ヅルだとしか思っていなかった。夜久自身も教祖としての綱島の言葉を信じていないことは同じだったが、目的が違った。
この薄汚い欲望渦巻く場所にいるのは、金のためではない。この淀んだ空気でも、外よりはまだ息がしやすい、たったそれだけのことだった。
それともう一つ。しばらく呼ばれていなかった名前を、綱島が呼んでくれたから。
「よるひさ……りょうくん?」
「よひさかがり、です」
「燎くんか。うん、覚えたよ。いい名前だね」
微笑んだ彼が手を伸ばす。
「僕と一緒に来ないかい?」
そう言った彼の手を握り返したあの日。自分の名前を呼んだ彼の声が、手の暖かさが忘れられなかった。
ドアがノックされる音で目が覚める。どうやら机に突っ伏し、自分の腕を枕代わりに眠っていたようだ。寝起き特有のけだるさのある体を起こし、どうぞ、と答える。声はかすれて喉に引っかかり、それなりの時間寝入ってしまっていたのが明らかだった。寝方が悪かったのか、外し忘れていた眼鏡の鼻あてが食い込んで痛む。
ドアを開けて入ってきたのは、一人の男だった。四十代半ばほどに見える彼は、おそらく綱島と同じくらいの年だろう。百八十七ある夜久よりもなお高い長身で、鍛えているのか、胸板は厚く、うっすらと年相応の脂こそ乗っているがたるんだ印象はない。唇を吊り上げ、楽しそうに笑ってはいるが、こちらを値踏みしているような気がする。荒柴竜義と名乗った彼は、どこにでも紛れられそうな綱島とは正反対の、どこか相手に重圧を与える男だった。
「リョウ侍兄、新しい入信者のデータ持ってきたぞ」
組織では、ずっとリョウ、と呼ばれている。燎という漢字からだ。本当はかがりだが、宗教関連の人間に本名を知られたくなかったこともあるし、万が一外で出会った際、名前を呼ばれるのが嫌だったのもある。だから、あえてリョウ、で通していた。本名を知っている綱島にもそう呼ぶように頼んでいる。
「そう、ちょっと入力するから貸して」
荒柴は手に持った書類を差し出してくる。スリープモードに入っていたパソコンを立ち上げ、目を細めて打ち込んでいく。
最初から紙ではなく入力フォームに記入してもらい、デジタル化する手間を省いてほしいと思う。だが、一方で、講演会場で熱気に浮かされたまま書くほうが心理的にハードルが下がり、個人情報を入手しやすい可能性もある。迂闊に改善できずにいる点の一つだ。
面倒臭いと思いながらも横に置いた紙を見ながら、キーボードを叩いていく。字が見えづらくて顔を近づければ、ただでさえ猫背の背中がさらに丸まった。
その背中から覗き込むようにしながら荒柴が尋ねる。
「目、悪いのか」
「見ればわかるでしょ、眼鏡かけてるんだから」
夜久はその問いにすげなく返してタイピングを続ける。
「眼鏡かけてても見づらいのか? 字も随分でかくしてるし、度があってないんじゃないか?」
そう言いながら、荒柴はパソコンの画面を指差した。パソコンの画面は、一般的に使われているよりも数倍すべての文字を大きめに表示している。それに気付かれたことに、思わず舌打ちをしかけてなんとか堪える。
荒柴は、本部を任されるときに補佐役として置かれた人物だ。推薦したのは西田。
要するに、夜久が西田に不都合な動きをしないように配置されたのだろう。あるいは、何か弱味を握るためか。
利益以外には目が行かない西田と同程度の頭しか持ち合わせていないかと思えば、存外細やかに気が付く男だった。知られたくないことを全て見透かされてしまうような感覚に、荒柴がいるときの夜久はいつもぎこちなかった。
「老眼でね。小さいと読みにくいんだ」
適当に嘘を吐く。
追及されるのが煩わしかった。本当は、弱視と羞明のせいだ。眼鏡で矯正したところで視力があがらないし、強い光を眩しく感じる。ただ、視覚障害レベルまではいかないギリギリのラインなので、日常生活は送れる。そのためわざわざ周りにそれを伝えはしなかった。スマホの画面よりかは、ある程度文字サイズをあげられるパソコンやタブレットのほうが、工夫をすれば使いやすくなる。もちろん輝度はかなり落とす必要はあるが。
「老眼にはまだ早くねぇか? 俺もそろそろ危ないけども」
肩をすくめた荒柴は、嘘を吐かれたとわかっていて言及しないことに決めたようだ。近くにあったパイプ椅子に座り、机に肘をついて電子データ化する様子を見つめている。その視線が鬱陶しく、少しでも平静になろうと煙草を咥えて火をつける。俺も吸うか、と目の前で彼が煙草を取り出したのを見て、夜久はなおさらうんざりとした気分にさせられた。これで、少なくとも煙草一本分は彼と一緒だ。
「何か?」
別のところで吸ってくれやしないか、の意図を込めて夜久は聞く。
「いいや、特に何もないんだが、あんたはどうしてここに?」
閉口。沈黙の隙間に荒柴が言葉をねじ込んだ。
「リョウ侍兄は、兄師サマの言う神様とやらのことは信じていないんだろう?」
「いいやいいや、俺はそりゃあもう敬虔な信徒ですから」
「その言いぶり」
へらへらとかわそうとした自分に、きつさはないが鋭い切り口で言葉が紡がれる。じっとこちらを見る瞳は、探りを入れるようだった。身が固くなる。どれほど些細なものであろうと、弱味を見せるわけにはいかなかった。短くなってきた煙草の灰を灰皿に落とす。いつになくペースが速く、どこか後ろのほうで見ている自分が、己の弱さを指摘してきた。
