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明日の嘘は嘘じゃない。
そんな秘密を守れと言われたところで、律の生活には何の変化もない。
決まった時間に起床して、朝食を食べて家を出る。
ごく普通だ、直の言う明日は至っていつも通りの今日であるだけ。
ほんの少し違うことがあるとしたら、天気が良いから今日は川沿いを歩こうと登校ルートを変更したことくらいだ。
昨日に引き続きさわやかな陽気の空の下を歩きながら、律はそんなことを考える。
嘘が嘘じゃないと言われたって、その秘密を守れるかと問われたって、律に秘密を暴露する必要性などないのだから何にせよ同じこと。
やはり返事は、守れますというたった一言しかない。
「みぁお」
川幅の広い河川に造られた、堤防沿いの道。
学校まではまだ10分近くかかる距離にある場所だ。
その鳴き声は近所のふてぶてしい野良猫のそれよりもずっとか細かったから、律は思わず声の主を探した。
「うわ」
その猫を発見した瞬間、律の眉間には深い皺が生まれた。
なにも猫が汚かったとかいう理由からではない。
これは困ったことになったなという気持ちから飛び出た素直な表情だった。
そもそもがこの川の堤防は増水を見越してやや高く造成されている。
なだらかな斜面の部分は川辺に徒歩で行けるように階段が造られていたりするのだが、ここは堤防のなかでも切り立ったという表現がぴったりくるような高低差のある部分だ。
転落防止のフェンスが設置された、いわば危険な箇所と言ってもよい場所だ。
そんなところに、子猫が引っ掛かっている。
しかも、堤防から下に降りるため造り付けられた金属製の梯子の先端にだ。
何かの弾みで首輪を梯子の先端にひっかけて、取ろうともがくうちにずり落ちたというところなのだろう。
梯子に引っ掛かった首輪はあと数センチで抜けるであろうというサイズにまで広がっているから、恐らく留め具が外れかかっている。
そして、もう自分ではどうしようもないし多分あとすこしで下に落っこちますと、子猫はにゃあにゃあと鳴いているのだ。
「困ったな…」
見るからに身体の小さな子猫だ、どうにか助けてやりたいという気持ちが生じるのは当然だ。
しかし、地味な図書委員の体現たる律はもちろん運動能力に関してまるで自信がない。
果たして崖っぷちの子猫を助けるだなんてことができるのか。
「でも、警察にはちょっと言いづらい…かな」
2年前から交番勤めの警察官として働く兄は、市民から寄せられるとんでもなく細かな訴えに翻弄されて忙しいという話をよくしていた。
子猫を助けてくれなんて、その警察官の妹にはなかなか言い出しにくいことではある。
だとしたら、律がやるしかないではないか。
子猫の予想外の動きをできるだけ低減させるため、律はそっとフェンスに近寄った。
「ギリギリいけそう、ではある」
フェンスは切り立った堤防の縁から30センチほど歩道側に設置されているから、乗り越えて川側に立ち入ったとしてもフェンスを掴みながら歩行することは可能だろう。
フェンスの切れ目も近くにある、侵入口はあそこでいい。
幸か不幸か、子猫はやや弱っているから暴れたとしても大した抵抗ではなかろう。
いける、やれそう。
その直感的な判断に背中を押されるように、律はフェンスの切れ目からゆっくりと川側へと踏み出した。
「お願いだから、暴れないでよぉ…?」
猫なで声で囁きながら、律はできるだけ音を立てずに30センチの幅を進む。
フェンスの切れ目から猫まではそこまで遠くない、見たところ2メートルあるかないかだ。
しかし身体に当たる風は妙に強い気がするし、足場だってさっき見た時よりも数センチ狭い気がするせいで、律の進みはとても遅い。
怖い、怖いのだ。
落ちたら間違いなく小さくない怪我をする高さだ、怖くないわけがない。
本当は、悪くすれば死ぬなということもなんとなく気づいているのだが、それを考えだしたらきっと足は竦みきって動かなくなるということにも律は気づいている。
とにかく進むしかない。
そしてサッと子猫を回収して戻る。
律は念仏のようにそれを唱えながら、じりじりと足を進めていった。
「なぁお」
子猫が、またか細く鳴く。
もう手を伸ばせば首輪に触れられる位置まで律が近づいてきたからだ。
「いっ…いい子だから、ちょっと大人しくしていてね」
フェンスを掴みながら律はそろそろと膝を曲げてしゃがみ込んだ。
人に慣れているのだろう、子猫は意外にもおとなしい。
小さく声を上げるだけの子猫を律の左手がそっと持ち上げたが、やはり抵抗はない。
首輪は単に引っ掛かっているだけだから、子猫の身体ごとこちらに引き上げてやればそれでいい。
慎重に慎重を重ねたせいでやや時間はかかったが、律はその速い鼓動の小さい体をどうにか膝に乗せることに成功した。
よかった、どうにかなった。
律の緊張が緩んだ、その瞬間。
「えっ?」
ぐらりと、視界が傾く。
同時にフェンスを持つ右手の方から鳴る、ぎぎぎと金属が擦れ合うような音を聞いて、律は腹の底が冷えるような感覚を覚えた。
これ、これって。
咄嗟に音の方向へと視線をやると、そこにはすでに留め具が外れ傾いたフェンスの姿があった。
(外れてる…!)
そう理解するのと同時に律は思わずフェンスにしがみつくが、それによって体重のかかったフェンスは無慈悲にも余計に外れる。
そりゃそうだ、とは思うけれど律にはもう方法がない。
身体が重力に従って堤防の下へとずり落ちていくなかでも、どうにか胸元に抱き寄せることだけはしたから、子猫は落下を免れた。
しかしそのお陰で、フェンスに片手でぶら下がっているだなんて一目瞭然に絶体絶命の体勢は見事に完成したのだった。
「いっ…!」
右手が痛い。
フェンスにぶら下がってすぐに、律は握力の限界を悟った。
落ちる、わたしこのまま落ちるんだ。
気は動転しきっているし何だかもう吐きそうだしとにかく辛い、怖くてたまらない。
どうにかしなくてはとは思うのにどうにもならないことが痛いほど分かるから、律には力が続く限りぶら下がるという選択肢があるだけ。
だめだ、もうだめ。
その時、目を閉じてしまおうとする律の耳に、何かの叫び声が届く。
「眞野さん!」
堤防の下から響く声に、律は必死に視線を向けた。
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