勝手に始めんな

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趣味は?と聞かれたら通報と答える。 そんな自分に私は至極満足している。 いつからこうなったのかわからないけど、気が付けばこうなっていた。 毎日昼休みが楽しみだ。 学校から帰りパソコンを立ち上げるのはもっと楽しみ。 次の日が休日だと有頂天になり、顔が通常の二倍に膨れ上がる。 私の最も好きな時間。 世界平和のようなまん丸の中にある横並び一線のてんてんてん。 このマークが好きでたまらない。 最初は苦痛だったけど今ではもっと寄越せ、もっと来いよとすら思う。 最早ライフワーク。 生涯の事業。 習慣はいつの間にか生きがいとなる。 誹謗中傷するアカウントを通報するというこの世で最も大切な仕事、そして使命。 それが私の原動力となり、手足を動かし、血と肉を得るため栄養を取ろうとする意思を私に無限に与え続ける。 今日も今日とて私は昼休みになるとお弁当箱を取り出す前にスマホで最近では親の顔よりも見ている敬愛するプロテクトアカウントに前のめりで飛んでいく。 おーおー、今日も多い。 少し休んだらいいのに、暇人がと心の中で大きな舌打ちを決めるが、内心はやることがあってウキウキしている。 スキップでもしたいくらいだ。 愚か者どもは今日も今日とて誹謗中傷というこの世で最も惨めな行為に勤しんでいる。 何という哀れ。 働いてないのかこいつら。 どいつもこいつも生きてて恥ずかしくないのかな、こんなことしといて、まともに学校に行ったり、会社に行ったりして、誰かの親だったりするのだろうか。 新しいドラマの発表があったから絶対増えると思っていた。 やることが分かりやす過ぎるわ。 取りあえず六時間前に上がっている張り付けられた複数のリンクの一番上からクリックする。 ブロック中です。 確かにこのアドレス何回も見たわ。 まだいるのか、こいつ。 また人のせいにしおって。 いい加減にしろ。 お前が地獄へ落ちろ。 私は心の中で顔も知らない世界のどこかに確実に存在している誰かへ呪詛を呟く。 どうかこの犯罪者が報いを受けますように。 逮捕されなくてもせめて、ネットの世界で二度といきがれませんように。 たかだか三百人ちょっとのフォロワーのアカウントを凍結できないなんて、本当にこの世は間違っている。 人を侮辱している人間が表現の自由で守られてるなんてどうかしてる。 ツイッターのアカウントを凍結させるにはフォロワーの1.5倍の通報が必要だとか、はたまたその三分の一でいいとかネット上には信憑性のあるんだかないんだかの情報が溢れている。 まだるっこしいこと言わずもう一人でも通報があったらその人に不愉快を与えていることになるんだから問答無用で凍結して欲しい。 私にありとあらゆる財力があればツイッター社の物言う株主になるのに。 世の大富豪はお金を有意義に使えていない。 何千万もする時計や車をかったり、何千億も出してサッカーチームのオーナーになるくらいなら、皆がニコニコして生きられる世の中のために全力を尽くすべき。 それが持てる者の義務というもの。 ブロック中です。 九件ともいつものお馴染みのメンバーで既にブロックしていた。 何だ、つまらない。 もっと新規でとんでもないの来いよ。 叩き潰してやるから。 取りあえず消されていない新しい名誉棄損ツイートを通報しておく。 家に帰ったら事務所にも通報しよう。 私はグーグルで「エデル かっこいい」と打ち込みお昼ご飯に取り掛かる。 検索を浄化せねば。 一分後左手で「エデル 美しい」と打ち込み、お弁当の筑前煮の蓮根を口に運ぶ。 また一分経てばエデルという世界で最も美しい名前と共に彼にとって不利益にならない言葉を一緒に打ち込み、ケチャップのかかったソーセージを齧る。 黙々とお弁当を平らげ水筒の麦茶を飲んで、いつも通りイヤホンをしてユーチューブの動画を回そうとしたところ、衛藤さんという声がした。 このクラスの衛藤さんは私一人だ。 見上げると同じクラスのイケメンが私を見下ろしていた。 このイケメン名を小坂那月という。 だが私は彼を個人として認識していない。 彼は何処の高校にも一人くらいいるであろうわかりやすくかみ砕かれた背の高いイケメンで、私にとっては楽しくもない灰色の高校生活の背景だった。 「何?」 「衛藤さんに頼みがあるんだけど」 私はグーグルに「エデル 可愛い」と打ち込み彼と視線を合わせた。 成程無表情が似合う王道的黒髪の美形だ。 学ランに刀とか似合いそう。 でもセンターになれないタイプ。 だって圧倒的に愛嬌がない。 画面の端っこにいても目立つから人気は出そう。 「何?」 