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嘘つき。 虚言癖、というほうがいくらか格好がつくかもしれないが、とにかく彼は慢性的に嘘をつく、そういう性質の人間だ。 「他の人には絶対に秘密にしてほしいんだけどさ」 「はぁ」 「実は俺、嘘ついてるんだよね」 「…なるほど」 そりゃそうでしょうね。 皆そうだって思っていますよと、律はよっぽど言ってやりたかった。 しかしこの道原 (すなお)という同級生とは正直なところ接点などほぼなく、なぜ突然に、こんな罪の告白じみたものを突き付けられているのかという疑問が一向に解消しないせいで、律の返事は大いに鈍った。 驚くでもなく、反論するでもなく。 とにかく曖昧な返事をするだけの律に、直はえらく明るく笑った。 「ぼんやりしてるなぁ眞野さんって!そんなんで秘密守れるの?」 ちょっと失礼だな、という感想はさておき、守れるのか守れないのかという問いには迷いなく守れるという返事ができる。 なにしろ直のいう秘密は皆が知るものであるのだから秘密も何もないのだ。 だが、そんなもの守る必要すらない公然の事実ですよ、という返事ができるほど、やはり律は直と親しい訳でもなんでもない。 とすると、律にできる返事などたったひとつだ。 「守れます」 律のそんな平凡極まりない返事に、直は満足げに大きく頷いた。 「いや、だから本当なんですって」 「今度はなんだ、道端で倒れた人に救急車を呼んでたは少なくとも5回は聞いてるからやめろよ」 「あー惜しい、今日は妊婦さんで」 「それはもう6回聞いた!」 少しばかり大きくなった声は静かな職員室にやけに大袈裟に響いた。 ちょっとばかり居心地悪そうに座り直して、それでも担任の教師は目の前の男子生徒に向かって険のある表情を浮かべ続けた。 「お前な、遅刻も積もれば内申に大いに響く。賢くなれ、自分のためにならん嘘はつくな」 「嘘じゃないんですって」 「もはや狼少年になってるんだよお前は、失った信頼は大きかったんだということに気づけ」 「でもぉ…」 でもじゃない。 とその現国を担当する教師は大きくため息をついた。 「そもそもだ、朝起きるのが苦手ならその対策を講じろよ、早く寝るとか彼女に起こしてもらうとかあるだろ」 「彼女いません」 「揚げ足をとるな、些事に囚われて目的を見失うのはこれぞ若者って感じでよくないぞ」 「はーい」 「考えろよ。そこで諦めて遅刻を続けるのも大人ならアリだ、その全部に自分で責任を取ればいい。けどお前はまだ学生だ、考えて自分でどうにかするってのを諦める段階じゃないんだよ」 尤もなことを言っている。 授業で「そのうちわかるだろ」を連呼することから適当教師の名を恣にしている彼のあまりに尤もな説教に、律はちょっと感動を覚えている。 「だけど先生、頑張って早起きしてもさ…途中で空から女の子が落ちてきたら助けなきゃだめじゃないっすかぁ」 「おまっ…落ちてこないんだよ!」 現国の教師の目の前にぼさっと突っ立つ男子生徒は、当然のように落ちた雷に肩を竦めた。 道原直。 律の出会ったなかで一番の嘘つきの名前で、そしてその嘘が嘘であるという秘密を告白してきた人物の名でもある。 それにしても言うに事欠いて空から女の子だなんて。 どこかで聞いたようなフレーズを入れたらうけるとでも思っているのだろうか、致命的に嘘のセンスが無い。 「もういい、お前に求めるのはもはや一点だよ」 「なんでしょう」 「嘘はやめろ」 「えー」 嘘じゃないんだってば。 がっくりと項垂れながら、直はそう悲しそうに呟いた。 嘘じゃない、わけがない。 きっかり一週間に1度のペースで遅刻を繰り返す、とかく朝に怠惰な直の方便でしかないのだ。 だって、そんなことがあるはずがない。 道で倒れているおばあちゃんやらこどもを救うことも、臨月で苦しみだした妊婦さんに肩を貸すことも、なんならひったくりを捕まえるべく全力疾走することも、言うなれば特殊なイベントであって毎週と遭遇するようなものでは決してなかった。 だというのに、直ときたら懲りることなくそんな嘘を繰り返す。 一度や二度ならまだいい、けれど直は同じような内容の嘘を繰り返すのだ、嘘にバリエーションがない。 だから皆は呆れ返って、すぐに直は嘘つきの看板を背負うことになった。 遅刻という罪を犯した原因は自分ではないのだと言わんばかりのその嘘が、律は嫌いだ。 取り繕って、自分に向く視線が少しでも和らぐことを期待しているのだとしたら大間違いだ。 あんな下らない嘘を聞いて信じるような人間がいるか。 律にとって、道原直という人間は怠惰な遅刻魔で、しかもそれを他の何者かのせいにしようとする嘘つきだ。 そして、その嘘を本人が嘘であると認めているんだから、なんというかもう救いようがない。 「眞野さんありがとう、ノートは全員分受け取ったから帰っていいわよ」 「…はい」 目の前の教師が律の名を呼んだ瞬間に、直の視線がこちらに向く。 なによ、なんだってのよ。 