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「道原…くん?」 「よかった間に合った!」 駆け寄ってくる直はぜぇぜぇと息を切らしている。 そして、フェンスからぶら下がる律に向かって大きく手を振りながら声を上げた。 「そこさ!そんなに高くないから飛び降りてきて大丈夫だよ!」 「そんっ…そんなこと言われたって!」 どう見ても3メートルはある。 その高さから飛び降りても運動神経のよい直ならばどうにかなるだろうが、律となるとそうはいかない。 恐らく足をひねるだけでは済まないだろうし、妙な姿勢で落ちて頭でも打ったら終わりだ。 何より怖い、怖くて飛び降りるだなんてできるはずがない。 嫌だ、だって怖いんだもん。 鼻がつんとして痛い、きっと涙だって浮かんでいる。 顔をぐしゃぐしゃに歪める律に気づいたのだろう、直はいつも以上に明るく笑った。 「大丈夫だって!手を離して!俺ちゃんと受け止めるから!」 「受け止めるなんてできるわけ…っ!」 フェンスが悲鳴のような音を立てて軋む。 あぁ、これはどっちにしろ落ちる。 そう気づいた瞬間、律の握力は情けなくも限界を迎えた。 こういうとき、叫ぶことができるのはきっとある程度の運動神経があるひとだけなんだろうな、とえらく呑気に律は思う。 落下する、地面に引っ張られてそのまま。 抗うように身体を動かすことも、声を上げることすらできずに、律はされるがままに落下した。 「…っ!」 固く目を閉じていたから、結局何がどうなったのかは分からない。 だが、そのなかでもたったひとつ分かるのは、大きな振動はあったものの予想したような激痛は感じない、ということだった。 「眞野さん」 直が名前を呼んでいる。 ということは、耳だってちゃんと聞こえている。 「もう地面だよ、猫ちゃん苦しそうだから離してあげたほうがいいよ」 「…え?」 律は、閉じたままの瞼をそっと開いた。 そうすると、胸元に強く抱きしめたままの子猫がぎにゃあと不満げに鳴いていることにようやく気づく。 「猫…」 「うん、あの状況でよく放り出さなかったね」 そう口にする直の息はまだ切れたまま。 肩で息をしていて、制服のシャツ越しに聞こえる鼓動だって早い。 そうか、言葉の通りに受け止めてくれたのか。 それに思いあたった瞬間に、律の涙はあふれ出す。 「あ、ありがとう…!」 「いいよ、無事でよかった」 こどものようにぼろぼろ涙をこぼしながら起き上がる律を見て、直はほんの少し悪戯っぽく笑う。 「言ったでしょ、空から女の子が降ってくるってのは嘘じゃないって」 直はゆっくりと落ち着きつつある呼吸を繰り返しながら、首をそっと傾けた。 そのとき、律の耳に聞きなれた鐘の音が飛び込んだ。 学校の予鈴が鳴っている。 あと5分以内に登校しない者はすべて校則違反者だと言わんばかりの音が。 「遅刻の理由…」 「そうだよ、今日は嘘じゃない」 そう言って、直は大きく息をついた。 「今年の4月くらいかなぁ、きっちり週に一回だけさ、誰かが落ちるのが分かるようになったんだよね」 「…はい?」 「なんとなく分かるんだ、あの辺で誰かが落っこちるって。でも詳しいことはその時その場所に行ってみないと分からない」 何の話をしている。 律は直の唐突な暴露を受け止めきれずに目を見開いた。 当然、そこで涙はぴたりと止まった。 「それは猫とか犬とかの時もあるし、人間の時もある。どこからってのも、小さな段差から今みたいな高さの時もあるからもうほんと…毎週大忙し」 「そんな、こと…」 あるのか、と言わんばかりに目を見開く律に、直はまた笑いかける。 しかしそこには、昨日までは気づかなかった何かがあるような気がしてならない。 「ね、信じられないよね。しかも落ちるの朝ばっかりだし意味がわからない。俺だっておかしいと思うよ、こんなこと誰にも相談できないもん」 空から女の子が落ちてくるという話を聞いたのは昨日のこと。 そして、律が登校ルートを変え子猫に出会ったのも助けようと決めたのも決めていたことではない、すべて偶然だ。 直がこの堤防に来る必要はどこにもないし、落下寸前の律を見て驚かずに対処したことも、今考えれば異様なことだった。 (嘘じゃないんだ) 自分の身に降りかかった間違いのない事実から、律はそう判断するしかない。 「でも、その場所に行くと必ず誰かが落っこちるんだ」 「か、必ず…」 「うん。しかもさぁ、それを知ってるのは俺だけなんだよね」 行かざるをえないじゃん? とやっぱり直は笑う。 毎週きっかり一回の遅刻。 それは直が、落下を知りながらそれを見過ごすことを選ばなかったからではないのか。 バリエーションのない嘘は、直がせめて自分を守るために使った言い訳なのだとしたら。 律の胸はそれに気づいた瞬間、苦しく締め付けられた。 「でもね、今回はなんでか眞野さんが落ちるって分かったんだ。よく会う人だったからなのかな?わかんないけど」 だから言っちゃったんだと直は言うけれど、だれにも相談できないほどの事実をほとんど交流のない律に話す理由としては弱い。 律はそっと直の顔を伺う。 「偶然のふりをしたらそれで済むじゃないですか、どうして全部教えたんですか」 「それはだってさぁ、眞野さん真面目でしょ?」 直は、ほんの少しやりにくそうに視線を落とした。 「だから…っていうか、もうこの機会にっていうか。後出しみたいで本当格好悪いんだけど、助けたら信じてもらえるかなって…期待した」 珍しく尻すぼみの言葉だ。 律には、それがなぜかとても切なかった。 (格好悪いなんてこと、ない) 毎週必ず起こる落下を止めるために苦し紛れにつく嘘、きっと怪我を伴うスポーツをやっているというのも嘘で、いつもの明るい笑顔だってそのうちのどれかは嘘だったのだろう。 嘘ばっかり。 だけど、その根底には優しさと苦しさがあるということに気づいたら。 嘘の中の本当が、縋るように伸ばされた手に似ていることを知ってしまったら。 もう以前のように、嫌うことなんて律にはできない。 「これは秘密なんですけど」 律は、ほんの少しだけ笑って見せる。 「わたし図書委員で真面目に見えますけどすこっしも勉強できないんです、全然真面目じゃない。いつも赤点ギリギリだし」 「えっ」 「でも、あのバリエーションのない嘘よりマシな言い訳くらいなら考えられます」 直がぽかんと間抜けに口をあけて、こちらをじっと見つめている。 「二人なら本鈴には間に合うかもしれません」 すると直は、まじかーと呻きながら両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。 「眞野さんすげぇ格好いい」 「真面目じゃなくても?」 「真面目じゃなくても!」 律の手の中の子猫がまた不満げにぎにゃあと鳴く。 今日は遅刻だ、けれど気分はいい。 両手を外した直の笑顔はくしゃくしゃでいつもより不格好だったけれど、それだってきっといいことだ。 この先どうなるかなんて分からないけれど、律は知って、期待に応えることを選んだ。 できるだけやってみよう。 立ち上がった律は、まだしゃがみ込んだままの直に手を伸ばす。 「とりあえず今日の遅刻の言い訳を考えますよ」 空から女の子が落ちてくるなんてどこかで聞いたような嘘は、たとえ限りなく真実に近くてもやっぱりちょっとセンスがない。 眞野さんやっぱすげぇやとか何とか言いながら、直は律の手をとってゆっくりと立ち上がった。
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