「衛藤さん、部活何にも入ってないよな?」 「入ってないけど」 「文芸部に入って欲しいんだけど」 「は?何で?」 こいつ確かバスケ部じゃなかたっけ? 何言ってんだと思いつつ左手で「エデル 美しすぎ」と打ち込む。 「俺の知り合いが文芸部で、部員が三人しかいなくて、五人集めないと廃部になるから入って欲しいんだけど」 「何で?」 「衛藤さん帰宅部だから」 「帰宅部の人なんて私以外にもいると思うけど」 「このクラスの女子で帰宅部なの衛藤さんだけだから」 「他のクラス当たったら」 「違うクラスの人間に話しかけるのはちょっと」 あんたに話しかけられたら大概の女子は喜ぶんじゃないのと言おうかと思ったけど、それは何というか彼のせいじゃない気がしたのでやめておいた。 お昼ご飯を食べてお腹がいっぱいになった私は判断能力が鈍っていたのだろう。 でも何故かそれが唐突に閃いてしまったのだ。 そしてそうなった以上私という人間は是が非でもそうしたいと思うのだ。 「いいけど、条件がある」 「何?」 「通報を手伝って欲しい」 「つうほう?」 「ツイッターの通報。凍結させたいアカウントがいっぱいあるの。手伝ってくれるなら入ってもいい」 「・・・それは俺にもできることなのか?」 「あんたツイッターとかやってない?」 「ああ」 「じゃあアカウントつくるとこからか。まあいいや。当然文芸部の三人も手伝ってくれるわよね?」 「・・・簡単にできることなのか?」 「簡単。誰でもできる。時間もそんなにかからない。スマホがあればそれでいい」 「わかった。じゃあ今日から頼む」 「今日から?」 「ああ」 「まあいいけど、あれ、三人ってことは私入っても四人でしょ?あと一人どうすんの?」 「俺も入ってる」 「あんたバスケ部じゃなかったの?」 「かけもち。バスケ部休みの日だけ行ってる。ほとんどないけど」 「そうなの?」 「ああ。そんなことより、俺も衛藤さんに頼みがある」 「何?まだあんの?」 「文芸部に青柳って先輩がいるんだけど、部長さん」 「うん」 「その人を好きにならないで欲しい」 「は?」 「青柳先輩を好きにならないで欲しい」 「一応理由を聞いとくけど、何で?」 「俺の知り合いが青柳先輩を好きだから」 「は?」 「だから衛藤さんに青柳先輩を好きになられると困る」 私は小坂の黒い瞳をまるで自分の瞳と一致させるように真っ直ぐに見つめた。 どうやらこの男本気で言っているらしい。 「安心して。私超がつく面食いだから。絶対に好きになんかなんないよ」 「わかった。ありがとう。邪魔して悪かった。じゃあ放課後よろしく」 「はいはい」 私はいつの間にか左手でスマホを握りしめていたらしい。 全く無駄な時間だった。 この数分でファンカム五回は回せた。 私は「エデル かっこいい」と打ち込み、面倒なことになったのではと数分前の自分を後悔する。 たかが四人の通報協力者を得るためにこれから、少なくとも今日だけは部活動というものに参加しなくてはならないだろう。 気の合わない人間とのお喋り程辛いものはない。 人間関係など希薄に限る。 どうせ卒業したら一生会わないんだし、無理することなんかない。 一人でいるのは好きだ。 中学に入ってから今日までいつだって一人ぼっちだけど全然平気。 やることはいっぱいあるし、孤独程自由なものはない。 私は今の生活気に入ってるし、誰にも邪魔されたくない。 まあいいか。 しょうがない、自分が蒔いた種だし。 ついでにインスタのフォローもしてもらっていいねしてもらうのと、投票も手伝ってもらおうかな。 圧倒的に人手不足だし。 数の暴力が使えるグループはいいよな。 そうだ、動画の再生も手伝ってもらおう。 コメントもしてもらって、曲のダウンロードはお金がかかるから流石に申し訳ないかな、たかが二百円ちょっとの話だけど、経済事情はそれぞれ違うし、人によっては一円だって無駄にしたくないだろうし、ツイッターでタグ付けて呟いてもらうのは無料だからやってもらうとして、あ、駄目だ、通報を手伝って貰うと言っただけで、応援してもらうのは違うんだ。 やめやめ、人に期待するのは一番駄目。 それより文芸部って何するんだろ? 早く帰って自分の部屋で通報して投票して動画再生したい。 やること多い。 でも私今の自分が史上最高に好き。   その女は何も言わずいきなり抱き着いて来た。 まるでこっちの事情など全て知っていてくれるものだと言わんばかりに。 その強さは嫌いではないと思ってしまった。 女は私の身体に両腕を巻きつけたままゆっくりと顔を上げた。 美しかった。 どうせ言われなれているだろうけど感嘆せざるを得ない容貌をしていた。 