「信者のやつとは違うのはわかる。だいたいうちの幹部は全員信じてるのは神じゃなくて金だろう? でも、あんたはその金にも頓着しているように見えない」
そうかねぇ、金は大事だよ、なんて言ってみせるものの、荒柴が信じている様子はなかった。ふう、と溜息を吐いて軽く首を振る。
「大したプロファイラーさんだ。で、あんたにそんなこと言ってどうする?」
「ああ、なるほど、言いたくないってこと」
「そういうこと」
夜久のおよそ感じがいいとは言えない対応にも、荒柴は特に気にした風でもなく足を組み直し、机の上に置かれていたペンを手にして何をするでもなく弄んでいる。用がないなら早く出て行ってくれ、というオーラを出しながらキーボードを叩く夜久の様子がわからぬわけでもないだろうに、鼻歌を歌ったりしている様はひどく機嫌がよさげで、それがさらに夜久を煽った。
嫌がらせをして楽しんでいるのだとしたら、最悪だ。
「荒柴弟」
「ああ、邪魔したか。そうそう、手伝うことは?」
「次の集会の準備だけしてくれれば」
「要するになんもないってわけね。本部を任されて、ずっとそれね。適当にやればいいのに」
揶揄するような口調。適当にやれるのならやっている。その結果回らなくなった仕事を処理するのも自分なら、最初から真面目にやったほうがマシだった。苛立ちを吐き出すように、夜久は深呼吸をした。
「別に、適当にやってるよ、俺は教祖じゃあないんだしね」
パソコンをシャットダウンして立ちあがれば、彼もまた立ち上がる。
「まだ何か?」
「いいや」
どこか呆れたように肩をすくめて、荒柴は夜久よりも先にドアの向こうへと消えていった。ようやく息ができる気がして、夜久は倒れ込むようにして再び椅子に座る。大きく息を吐いて背もたれに体をもたせ掛け、天井を仰いだ。蛍光灯の光が網膜を焼いて痛い。ぎゅっと目を閉じて、目元を軽く揉むが、そう簡単に疲れは取れない。寝起きのだるさはもうないが、別の疲れが体を重たくさせていた。
ずっとそうしているわけにもいかず、再び立ち上がり、帰り支度を済ませる。上着を羽織って外に出れば、冷たい空気に息が白く溶けた。
玄関に入り、極限までしぼった照明をつける。一般的な視力の人間にとっては暗すぎる部屋だったが、夜久にとってはちょうどいい明るさであった。鞄と鍵を定位置に置いて、コートとマフラーをハンガーに引っ掛けて、まず手を洗ってからパソコンの前に移動する。おおよそ毎日繰り返されるルーティーン。
机の上には昨日飲みかけで寝落ちたせいで、完全に炭酸が抜けたビールが置きっぱなしだ。げんなりしながら中身をシンクに流せば、薄黄色の液体がどぽどぽと音を立てて無意味に排水溝に流れていく。
はあ、と溜息が漏れたのと、ぴちゃりと最後の一滴が落ち切るのは同時だった。軽くゆすいでシンクにさかさまに缶を置けば、隣にあったエナドリの缶にカツンと音を立ててぶつかった。
へばりつく憂鬱を拭い切れぬまま、足元にずらりと並んだ瓶の中からウイスキーを手に取ってグラスに注ぐ。そのままその瓶とグラスを手に足を引きずって机の前に戻ってきた。適当に買ってきたソコソコのウイスキーを口に含めば、カッとアルコールが喉を焼く。何も入っていない胃に落ちれば、いきなり体温が数度上がったような感覚。ふと目を横にずらすと、鏡が目に入る。そこに映っているのは不健康そうな男の顔だった。ぼさぼさの髪は目元をほとんど覆っていて、お世辞にも清潔感があるとは言えない。その生え際がだいぶ白くなっているのを認めて辟易とする。前に染めたのがいつだったか忘れたが、もう伸びてしまったようだ。
夜久は、既に四十年弱付き合ってきた己の厄介な体質に何度目かもわからぬ溜息を吐いた。先天性色素欠乏症、通称アルビノ。無駄に目立つ白い髪、日光に弱い肌、視力矯正の効かない目、いいことなんて一つもなかった。
また染め直さなくてはならないと考えて、ただでさえ憂鬱な気持ちがますます沈む。机の上に置かれた錠剤を手に取り、酒で流し込む。そこまでしたところで、睡眠薬が安定して眠気をもたらしてはくれないことを夜久はよく知っていた。だからといって酒の量を増やしたところで解決するわけでもない。諦めつつも、ウイスキーをまた一口含む。
今夜も気持ちよく眠れそうにはなかった。
宗教、というのは盲目的なものだ。
サイズが微妙に合わないズボンに、袖のすり切れかけたシャツを着ていても、登壇すればすごい人になってしまう。
スローガンを全員で唱和する。気持ち悪いくらい声がぴったりと重なった。すらすらと教義を語り、いつものように信者の声を聞く。身の回りで起きた些細なことを教義と繋げて得意げに話す人に微笑んで拍手を送れば、会場全体から大きな拍手が上がる。正直、本人がそうやって解釈しているだけで、屁理屈もいいところであるような内容も多数混ざっている。現世家族との不和があっても光の家で徳を積めば解消されるだとか、光の家の教義を理解せぬ家族は魂が汚れていて、それを自分が修行すれば解決するだとか。家族のいないものは、現世家族に囚われず、光の家の一員として集団に帰属しているためしがらみが少ないだとか。胡散臭いそんな話を、集団からの強い肯定によって受け入れていく。麻薬のような満足感を信者に覚えさせるための手段だ。ここにいれば居場所がある。自分は大事にしてもらえるし、間違えることもない。そんな風に錯覚していき、どんどんこの教団から抜け出すことが難しくなっていく。負のスパイラルにぞっとしつつも、顔に笑みを張り付ける。