嘘を糾弾されている現場に居合わせたからと言って、律に何かをどうこうしようなんて気持ちはこれっぽっちもない。 ただ、直本人が言ったように、やはりこれも嘘なんだろうなという感想を持つだけだ。 しかし、その感想だってこの職員室に居る人間すべてが持つ感想であって、直から秘密を打ち明けられた律だけの感想というわけでは決してない。 皆と同じように、あなたの事を嘘つきだって思っていますけど? そんな、いっそ堂々とした視線を律は向けた、向けてやったのに。 「いっ…」 あろうことか、直は唇に指をあててこちらを見たのだ。 いわゆる、内緒だよと、そういうサインだ。 これは十中八九、話が嘘だということは内緒だという意味であろう。 (いやだからそれ、みんな知ってるんだって) 言ってやりたくても、やはり律は直と親しい訳でも何でもない。 そして、こんな意味深なサインを職員室なんで場所で送られるような関係でも決してない。 なにより、職員室という生徒の一挙手一投足に視線がつきまとうような場所で堂々と送るサインではないだろうに。 予想通りに、直はすぐさま国語教師にそういうところだぞ!とお叱りを受けている。 そんな人物と関係があると思われていいことなど少しもない。 律は早々に職員室を辞した。 (次は歴史だったっけ) 廊下を歩く律の頭の中は、あと一時間乗り切れば昼食だから頑張ろうとか、今日は弁当は持参していないから購買に行かなくてはならないとかそんなことばかりで、とにかく職員室での出来事など少しも残っていなかった。 おかしな秘密を暴露されたのは事実でも、接点も少なく、印象の良くない同級生というだけの存在こそが道原直なのだ。 高校に入学して2年目に、初めて同じクラスになった男子生徒。 授業のどこかで意見交換くらいはしたかもしれないが、親しく話したことなど一度もない男子生徒。 むしろ、下らない嘘ばかりつく直が嫌いだとさえ律は思うのだから、関わりたくない男子生徒でもある。 避けていたわけではないが、近づきもしなかった。 そんな間柄でしかない律になぜあんな秘密の暴露を、とは思うが、大した意味はなくきっと直の嘘の一環とかそんなものなのだろう。 「眞野さん」 だから、こんな風に廊下で声をかけてくるような関係じゃないんだって。 しかし無視をするのは気が引ける。 「なんですか」 律は努めて冷静に返事をした。 日頃から明るいわけでもなく、地味な図書委員を体現したような存在が律であるから、きっとその返事も素っ気なく聞こえただろうに。 直は昨日と同じように明るく笑った。 「秘密、守ってくれてんだね」 「…まぁ、そうですけど」 「そっか!」 なにがそんなに嬉しいのだか。 大噓つきの名を欲しいままにしている直だが、性格はからりと明るく裏表もないから実際のところ男子生徒の友人は多い。 何かのスポーツを長く続けているらしく、身長も高く体つきも引き締まっているから、こっそりと憧れる女子生徒だって割と多いという話もある。 内容は知らないが怪我を伴う激しいスポーツであるらしく、時に絆創膏やら包帯を巻いていたりするのが野性的で良いとかなんとか、訳の分からない高評価を受けているのを律も実際に耳にしている。 嘘つきという大きなマイナスを他の部分で補っているのだ。 器用なのか、おおらかなのか。 いずれにせよ、直だって律のような地味極まりない生徒とは深く関係する必要なんて少しもないのだ。 なのに、直は律に大股で一歩近づいて、ほんの少しだけ顔を寄せた。 「眞野さんさ、もっと大きい秘密も守れたりする?」 「はい?」 「すごーく重大な秘密なんだよね、ばらされたら結構困ったことになっちゃうんだけど」 大丈夫?と首をかしげる直は、やはり明るい表情を浮かべている。 いや、大丈夫?も何も。 「なんで私に」 「いやーだってさ、眞野さんって真面目だし」 「はぁ」 「なんかこの学校で一番に真面目って感じもするじゃん」 「それは…どうでしょう」 「ほら真面目だ!謙虚だもん!」 信頼できるっていうのかなぁ。 と直はうんうんと頷いてみせる。 信頼、という言葉は嘘つきの看板を背負って立つような直には一番縁遠いものであるから、その口から飛び出した信頼を向けられたところで説得力などない。 こんなもの、単に真面目そうだという表現の類語であるだけだ。 だから律の返事だって、やはりいつも通りのそうですかというたった一言だけ。 しかしそれでも、直は嬉しそうに笑うのだ。 「明日の遅刻の理由はね、女の子が空から落ちてきたからって言うつもりなんだけど…それは嘘じゃないんだ」 「…はい?」 「いつもは適当な嘘で済ませちゃうけど、明日は嘘じゃない」 そのときばかりは空気を読んだように他の生徒の一人も通らない静かな廊下は、窓から差し込む昼間の光を受けて明るい。 こんなに良い日にまた嘘か、とやっぱり律は思う。 「秘密だよ」 明らかな嘘を真実だと言って、しかもその秘密を守れと迫る直は、明るい表情を少しだって崩さなかった。
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