色白だとか、眼力だとか、そういった細けえことはどうだっていいんだよ、と物理で殴ってくるタイプの強靭で圧倒的な美の力を感じた。 それは正に私が日頃から体感している数の暴力、暴挙のような、理不尽さと諦観を私に呼び起こした。 この時点で私は前言撤回し、帰るべきだった。 どう考えてもそうだった。 でも私にはできなかった。 そう、私はこの女に見とれてしまっていたのだ。 そして私は言葉を奪われた。 身体はささやかな力に拘束されている。 運命は決していた。 「那月から聞いたよ。本当にありがとうね。美弥子ちゃん」 馴れ馴れしい女だった。 下の名前で家族以外に呼ばれるのは久しぶり過ぎて、何億光年かと考えていたら、私は自然と石と化していた。 「本当に嬉しいし、助かったよ、美弥子ちゃん。青柳先輩喜ぶだろうな。早く行こう」 女は私の手を取ってまるで恋人のように指を絡ませてきた。 私には振り払う権利があったはずだが、生憎遥か彼方へと意識を飛ばされてしまっていたので、女に全てを委ねることとなってしまった。 何という不覚。 鍛え方が足りんなと謎の老師が幻となって降臨するところまで想像してしまった。 「那月もありがとうね。ちゃんと私の要望通り女子部員を見つけてくれて」 小坂がああとだけポツリと呟いたのが聞こえた。 良かった。 別にこの世に女と私の二人きりになったわけじゃなさそうだ。 「早く行こう。那月も今日はこれるんだもんね?」 女は私の手を離し、代わりに右腕で私の左腕をまるで古代の遺物のように包み込み歩き出した。 「あ、私ね。三組の遠藤真由です。仲良くしてね、美弥子ちゃん」 知ってる。 小坂の彼女。 有名な美男美女カップル。 遠目でしか見たことなかったけど、これは凄い。 だって今張り付かれてる腕がまるで羽根のように軽くて、宙に浮いている、空を散歩しているみたいに感じる。 これが美しいものが持つ加護、恩寵効果であろうか。 そう、私はどうしたって美しいものが好きなのだ。 美しいことが至上だと思えるし、そんな自分が大好きなのだ。 「美弥子ちゃんは小説とか読む人?」 「あんまり」 寧ろ全然。 そんな暇ないし。 「俳句とか興味ない?プレバトとか見てない?」 「お母さんは見てるけど・・・」 「そっか。でも全然大丈夫だよ。先輩も皆優しいから」 「そう」 「うん。本当に入ってくれてありがとう」 遠藤真由は小さな女の子だった。 私の身長が百六十五センチだから、彼女は恐らく百五十五もないだろう。 女は声までまるでこの世界に溶けてしまいそうだと思わせるくらい、柔らかかった。 生まれてきたことが世界への貢献であるかのような華のような存在。 私はこういう生き物を他にも知っていた。 愛するエデルが正にそういう人だった。 そうか、彼女はそっち側の人間なのだ。 小坂は確かに美形ではあるが、彼女の番としては及第点ぎりぎりだと思われた。 こういう女が好きなのかと、昨日まで背景に過ぎなかった男が身近に感じられて何だか可笑しかった。 振り返ったらどんな顔をしているんだろうと想像してみたけど、手持ちの彼の表情集が余りにも少なく、すぐに放棄した。 「青柳先輩、新入部員連れてきました」 部室と呼ばれた教室のドアを遠藤真由が開けると、冴えない丸顔の眼鏡男が立ち上がり、両腕に何やら分厚い本を抱きしめ、こちらに近づいて来た。 おい、小坂、どの口が言った。 「先輩、こちら、衛藤美弥子さん。私と同じ二年生です」 青柳先輩はぺこぺこと頭を振りながら、あ、あ、と頷く。 「二年一組衛藤美弥子です」 「あ、あの、あ、はい。三年の青柳です。一応、あ、部長、やらせてもらってます。あの、あ、よろしく、お願いします」 青柳先輩は身体を地面にめり込みそうなくらい曲げてお辞儀した。 これをどう好きになれと? 「これで五人だねー」 わざとらしい程甘ったるい声が聞こえた。 蜂蜜だ、生クリームだ、チョコレートだの、全てのトッピング全乗せしたみたいな、欲かいて、結局何食べてんだかわかんなくなったような声は私の背後からした。 それなのに、その人は何故かさっきからまるでそこにいたかのように窓辺に佇んでいた。 全開した窓ではカーテンが風に気持ちよさそうに揺れていた。 彼女の金色の長い髪も揺れていた。 「廃部にならないで済んだねー。心ちゃん」 「あ、あ、そうだね。はい。皆さんのおかげです、あ、ありがとうございます」 「私は岸本ノエルちゃんです。心ちゃんと同じ三年生でーす」 岸本先輩はまだ四月だというのに夏服だった。 でもそれが特におかしいと思わせない人だった。 先輩は俗に言う可愛らしい顔をしていたが、全ての顔のパーツが雑で荒っぽく巧の手仕事とは言い難かったが、それが逆に彼女の魅力となっているようで、校則違反の金髪も良く似合っていた。 