「素晴らしいですね。その努力は報われ、必ず幸福が訪れることでしょう」
「ええ、そうなのです。教えを理解できない家族の魂を救済するためにも私が教えの素晴らしさを広めていかないといけません。その力で家族の心を清めるのです」
実際は、カルト宗教から家族を必死で引きはがそうとしているだけだろうに捉え方次第で随分と変わるものだなぁ、と夜久は冷めた目で信者たちを見つめていた。いいことがあったら教えに従ったおかげ、悪いことがあったら教えに従えば救われる、あるいは教えに従わなければもっと酷い目に遭っていた。同じことが起きていたとしても、そう思うだけで人生が明るく感じられるようになるのならば、それもきっと一つの幸福なのであろう。夜久自身はそのカラクリを知っている以上、そうは思えないだけで。
「日頃から世界のエネルギーを強く感じているのは、あなたがそのように努めているからです」
「ありがとうございます、リョウ侍兄」
ぺこりと頭を下げて彼女が席に着いたのを確認して、次の信者に話を回す。
毎回ほとんど同じ主旨の話しかしないのに、よくもまあ続くもんだと思う。視界の端に立っている荒柴は噛み殺しもせず堂々と大きな口を開けてあくびをしていた。一般信者であれば不敬だ不遜だと言われる態度だが、彼のことだ、うまく理由をつけるだろう。それなら自分の代わりにここで説教まがいのことをするか、司会進行の一つでもしてくれたらいいのに、と一瞬頭をよぎり、馬鹿げた発想だと打ち捨てた。
ここの管理を任されているのは、あくまで自分だ。彼に任せて責任を負うよりかは自分で管理し、ミスをしたら己で尻を拭うほうが幾分か気持ち的に楽だろう。
集会が終わり、ざわざわとした喧噪が部屋に響く。しかし、部屋全体がざわめいているようで、その実ぽつりと開いた空間が存在していた。人の輪から外れたところに置かれた椅子には、一人の男性がじっと膝に拳を置いて俯いていた。その男に周りの人間は声をかけないし、それどこか一瞥すらしなかった。
ふう、と口から息が零れた。
彼は、教団に所属する家族の中でも魂が穢れている、とされているものだ。きっかけは教えのうちのほんの些細な項目を破っただけであったが、教団のために支払っている金も少なかったため西田たちから目をつけられたのだ。以来、真言を書いた札を咥えさせられて、魂を清める、悪いものを体から出して調伏すると言われて殴られたり、水をかけられたりと散々な目にあっているのを目にしていた。それでもまだこの教団を抜けられずにいる。夜久は憐れだな、と思いながらもどこかで己の姿を重ねてしまった。
その暴行は、幹部の中では集団の団結を深め、かつ教団から抜ける人間を減らすことを名目とした西田たちの憂さ晴らしだった。だが、西田もその取り巻きも今は支部のほうへと行ってしまっていていない。生憎、夜久は暴力を振るいたいとは思わなかったし、それがカルト宗教としてのまとまりを生むとも思ってはいなかった。むしろ余計な反発を生んだり、警察に駆けこまれるリスクを生むのならばないほうがいいとさえ思う。
「篠村弟、こちらへ」
壇上から降りて彼に声をかけると、びくりと肩が震える。今から起きることに怯えたのがわかった。呼び出された後行われることを彼は重々承知していた。そのうえで、ここの教えが彼を救うと信じてこの集会にやって来ているのだ。
彼はきっとついてくるだろうと思いながらスタスタと歩いていき、物置と控室を兼ねた奥へと繋がるドアを開ける。後ろからついてくる足音がやけにゆっくりで、彼の心情を想像するのには容易かった。
そうして、一番奥の部屋に辿り着く。少し重たいドアを開けて中に入れば、そこは椅子だけが置かれている。
「さ、どうぞ」
「はい」
その声は上ずっている。
「とは言っても、俺は調伏は得意じゃなくてね。清めた水をあげることしかできないんだけど。だから、ある程度時間がたって皆が帰ったら勝手に出て行って帰っていいよ」
夜久がそう言って教団で販売している水を差し出すと、篠村はきょとんと目を丸くした。
「え、そんな」
「正直、かけて効果があるなら飲んだらもっと効果あるんじゃない?」
へらりと口元に笑みを浮かべれば、彼の顔がぱっと明るくなり、夜久の手の中にあるペットボトルを受け取った。
「いいんですか」
「嫌ならいいけどぉ?」
手をひらひらさせながらドアに手をかけた夜久の後ろで、篠村が深くお辞儀をした気配があった。
そんな彼を一人で部屋に残して部屋を出れば、ちょうど歩いてきた荒柴と目が合う。彼は少し驚いた顔をした後、笑った。
「優しいねえ」
「別に優しくなんてないよ」
優しい人間は、カルト宗教だとわかっていながらこんなところで幹部をしていないだろう、そう思いながらも控室に向かって行く。荒柴はまたまたぁ、と言いながら夜久の隣に並んだ。確かに行く先は同じなのだが、こうして二人揃って歩いているのは肩が凝る。
以前はなんとか取り込み、懐柔してうまく扱ってこようとする西田を避けて一人でふらついていたものだった。たまに教祖の隣を歩いていることもあったが、基本的にはへらへらと笑っている一匹狼として扱われていたし、実質そうだった。だが、最近は荒柴が寄ってくるものだから、そうもいかなくなった。
夜久が西田に付かないとわかってから、西田と夜久の間には、よくも悪くもむやみに干渉しないことによって安定を保つ暗黙の了解が成り立っていた。成り立っていた、というよりは、夜久が一人で自由にやっていることにより西田の利益になるのだと示して、無理矢理に距離をとって成り立たせたのだが。てっきり荒柴もそうしてくれるのかと思っていたが、そうではないらしい。