「あと一人三年の幽霊部員がいまーす。皆仲良くしようねー」 「じゃあ、六人ってことですか?」 「ううん、私は部員じゃないから。遊びに来てるだけー」 「遊びに来てるなら入ったらいいじゃないですか」 「わー。正論。いいのー。それより心ちゃん、部活始めようよー」 「あ、あ、そうだね。じゃあ、皆さん、あ、今日もはい、あ、はい」 「今日は親睦を深めましょうよー。座って座ってー」 どうやら青柳先輩じゃなく、部員でもない岸本先輩が主導権を握っているらしい。 あ、それより、遠藤真由にぐいぐい来られたせいで当初の目的を忘れてた。 そんなことより、通報人員確保、それが大事。 皆が席に付いたけど私は黒板の前に行き手を上げる。 「すみません。親睦を深める前に皆さんにご協力していただきたいことがあります。スマホを用意してください」 「えー、ノエルちゃん持ってないよー」 「ガラケーですか?」 「どっちもないよー。ノエルちゃん携帯持ってないのー」 「じゃあ岸本先輩は座っててください。ちょっとの時間で終わるので」 「はーい」 「って、パソコンあるじゃないですか。これ使いましょう。岸本先輩はそれで」 部屋の一番奥ではまるでご神体のようにパソコンが鎮座している。 この部屋でもっとも価値があるものだと後光すら見えるようだ。 「ノエルちゃんそういうのできないからー。応援してるねー」 「わかりました。じゃあ応援しててください」 「はーい」 「まず皆さんツイッターのアカウントを作ってください」 「あ、あの、あの、それはどうして?」 「文芸部に入る条件です。凍結させたいアカウントがいっぱいあるので皆さんに通報していただきたいんです」 「あ、あのあの、通報って警察ってこと?」 「違いますよ。ツイッター社にです」 「あ、あの、よくわかんないけど、それはやっていいことなの?」 「いいことに決まってるでしょう。向こうは犯罪者なんだから。寧ろ積極的に国を挙げて推奨すべきです。犯罪者撲滅に」 「あ、あの、ごめんね。僕、そういうの疎くて。スマホもゲームでしか使ってないから」 「ツイッター見ません?」 「ゲームのとかは見るけど、それ以外はあんまり。ごめんね。流行りとか疎くて」 「酷いもんですよ。暇人どもが連日人の死を願っているんですから」 「何それ、そんなことしていいわけ?ノエルちゃんこわーい」 「いいわけないから通報するんです。まあ流石に死体の画像に加工したりするのはすぐ凍結されますけど、相手の社会的な死を願うのは表現の自由だか知りませんけど、放置ですよ、犯罪者を野放しにしてるんですよ」 「はーい、ノエルちゃん質問でーす。何でそんなコトするんですかー?」 「一番の要因は馬鹿だからに尽きると思います。愚かなんですよ。自分が惨めなことしてるって気づけないんですから」 「よくわかんないけど、後輩がこんなに張り切って熱い血潮を燃やしてるんだから、年長者は協力しましょう、ね、心ちゃん」 「あ、あ、うん。じゃあその、通報ってどうやってするのか教えてくれる?」 「はい、じゃあアカウントを作ります。どれでもいいですよ。自分の作りたいのでグーグルでもいいですし、メールアドレスでもいいです。取りあえず作ってください」 私はパソコンを立ち上げグーグル登録で新たなアカウントを作成する。 岸本先輩が私の右肩に顎を乗せる。 面白い程軽い。 だが違和感はない。 「名前ノエルちゃんにして。私この名前気に入ってるの」 「いいですけど」 「簡単に作れるんだねー」 「そうですね」 「心ちゃん、名前アイアンハートにしてよ」 「え。あ、普通にヤダよ」 「真由ちゃん、何でグレーピンク?」 「好きな色だから?」 「何で疑問形なのー?なっくん、何、つうほうようって」 「そのまんまかなって」 「皆もっと楽しもうよー。せっかく面白いこと始まってるんだから」 「面白くなんかありません。はい、じゃあパソコン前に集合」 こうして部室を見渡すとパソコン席が完全上座で王の席という配置になっている。 他の四人は向かい合い、パイプ椅子。 しかもこの椅子くるくる回るし、悪くない。 何だかとってもいい気分。 「まずプロテクトアカをフォローしてください。これね、プロテクトエデル。ピー、アール、オー」 「美弥子ちゃん出たよ」 「はい、じゃあフォローして」 「したよ」 「はい、じゃあ下がっていって、これクリックして」 「このアカウントは存在しませんだって」 「逃げられたの。じゃあ次やって」 「逃げるってどこ行ったの?」 「アカウント変えてまたするの。そういう連中なの。この世のクズよ。ドクズ」 「衛藤ちゃんひどーい」 「酷くありません。非道なことをしてるのはこいつらです。