「まぁ、そんなに硬くならないでよ。俺もあまり暴力とかは得意じゃなくてね」
「よく言うよ」
彼が西田たちと一緒に拳を振るい、信者の腹を蹴り上げていた場面を夜久は覚えていた。楽しそうに笑っている西田のいやらしい顔を思い出して苦虫を噛み潰したような顔になる。
「いやいや、本当に。確かに喧嘩の心得はあるけどね。でも基本的に面倒だからねぇ」
その言葉は平坦で、面白がっている風ではなかった。いっそ退屈そうですらある荒柴の声に疑念を覚え、まさか本気で言っているのか、と視線を向けたところで、意味をなさない。ぽんこつな目は視界をぐにゃりと歪めて彼の顔の細部までを読み取らせてはくれない。しかし、面倒だと思っているのに人を踏みにじりなんの気もなく暴力を振るえる男だとするのならば、それはそれで問題があるのではないだろうか。
「だって、人にむやみに暴力振るってもなんの利益もないだろ? 別に俺はそこまでストレスも溜まってないし、暴力の趣味もないからなあ」
そう言ってポケットから煙草の箱を取り出している。荒柴が口に一本咥えた時点で窘める。
「灰、どうするつもりなの」
「おっと、つい癖で。部屋で吸うから許してよ」
荒柴の口元で揺らされる煙草に苛立ちながら、自分も煙草の箱に手が伸びそうなことに気が付いて手を引っ込める。外を見れば真っ青な青空が広がっていて、こんな気分のときも空が青く美しくて、なんだか笑えてきた。
「信じてない?」
「何を?」
唐突に会話が再開して、なんのことだろうかと思考を巡らす。
「暴力なんて振るいたくないってやつ」
そうだ、ともそうでもない、とも言いきれず夜久は考えあぐねる。その沈黙を肯定ととったのか、くすくすと笑い声が聞こえた。
「本当さ。確かに俺はクズで、別に暴力自体はなんとも思わない。けど、あの暴行に意味なんてないだろ? だから、しなくていいならやらない」
そう言って西田たちを小馬鹿にしたように笑う声に、底意地の悪さを感じて眉根を寄せた。いつも一緒になってやっているのに、己は違うとでも言いたげな響きを持っていた。長いものに巻かれているだけで、己は違うのだとでも言いたいのかもしれないが、夜久からしてみればどちらも同じことだった。
これは陰口の一種なのだろうか。西田たちとおよそ仲がよろしいとは言えない自分ならばそれをひけらかしてもいいということなのだろうか。それにしても、やり口が気に食わなかった。
「そんなこと俺に言っていいの?」
「信じてよ、って言いたいの。あんたは賢そうだからな。別に牙向いたりしないから怒らないでくれよ」
蝙蝠の言う話を信じたくなどないが、別にどっちでもいい、という曖昧な返事しかできなかった。下手なことを言って荒柴を刺激して得があるとは思えない。
「あんたの運営、俺は嫌いじゃないよ? 効率的だし前より集団にまとまりがある、いい感じだ」
ピリ、と胸に嫌な感覚がよぎった。
運営は、上々だ。そうでなくてはならない。この施設は本部であり、自分が何かやらかしたらゆくゆく西田にどのように足を引っ張られるかわかったものじゃないし、何よりもこの後綱島が戻ってこなくてはならないのだ。夜久は教団自体にはこれっぽっちも思い入れはなかったが、自分が任されたものを放り出すことはできなかった。
だが、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、綱島は本部に戻ってくるどころか顔を見せることすらなかった。
綱島のいない施設は、夜久にとっては苦痛しかなかった。
そもそも、夜久は人間が嫌いだ。会話を滞りなく行うことくらいはできるが、自分以外の誰かと長時間一緒にいると疲れてしまう。昼間は仕事で否が応でも他人と関わり、夜は教団で人と話をして、運営に関する雑務を片付ける、そうなったらすっかり自分のオフの時間がなくなってしまった。
それでも綱島がいる間はよかった。綱島は、夜久が一緒にいて疲れぬ唯一の人間だったからだ。と言っても、彼が夜久に何かしてくれたことはない。ただ、黙ってそこにいるだけだ。たまに思い出したように言葉を交わすだけ。
綱島は静かに本を読み、夜久は隣でカーテンを揺らす風を感じながら微睡む。心を通わせるような会話などもなく、内側に踏み込んでくるわけでもない。それでも、確かにそこに一緒にいる、そんな綱島の距離感が夜久には心地よかった。
どこにいても、それこそ教団の中にいてすら、同じ方向を向くまとまった集団の中で同じ方向を向けない一人だった。だが、綱島と二人でいるときは一人と一人だ。孤独同士、だからこそ一人じゃない。その冷たい空間が、どこで過ごすよりも温かく感じていたからこそこの場所に留まっていたのだ。その一片の存在意義が失われつつある今、じわりじわりと限界が近づいているのを感じていた。
「おう、そういえば聞いたか?」
綱島の代わりに目の前にいるのは、むしろ己を疲れさせる側の人間、荒柴だ。悲しいかな、それもまた随分と見慣れた光景になってしまっていた。
「来週、綱島兄師来るってよ」
「は!?」
夜久は思わず素っ頓狂な声をあげてしまい、きゅっと口を閉ざした。まったく予期せぬ言葉に、一気に心拍数が上がる。頭に血が上り、思考が全てストップする。平静を装うとしても、先ほどまで軽快にキーボードの上で踊っていた手が、今は行き場を探して彷徨っていた。