何の落ち度もない人間を袋叩きにしていいと思ってるんですから。私に言わせたら逮捕もされないでツイッターの凍結位で済んで、社会的制裁も受けないんですから、生ぬるいくらいですよ。芸能人の不倫叩くくらいならこういうのもっと取り上げて欲しいです」 「あ、あの、あの、次どうするの?」 「はい、じゃあ次これ、この丸いの、これクリック、一番下の報告する、はい、下から二番目ツイートが攻撃的である、はい、これ、無礼、または侮辱的な行為をしている、はい、ブロックする、完了。はい、スパムである」 「おー。すごーい。衛藤ちゃん。何か慣れてるねー」 「ずっとやってますから。これをやっていただきます」 「これ全部?」 「これで終わりじゃないよ。ずっと遡ってやって。新しいアカウントなんだから。はい、席に戻る」 「あ、あの、結構な数だね」 「ツイッターは遡れる限界があるんでそこまででいいですよ」 「あ、あの、あの、結構な量だね」 「文芸部の存続のためだと思ってください。退屈でしょうから音楽かけますね」 動画も回せるし、あれ、いい部活では。 少なくとも時間の無駄にはならない。 新しいアカウントで新しくいいねして、コメントしてこれ最高では。 「ねえ、衛藤ちゃん。このエデルって誰なの?外人さんだよね?」 「韓国のアイドルです」 「ハーフ?」 「カナダ人と韓国人のハーフです。正確にはドイツ系カナダ人と韓国人のハーフ」 「つまり何人?」 「韓国人ですよ。生まれも育ちも」 「よくわかんないけど、何やってる人なの?」 「歌手です。ミステリートレインってグループのメンバーです。一番人気の」 「ふーん。ノエルちゃん知らないやー」 「今来てますよ。いずれは天下を取ります」 「そうなんだー。まあかっこいい子だね。フィギュアみたい。ノエルちゃんタイプじゃないけどー。ねえ、何で英語でコメントしてるの?」 「世界で一番使われてる言語ですし、世界的な人気があると思わせることができるでしょう。フランス語でもしますし、スペイン語でもしますし、ポルトガル語でもします」 「偉いねー。涙ぐましい努力」 「皆さんご自宅にパソコンがあるならそこからもお願いします。あと時間があったらユーチューブで動画再生もしてください。ログインしていいねして、コメントもお願いします。ミステリートレインで検索してください。スペルはわかりますね。エムとティーだけ大文字です。チャンネル登録もお願いします」 「だってー。心ちゃん。ゲームしながらやったらちょうどいいねー」 「画質720にしてくださいね。CMも絶対に飛ばさないでください。動画も必ず最後まで見てください」 「はいさー。だってー。心ちゃん」 「あ、あ、うん。了解」 「やる気のある部員が入ってくれて嬉しいねー。皆で一つの目標に向かって努力するとか青春だぁー」 「美弥子ちゃん。これ同じの出てきたよ」 「大体毎日同じ人間がやってるから」 「またやったほうがいいの?」 「同一アカウントから何回やっても意味ないみたいだからもう次行って。岸本先輩、座ったらどうですか」 「えー。ノエルちゃんもユーチューブ見たいもん」 「美弥子ちゃん、ツイートは非公開って出るのは?」 「鍵アカ。どうせ通報呼びかけられて鍵かけただけだから通報して」 「そんなことできるんだねー。本当に暇なんだねー。引きこもって人の悪口ばっか言ってるわけだー。この労力なんか他に向けられないのかねー。ノエルちゃん悲しい」 「ホントですよ。これ結構いい年した人多いんですよ。この間なんか自分の孫位の年齢の男誹謗中傷してるババアいましたもん」 「何でわかったの?」 「孫が遊びに来たとか普通にツイートしてますもん。頭おかしいんですよ。私が孫なら病院連れて行きますね。狂ってます」 「ノエルちゃん人類に失望」 「完全に同意します」 十八時になると部活がお開きとなったので、みな帰り支度を始めたが、岸本先輩が「私達はもうちょっと残ってすることあるから」と言ったので私達二年生三人は連れ立って教室から出た。 ツイッターの通報とインスタのアカウントを作らせたのと動画の再生方法と検索浄化までは教えたから初日としてはまずまずだろう。 明日はユーチューブの通報と事務所への通報と各種投票サイトとタグ祭りを教えよう。 貴重な人員を確保できた。 私は心地よい徒労感でいっぱいだった。 今なら少し人にも優しくできる気がする。 まあほんの少しだけど。 「美弥子ちゃん電車通学?」 「うん」 「そっか。私と那月は歩きだから途中まで一緒にいこ」 遠藤真由は私の左腕に自分の右腕を巻き付いて来た。 腕ごと私に授けるみたいに。 お前は私の彼女か。 不愉快じゃないことに自分でも驚愕する。 だって信じられないくらいストンと落ち着くのだ。 最初からこうだったみたいに。 小坂は黙って後ろから付いてくる。 まるでそれが定位置であるかのように。 「家近いの?」 「うん。十五分くらい」 「朝ギリギリまで寝てられるわけだ」 「那月は朝練あるからそうもいかないけどね」 「バスケ部は今日いいの?」 「今日は休み」 「美弥子ちゃん。明日も来てくれるよね?」 「通報してくれるならね」 「するよ。結構楽しいね。はまっちゃうかも」 「でしょ?ブロックしてますって出るのもう快感なんだよね。こんだけやったんだ私って。こんだけの人間を嫌ってんだって、成果を感じる。中々凍結にならないし、アカ消ししてすぐまた出てくる奴ばっかだけど」 「鍵かけちゃうってことは悪いことしてるってわかってるってことかな?」 「悪いと思ってたら辞められるでしょ。どうしてもこの場所を奪われたくないんでしょ。つまんないお仲間と現実で一生懸命仕事してるアイドルを侮辱してる空間を失いたくないんでしょ」 「寂しいんだね」 「そうなのかもね」 真由の腕が離れると、バイバイと手を振って二人と一人に別れた。 私は少しだけ歩いて二人を振り返った。 二人は手も繋がず、だからといって距離を感じさせるくらい離れてなどいない丁度いい距離感で並んで歩いていた。 後ろ姿なので表情はわからないし、何を話しているかもわからないけど、恐らく二人はこうやって五億回歩いたんだろう。 そう感じさせる確かな目に見えないものがそこにはあった。 駅のホームでイヤホンをしていないことに気づく。 そうか人と話していると動画を回すことを忘れるわけだ。 私は慌ててスマホを取り出し、エデルのウィキペディアのページを開く。 空が赤い、こんなに遅くまで学校にいたの初めてかも。 そういえば、あの小坂の言っていた青柳先輩を好きな知り合いって、誰? 遠藤真由はあれの彼女だから違うとして、岸本先輩? 岸本先輩なら青柳先輩と両想いなんじゃないの。 心ちゃんなんて呼んでるくらいだし。 まあいいや、私には関係ない。 貴重な工作員が手に入ったんだから今日は宴だ。 家に着き、手を洗い二階の自室のパソコンを立ち上げ、ユーチューブの再生リストを回し、スマホに充電器に差し込むと下に行き母と祖母と珍しくいる姉と父の五人で夕飯を食べた。 運動したわけでもないのにお腹が空いていて、季節外れのホワイトシチューを二杯も食べた。 次の日学校へ行くと朝練が早く終わったのか教室にいた小坂に昨日のお礼を言われた。 「いいけど、あんたの言ってた青柳先輩を好きな知り合いって誰?」 「真由」 「は?」 「真由だけど」 「真由って、遠藤真由?」 「ああ」 「あんたの彼女なんじゃないの?」 「違う。彼女じゃない」 「友達いない私でも付き合ってるって知ってるくらい皆あんた達が付き合ってるって思ってるけど違うの?」 「ああ、付き合ってない」 「え、じゃああの真由って子はあのクソダサ眼鏡が好きなの?あんたの勘違いじゃなくって?」 「ああ」 「ああって、まあいいけど。でもあれだよね。どうみても青柳先輩は岸本先輩と付き合ってるかはわかんないけど、特別な関係なんじゃないの?わかんないけど」 「それはそうなんだけど、後で話す。昼休みに」 遠藤真由は青柳先輩が好き。 青柳先輩は恐らく岸本先輩が好き。 岸本先輩は多分青柳先輩が好き。 こう仮定すると、遠藤真由は失恋することになる。 あの笑えるくらい可愛い女が。 あんなこの地球上に何人いるかもわからない少なくとも東京ドームを満員にできるような大量生産クソダサ眼鏡に。 授業中もいつもならエデルのことを考えるのに今日はひたすら三人しかいない登場人物相関図を考えていた。 昼休みになると小坂が私の席にやって来て、部室で食べようと言うので鞄を持って黙って彼に付いていった。 昨日はこの遠ざかる背中を見ていたんだなとふと思う。 「あんたってさ、身長何センチ?」 「百八十四」 「エデルより二センチ小さい」 「エデルさんでかいんだな」 「足長くって顔小さくって、顔も綺麗で性格もいいの。完璧超人なんだよ。非の打ち所がないの。こんな最強の人類いる?こんな素敵な子がどっかの薄汚い馬鹿どもに誹謗中傷されてるって我慢できないんだよね。本当に許せない」 「ちゃんとパソコンでも通報しといたし、インスタも全部いいねした」 「ありがと」 小坂は昨日座っていた席に着いたので、私は昨日青柳先輩が座っていた席の隣の小坂の斜め向かいに座る。 「さっきの話の続きだけど」 「ちょっと待ってね。取りあえずユーチューブ回すから」 スマホにイヤホンを差し込み、お弁当を広げ、どうぞと告げる。 私達はよーいドンとばかりに同時に食べだす。 