「い、つ……?」
なんとか絞り出した声は若干上ずって、ごまかすように咳払いをする。
「土曜じゃなかったかな。聞いてなかったか?」
暗雲。
浮足立った心に一気に靄がかかる。全く聞いていなかった。荒柴が知っているということは、おそらく綱島から直接連絡があったのではなく西田経由だろう。だが、そんな情報の経路は些末な問題だった。ただただ純粋に、夜久自身の元に連絡がない、それが無性に喉が詰まるような心地にさせた。
「任せるって言ったんだから報連相はきちんとしてほしいんだけれども」
夜久自身、そう言った口調に険があるのを隠し切れずにいることに気付いていたし、言い訳に過ぎないこともわかっていた。
仕事がどうとかではなく、ただ自分に連絡がないのが酷く虚しい。せめて、一日遅くなっただけであってくれ、そう願ったが、ついに綱島からの連絡は当日まで一切なかった。
久しぶりに教祖のいる集会は、満員御礼だった。
窓からドアから締め切った部屋の中、停滞した空気は湿度と熱気を保っていた。衣擦れの音くらいしかしないのに、妙な騒がしさを感じるのは自分が神経質であるが故か、はたまた彼らの欲望が渦巻いているのか。そんな詮無きことを考えながら聴衆を眺める。手持ち無沙汰で思わずポケットに手を伸ばしたが、この密室で煙草など吸うわけにもいかない。それに、今は大事な大事なお話がある。さすがに自分の立場であってもここで煙草を口にするのは他の信者からすれば不敬にあたるだろう。伸ばした手を下ろしながら舞台袖のようにして見えなくなった場所から演台のほうを見れば、部屋の入り口からカツカツと革靴の音を響かせて男が歩いて行く。この空間の中、唯一はっきりとした音を鳴らす主が演台に向かう。
そうして彼、綱島が口を開いた瞬間、音もないのに人々が色めきたったのがわかった。ぴり、と空気が張り詰め、会場の温度は二度ほど上昇する。
「おはようございます、皆さん」
テンポが遅めのテノール。歌っているようにも聞こえる柔らかな声が、会場の空気を一気に塗り替えていった。
「リョウ」
集会が終わり、信者と交流を済ませた綱島が夜久のもとに歩み寄る。
「なに?」
「いいものがあるからおいでよ」
ゆるりと微笑んで彼は出口へ向かった。寄りかかっていた壁から体を離し、その背を追う。
「綱島さんも、あの陰気な男の何がいいのかね」
西田の取り巻きの中傷は、聞こえなかったふりをした。四階建てのビルの上階、電灯のチラつく薄暗い廊下を歩いて、区分けされたブースの突き当りの部屋、そこが彼の部屋だ。
控室にしては随分と整った、しかし教祖の部屋と言うにはこざっぱりとした場所だった。仰々しい御札や宝石もないし、畳張りに豪奢な座布団が置かれていることもない。少し質のいい椅子と机、そして棚に整理されているものも私物であること。それらが他の部屋とこの部屋を異にするものであった。これだけあれば十分、と綱島は部屋を広げるもしなければ、内装を変えもしない。 使い込まれた机の上には、読みかけの本と細長い箱。綱島はその箱を手に取る。
「好きだったろう? ワイン。僕は一人では飲まないからね」
見るからに高級そうなそれを、彼は惜しげもなくこちらに渡そうとしてくる。じわり、と胸に広がったのは喜びというには粘り気があって重たい。必要がないものを押し付けられたからではない。
「なんで俺に?」
「だって君は、他の人と違ってあげなきゃ手を伸ばさないだろう」
ふわ、と一瞬体が軽くなったような気がして、彼の目を見る。そこにはいつもと同じ柔らかな笑みがたたえられるばかりだ。口を開き、汚泥を吐き出そうとするが、喉に突っかかったまま内側を満たしていくのがわかった。
「別に、必要なものは自分で買えばいいしね」
「どうせ余ってるんだから持って帰ればいい。要らなければ他の人にあげるけど」
そこまで言われたなら仕方ない。彼の手から箱を受け取る。
別に、彼にとって自分はたまたまここにいただけだとわかっているのに、少しだけ軽くなる心が嫌だった。
「僕はしばらくここで本を読んでから帰るつもりだけど、君は?」
「飲もうかな」
箱を開けてみれば、高級感のあるボトルがお目見えした。本当はしっかり冷やしたほうが美味しいのだろうけども。けれど、酒なんてどれも同じだ。不味いものは飲みたくないが、かと言って美味いものを飲んだところで胃袋以外満たされない。それならば、ここで飲もうが家で飲もうが同じこと。電車に乗るのが嫌になったら金をかけてタクシーでも呼べばいい。
「好きにしたらいいよ」
ワインを置いて、戸棚からグラスを取り出す。ワインを手際よく開け、注ごうとするとすっと横から手が伸びてきて、瓶が宙に浮く。
「手酌は寂しいだろう?」
そう言って綱島が傾けたボトルからワインがグラスに落ちていくその様子を、ぼうっと見ていた。
「どうかした?」
「い、や……綱島兄師のお酌だなんて贅沢な酒だな、ってね」
冗談めかしてお茶を濁す。綱島のことを、真実教祖として見たことなかったのに。
「誰がなんて言おうとも、僕はただの人だよ」
クスクスと、笑って、彼はボトルを机の上においた。
「綱島さんは?」
「……そうだね、なら少しだけ貰おうか」
綱島は一つしかないグラスを持ち上げて傾けた。
赤い液体が彼の口に流れていく。こくりと喉が動く。うっすらと濡れた唇は、ワインの赤に染められたように見えて、光の反射に過ぎぬと苦笑する。