「真由は中学から青柳先輩のことが好きで」 「中学から?長くない?それで今まで告白もしてないの?」 「ああ」 「あんなに可愛いんだから、告白したら上手くいくでしょ」 「俺もそう思う。でも真由は頑なにしない」 「青柳先輩追いかけてこの高校入ったの?」 「ああ」 「青柳先輩気づいてんの?」 「さあ」 「さあって」 「中学と高校に離れて一年間没交渉で、高校に入学して、先輩のいる文芸部に入ったら岸本先輩がいて」 「あー。お察し」 「でもこれに関しては大丈夫で」 「何がよ?」 「岸本先輩幽霊だから」 「は?」 「岸本先輩幽霊なんだ」 「何言ってんのあんた」 「だから岸本先輩幽霊」 「幽霊部員じゃなくって?」 「幽霊部員は三年の佐藤先輩」 「いや、それはもうどうでもいいけど、幽霊ってあの幽霊?おばけのやつ?」 「ああ。もう死んでるって自分で言ってた」 「は?」 「もう何年も前に亡くなったって。本当に幽霊。三年に岸本ノエルって生徒はいないし、本人も青柳先輩も言ってたからホントに幽霊」 「話ぶっ飛びすぎじゃない?まあもういいけど。で、何、岸本先輩は幽霊だから大丈夫って?」 「ああ、本人が夏合宿できたら成仏するって」 「あっそ。まあもういいわ」 「信じない?」 「つーか、どうでもいい。私には関係ないし。私は通報してくれる人間が欲しかっただけだから、文芸部の人間関係とか心底どうでもいい」 「ならいい。通報は俺もちゃんとやる」 「あんたは?」 「俺?」 私はもぐもぐとお弁当を食べる小坂を見る。 この男本当に表情に動きがない。 何回も同じ映像使いまわせそう。 コスパがいいのか何なのか。 「あんたは遠藤真由のことはいいの?」 「何で俺?」 「あんたは好きなんじゃないの?」 「俺は別に」 「あんたらってどういう関係?幼馴染とかいうやつ?あのよく漫画とかである設定の」 「ああ。家近所。幼稚園入る前から知り合い」 そんな頃から知ってる女好きになるとか、どんだけ狭い世界で生きてんのって言ってやろうかと思ったけれど、これはいわれなき中傷ではと思ったのですんでの所で踏みとどまる。 いかんいかん、価値観は人それぞれ。 他者を思いやれなければあのボケナスどもと何ら変わらなくなってしまう。 「凄いね。そんな頃から好きなの?」 「いるのが当たり前だから何とも」 「自分でもわかんないわけだ」 「俺真由のこと好きなのか?」 「私にはそう見えるよ。だって去年から同じクラスだったとはいえ話したこともなかったクラスメイトに文芸部入ってって言うのハードル高かったでしょ?あんたあんまり女子と話さないじゃない。それって真由のためでしょ。真由が小坂先輩と一緒にいられるの部活だけだし。もう一年もないし。この行動を好きと言わずしてどれを好きとい言うの?」 小坂は椅子に凭れ黙り込む。 その横に私は真由を並べたくなる。 世の中の人たちが勝手に好きな組み合わせでカップルを捏造する気持ちが少し理解できる気がする。 お似合いって言葉だってきっとそのためにあるんだ。 「で、私にどうして欲しいの?青柳先輩と真由が上手くいくようにアシストしろっての?私そういうの上手くないと思うんだけど」 「俺も上手くない」 「ちなみに夏合宿って何?」 「夏休みに合宿したいって岸本先輩が、それが出来たら成仏できるって」 「文芸部で合宿なんてするの?運動部でもないのに?私土日はバイトあるし、夏休みもバイトの予定なんだけど」 「バイトって何してんの?」 「スーパーのレジ打ち」 「働き者だな」 「お金いるからね」 「バイトもして通報もして動画も再生して検索浄化もして忙しいな」 「ホントよ。時間がいくらあっても足りない。誰か代わりに学校行って欲しいくらい」 放課後真由と部室に行くと岸本先輩はパソコンの前にいてユーチューブを見ていて、青柳先輩はなにやらやたらと分厚い本をこれみよがしに読んでいた。 「岸本先輩幽霊なんですか?」 「うん。そーだよー。なっくんに聞いたのー?」 「はい」 「お昼休みに部室来た時どこ行ってたんですか?」 「屋上にいたよー。心ちゃんと一緒に。風に吹かれるの好きだから―。まあそもそもノエルちゃん、文芸部の人達にしか見えないみたいなんだよねー」 「そうですか」 「うん。でももう今年で終わりだと思うから、最後に楽しい思い出作りたいんだよねー。衛藤ちゃんも入ってくれたことだし」 「夏合宿って何するんですか?」 「特に決めてないけど、したことないみたいだし、ただ学校に集まって皆で楽しく過ごせたらいいかなーって」 「そうですか」 「幽霊っぽいことしようか?身体とかすり抜けられるんだけど」 「遠慮しときます」 「そう?して欲しいならいつでも言ってね。ねえ、今日はどんなことするの?