「確かに、美味しいね。あとはどうぞ」
ワインを注ぎ足して、夜久の目の前に戻す姿を見つめていた。まだ一口たりとも口をつけていないのに、既に酔いが回って思考に霧がかかったようだ。
勧められるままにワインを口にすれば、ほのかな甘みと、渋み、広がる香り。何も見ずに口に含んだが、ライトボディのようだ。これなら一本飲み切るのは難しくとも、後先考えずに開けてしまったことを悔やまずに済む程度には飲めることだろう。フルーティーな液体を口内で転がす。
香りや味を変えるためではなく、本当にただ手慰みのためにグラスを揺すり、ゆらゆらと揺れる赤い水面を観察する。パラリ、という音が耳に届き、綱島が本を読み始めたのを知った。部屋の中にあるのが、ページを捲る音と、互いが時々体勢を変える音だけになる。 ワインをちびりちびりと舐めていれば、じわじわと上がっていく体温と鈍くなる思考。
会話はなかった。ただ静かに時間が過ぎていく。時折少し遠いところで聞こえる人の声。窓の外から訪れる車の音。外界から緩く切り離された部屋の中、考えることもなく酒を口にする。
そんな風に過ごしたのは、もうずっと前の話だ。まだ綱島が本部にいたときは、しばしばそんなこともあったのに、今は思い出して酒を飲むくらいしか慰めもない。支部を作ると言って綱島が出て行ってから途方もない時間の隔たりがあるような気がした。
思い出に浸ったところで、今は一人。夜久の目の前に置かれているのは彼から貰った高級ワインではなく、自分で持ち込んだそこそこの値段のワイン。今日は教祖が来ているのだから、片付けなくてはならない書類もほどほどに、グラスを傾けて、とろとろとしながら机にもたれかかっている。綱島がやってきて、以前と同じような時間が過ごせるなんて、期待していない。それでもこの屋根の下に綱島がいることで、過去の一番心地の良かった時間を信じていられた。
久しぶりにこちらにやってきた綱島は引っ張りだこで、なかなか控室にも戻ってこない。ようやく戻ってこられたと思えば、誰かの呼び出しにより、すまないね、と言って席を立ってしまった。それから数十分は経過しているが、帰ってくる様子がない。
いつ帰ってくるのだろうかと、グラスをすべり落ちる雫を指ですくっては広げていた。
そうしていると、ふと人の声がドアの外から聞こえた。その耳障りな声の主を夜久はよく知っていた。西田だ。今日やってきたのは綱島だけではない。いつの間にか側近だか右腕だかのようなポジションを気取っていて、顔を見た瞬間胸やけがした。彼のざらつく声と、取り巻きの声が廊下に響いている。
「結局こっちを支部にして、向こうを本部にするんだろ?」
「ああ、そのほうが動きがとりやすそうだし、都心にも近いしな」
「最初と話が違くないか?」
「あのモサい眼鏡ともおさらばできるし、丁度いいだろ」
ゲラゲラと笑う声にさぁっと血の気が引いていくのを感じた。怒りは湧かない。もとより西田との相性は悪いし、馬鹿にされていることなどとうに気付いていたから、西田を軽蔑しながらも、手のひらの上に転がされている体を取っていた。そのほうがずっと楽だったからだ。だが、労力を搾取され、犯罪まがいのことをさせられ、それも全て教団のためだと駆け回り、その挙句にここにいる意味すらも奪われるというのだろうか。
ふら、と立ち上がり、ドアを開けた。何をしようとしているのかわからなかったが、そのままふらふらと外に出る。ちょうど歩いてきた西田がこちらを見た。
「リョウさん久しぶりだな。こっちはどうだ?」
彼の爽やかすぎる笑顔の意味を知っているからこそ、引きつった笑いしか浮かばない。愛想笑いとしても最悪な出来の表情だと夜久自身でもわかった。しかし、返事を返すよりも先に戻ってきた綱島に西田の関心が移った。
「あ、綱島さん、もう帰るぞ。車出すから。荷物は持ってってやるよ」
「え? あ、うん」
西田は綱島の肩を掴み、回れ右をさせる。一瞬だけ目が合ったが、綱島は何も言わず、西田に急かされるまま遠ざかっていった。
膝から力が抜け、そのまましゃがみ込んでしまいそうなのに、未だ自分の足はしっかりとその場を踏みしめていて、頭はキンキンの氷を詰めたように冷たいのに、心臓はバクバクと音を立てていた。
先ほどまで比較的気分よく酔っていたのに、すっかり醒めてしまったようだ。部屋に戻り、荷物をまとめる。机の上のワインも、これ以上飲む気にはなれないし、今片づける気にもならない。
飲み口に赤い汚れを付けたグラスもそのままに、真っすぐに家に帰った。
グラグラとする頭を抱えながら、夜久はベッドに倒れ込む。西田と帰って行った綱島は確かに自分を見たのに、けれど彼は何も言わずに西田に付いて行ってしまった。支部が落ち着いたら本部に戻ってくると言っていたのに、もう戻ってくる気はないのだろうか。
自分は捨てられたのだ。いや、捨てられたも何もないのだろう。いつだって綱島は西田たちの言いなりだった。そのうえで、西田が首を振らない範囲で夜久が傍にいるのをよしとしていたにすぎない。近くに置いていたのだって、あくまで邪魔ではないから、それ以上の意味はないのだろう。それはきっと明日も同じで、綱島の視線が夜久に向くことはない。
けれどいつか、こうしてじっと我慢していたらいつか少しは自分のために笑ってくれる気がして、なんて、馬鹿な考えが捨てきれなかった。
嫌になってしまう。全部が無駄だった。それなら、全て台無しにしてしまおう。何も残らないまま、使い潰される人生なんてごめんだ。ぐるぐると思考が巡る。
何も残らないのが、一番嫌だ。そう唇に言葉が乗ったとき、心が決まった。綱島の心に残りたい。何を捨ててもいい。何を壊してもいい。どうせ手のひらには何もないのだから。
守りたいものなんて、彼の隣にいる時間以外、はなから持ち合わせていなかった。
教団で扱っている資料や管理に関する書類の多くは夜久が手掛けていたし、システムも理解している。内部機密の多くを取り扱うことができる立場にもいる。もともとトラブルが発生しないようにフォローしていた分を放棄すればいいだけだった。
夜久が管理していたからこそ、データの管理が杜撰だろうが、違法ギリギリのことをしていようが成り立っていたのだ。成り立たせていたのが自分であるのなら、当然その逆も可能だ。いいように使われてきたことが、まさかこんな形で役に立つなんて、皮肉なものだ。
愛されたいと思っていたわけじゃない。愛されると思っているわけではない。愛されることは、夜久にとってはひどく恐ろしく、だからこそ一人と一人が寄り添って、それ以上先に進まないあの時間が好きだった。だがそれを保ちたいと思えども叶わず、そう思っていたのが自分だけだったという滑稽さを味わい続けるだけなのならば、いっそすべてを壊してしまいたい。じりじりと燻る炎の中で、パチリ、パチリと何かが弾けて割れる音が響いていた。
全てを終わらせてしまおうと決めてからは、嘘のように心が軽くなった。久しぶりに朝もすっきりとした目覚めを迎えることができたし、職場の人間にもいつもより優しくできた。そして、いつもなら鬱陶しい荒柴の顔も見納めかと思えば笑って応対ができるというもの。
「リョウ侍兄、今日随分機嫌がいいね」
「そうかな」
ふふ、と笑って返せば、荒柴は怪訝な顔を向けてくる。
「疲れすぎておかしくなってるんじゃないか?」
「いや、別に大したことをしているわけじゃないからね」
そう言って昨日残しっぱなしだった仕事を片づけていく。いつもそれほど時間がかかるわけではないが、今日は特にスムーズに書類の山が片付いていった。仕事が思うとおりに片付くのは、それだけで気分がいいものだと思う。有終の美。立つ鳥後を濁さずという言葉とは程遠いことを考えているのに、それでも最後まできっちりと仕事を終わらせられるのを喜んでいるのは矛盾しているのだろうが、それでもよかった。
最後まで、光の家の〝リョウ〟は完璧に仕事をこなして、そして全てを台無しにしていく。それがいい。そうして、全ての書類をかき集めて警察に出頭し――そうしたら己も当然無実では済まないが――拘束されるよりも先に、自殺しようと思う。
それで全ておしまいだ。
「何か手伝うことは?」
いつものように荒柴が聞いてくる。特にないよ、と夜久は答えた。あったとしても、今日だけは自分で全てをやってしまいたかった。そうして仕上がった書類を前に、よし、と声を出す。
「それじゃあ、全部終わったし俺は帰るから」
昨日とは違い、机の上も全て綺麗に整頓してからカバンを手にする。じ、っと何を考えているかわからない荒柴の視線を背中に感じる。
「リョウ侍兄」
「なぁに」
振り返れば、鋭い眼光とかち合う。相変わらずこちらを値踏みするような見透かすような目にたじろぐ。夜久の目でははっきりと見えていなくても、彼の視線は強すぎて、向けられたらすぐに気付いてしまう。自分のしようとしていることがバレたらどうしようか、西田に伝わるだろうか。彼らお得意の暴力に曝されるのだろうか、と一瞬のうちに頭をよぎる。
彼は立ち上がると夜久のほうへと近付いてくる。伸ばされた手に、思わず目をぎゅっとつむった。
「作業するのに、前髪邪魔じゃないか?」
太く筋張った指が、思っているよりもずっと柔らかい手つきで髪をよけた。
「え」
前髪越しではなく、真っ向から彼の目とかち合ってしまった。自分よりも少し高く、でも遠くはない位置にある顔。
「うわ、綺麗な顔してんなあ」
驚いたように言う荒柴の手を払いのけて、夜久は慌てて背を向ける。心臓がこれ以上ないほど大きく脈打っていた。隠れていない顔を人に見られたのは、夜久にとって久しぶりのことだった。
「まぁ、別にいいでしょ? じゃあ帰るんで」
さよなら、と彼の返事も聞かずに廊下へと飛び出す。後ろで荒柴が何かを言っているような気がしたが、何と言っているかは聞き取れなかった。
逃げるように家に帰って、施設から持ち出した書類をカバンから取り出す。残りの書類はすべて自宅に保存していた。支部のほうはどうなっているかは知らないが、少なくとも西田たちが全ての管理をできるとは思っていない。どうせ夜久が組み上げたインフラをもとに運用していることだろう。ならば、支部のほうの資料は不要だ。本当であれば西田たちが暴力を振るっている動画や音声データも入手出来たらよかったが、そこまで贅沢は言うまい。
ぐるり、と部屋を見わたす。後は、己が死ぬときの準備だけだ。汚い部屋だと思われるのは嫌だから、部屋の中の掃除を済ませる必要がある。ごみも全てまとめて捨てなくてはならない。
一日がかりの仕事のつもりで掃除を始めた。だが、それは一時間足らずであっさりと終わってしまった。元より物が多いほうではないし、定期的に整理も行っていたのだから当然だ。
「これなら、いいか」
死ぬ準備すらあっという間に終わってしまうことを皮肉に思って口の端が上がる。三十七年間の重みなどどこにもない。薄っぺらで、無意味で、無価値な人生。未練を探してもこれっぽっちも浮かばない。
「ああ、でも」
あの声で、リョウではなく、かがり、と呼んでほしかった。己でリョウと呼ぶことを求めながらも自分勝手なものだと思うが、日頃呼ばれぬ名前を彼にだけ呼んでほしかった。けれどどうせ叶わない願いならば、それももういい。後はここを出るだけだった。だが、がらんどうな部屋の中、ぬかるみに足を取られたように立ち竦む。綱島と過ごした日々が、夜久の足を捉えていた。
ピンポン
その場の空気にそぐわぬインターホンの明るい音に顔を上げる。誰も来る予定などなかったはずなのに。
空気を読まないインターホンの画面を覗き込めば、荒柴が立っていた。彼に家を教えた覚えはないが、一体どうしたのだろうかと不審に思いながらも返事をする。
「はい」
「リョウサンちであってる? 綱島サンから伝言とお届け物だ」
考えるよりも先に手がオートロックの開錠ボタンを押していた。しばらくすれば、再びインターホンが鳴る。
恐る恐るドアを開けてみれば、煙草を咥えた荒柴が、よう、と手を軽く振った。
「それで? 伝言と届け物って?」
「まぁそう焦るなって」
彼は当たり前のように家の中に入ろうとしてくる。思わずドアを閉めようとすれば、ドアの隙間に勢いよく挟まれた靴と手がそれを阻んだ。
「ってぇなぁオイ」
ドスの効いた声に息を呑む。ひるんで力が抜けそうになりながらもドアノブを必死で引っ張る。だが、荒柴はそのまま力任せにドアをこじ開けた。思わず一歩後ずされば、ドアの内側に入った彼が後ろ手に鍵を閉める。閉じ込められた、とさっと血の気が引く。だが、それを隠して平静を装い、へらりと笑って見せた。
「悪い、びっくりして……」
無理がある言い訳だ。
「おうおう、まぁいいさ。いやあ、いい家だな。けどその割に物が少ない」
荒柴は、先ほどの低い声から一転し、柔らかい声で答えた。あまりの変わりようが逆に恐ろしい。よくあるドラマのヤクザがあえて優しい声を出しているようなときと似ている。肌がピリピリとして、自分の呼吸が嫌に大きく聞こえた。
そんな己を知ってか知らずか、彼は奥にある自室へと目を向けた。自分の家の中をまじまじと見られるのは、内側を無遠慮に触られているような感覚がして思わず口を開く。
「結局何しに来たの?」
「悪い、綱島サンから伝言なんてものはない。ただ、嫌な予感がして来てみりゃあ……」
途中で言いよどんだ荒柴は、部屋の奥から夜久が手にした鞄に目を落とす。ああ、と納得したような顔でそれを易々と奪った。
「ちょっと!」
必死で奪い返そうとするが、荒柴の力には敵わない。それを見られたら一巻の終わりだった。
「見た後はちゃんと返してやる」
荒柴は夜久をいなしながら力ずくで奪った鞄の中身を一つずつ確認していき、そうして大仰な仕草でやれやれと首を振る。
「警察にでも行くつもりだったってわけか」
バレた。それもこの男に。どうしようもなくなって、へなへなとその場にしゃがみ込む。殴られたり蹴られたりする不安はなかった。いや、不安すら生まれない、もうどうされようと同じだったからだ。自分の理想通りに物事は進まないし、手に入るものもない。最後の最後までそんな風に終わることが惨めで、でもそれこそが自分という男の人生だと思えば、何もかもどうでもよくなってしまった。早く終わりたい、終わらせたい。
「大丈夫か?」
腕を掴まれ、引き上げられる。それに従って立ち上がってから、やんわりと手をどける。そのまま後ろを向き、ふらりと窓のほうへと向かった。ここは八階、死ぬのには十分な高さがある。窓の鍵に手をかけたとき、その手を止めるように後ろから荒柴の手が重ねられた。
「おい、やめとけ」
そのまま腕を引かれて、向きを変えられる。
「夜久燎」
いきなりフルネームで呼ばれて驚いて目を瞬かせる。
「なぁ、やりたいことはないのか」
「ないね。いいだろう、死んでも。別に君にはデメリットはないはずだ。むしろ、君はここで裏切り者をリンチするより勝手に自殺してもらったほうが楽じゃないの?」
夜久が振り払おうとした手は、再び荒柴に掴み直される。顔を背けていても、荒柴がじっとこちらを見ているのがわかって落ち着かない。何を考えているのかもわからなければ、これから夜久をどうしたいのかも全くわからなかった。
それでも、ぐるぐると彼に呼ばれた己の名前が頭の中を回る。
「金」
「は?」
ぽん、と投げられた言葉に疑問符が浮かぶ。
「家賃結構するだろ、ここ。これだけ金があるのに、使わず死ぬのはもったいないぜ」
荒柴はにぃ、と口元を引き上げた。
「夜久燎、その人生が必要ないなら俺によこしな。いい夢見せてやる」
唇が、わなないた。
「……要するに、お前を金で買えってこと……?」
震える声が惨めさからだったのか、悲しみからだったのか、怒りからだったのかはわからない。
「燎、俺はお前を裏切らない。応えてやるよ」
なぁ、と囁く荒柴の声は甘い。死にたくなかったわけではない。その声に絆されたわけでもない。もうどうとでもなれと思っていた命だ。彼が自分から金を絞り取りたいのなら、それでもいいと思っただけなのだ。
「決まりだな。じゃあ、その荷物を置いて、まず旨い酒でも飲もうじゃないか」
悪魔が舌なめずりをする。鷹揚に笑う荒柴は、綱島とは全く似ていなかった。
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