面白いこと教えて」 「文芸部の活動って普段何してたんですか?」 「皆で本読んでお喋りして、たまに俳句詠んで、お喋りしてー」 「私俳句詠めませんからね」 「わかってるよー。取りあえず今日も通報いっとく?」 「行きますよ。そのために入ったんだから」 今日はユーチューブとインスタの通報と韓国の大手検索サイトの検索と称賛記事のいいね、事務所への通報メールの送り方を教えた。 文芸部というか、ミストレ応援部と化してるけどいいんだろうか。 ここまで協力的だといくら私でも申し訳ない気持ちになる。 青柳先輩という人はさっぱりわからない。 遠藤真由も私には謎だ。 本当に真由は青柳先輩が好きなんだろうか。 どうしたって真由の目からはそのような熱量はまるで感じない。 小坂の勘違いでは。 家に帰ってからも私はエデルのために肉体を動かしているけれど、精神は完全に他へ持っていかれていた。 青柳先輩は岸本先輩が好き。 これは確定でいい。 岸本先輩もそうだろう。 じゃあ真由は? 小坂は真由が好き。 これも確定。 じゃあ真由は? 意味のないことを私は考えていると自覚していた。 指先はいつも通りキーボードをエデルのために叩いている。 でも心はエデルと共になかった。 私は昨日知り合ったばかりの何の縁もゆかりもない四人のことを考えていた。 人と関わるとつくづくろくなことがないと思う。 だからいつだって私は一人がいい。 手を振ってバイバイという他人なんていらないのに。 真由からラインが入る。 凍結されたねという言葉と共に私の知らない謎のクマのキャラクターがハートを飛ばしているスタンプ。 慌ててプロテクトアカに飛ぶと凍結の知らせが来ていたので、お疲れ様ですと二十四時間エデルのために尽くしてくださっている尊敬の念をこめていいねをする。 本当にこういう人たちの献身で世の中はできているんだと痛感する。 大好きな人が酷いことを言われてるのを見るのは辛いことだ。 私も最初はしんどかった。 捏造された画像に何度も心を痛めたけど、今となっては何と可憐だったことか。 いつの間にか私はすっかり強くなっていて、奴らは地獄に落とす、どんな手をつかってもだという、バーサーカーな境地に達した。 そんな私がこんなクマのスタンプ如きに揺さぶられているとか。 友達のいない私は家族以外とラインのやり取りをしたことがなかった。 どう返したらいいんだろうと私がスマホを握りしめ硬直していると、小坂からもおめでとうと来て、その一分後青柳先輩からもおめでとうと私の知らない謎のネズミのキャラクターがお疲れさまと言っているスタンプが来た。 私は考えに考え、でも余りに待たせたらいけないので、ありがとうございます。これからもお願いします。と打ち込む。 その間三分。 体感にすると四十分。 三分あればウィキペディアの閲覧ができた。 私は椅子に凭れ、スマホを机に置いて、両手を膝に置いて息を吐く。 普段一方通行な事しかしてないとこういうの疲れる。 他人に煩わされるの何てごめんだ。 でも凍結されたのは凄く嬉しい。 世界中に凍結されたよーって触れ回りたいくらい。 まあ、でも墓石に人の写真貼ってるんだもん。 そりゃ凍結されるわなー。 スマホがラインの通知を知らせる。 真由から頑張ろうねと先程の謎のクマが両手で丸を作っているスタンプが送られてきた。 私はスマホを手に取り、暫く考えたけど、答えが出ないので、取りあえず一緒にアイスクリームが食べたいアイドルの投票に今日の分の十票を入れ、ありがとうと返信した。 これ以外の言葉が見当たらなかった。 一息する間もなく真由がおやすみという文字と謎のクマが枕を抱きしめているスタンプを送って来たので、おやすみと返した。 この一連のやり取りはたかが十分くらいなはずなのに、もう一日の仕事をやり終えた気になってしまったが、マウスを手にもう少しだけ頑張った。 眠る前にはいつもエデルのインスタを見てから眠ることにしているけど、今日は真由がくれた謎のクマのスタンプを見返してしまい、何をやっているんだと 自分で自分がわからなくなった。 まるで飢えてるみたい。 なりたくない自分になってしまう気がしてきたので、さっさとベッドに潜り込んで、エデルの願いが叶いますようにと唱えて、目と閉じたけど、浮かぶのはパソコンを玉座に据えるあの部室と知り合ったばかりの四人の男女だった。 三日も続けばそれはもう習慣。 一週間すると文芸部に行くのがもう普通のことになったし、家に帰れば真由や青柳先輩と小坂とラインでやり取りをした。 毎日の通報も新規数件とお馴染みのメンツなので最早最初の物珍しさは失われてしまい、各自思い思いに過ごしだした五月の連休明け、エデルのソロ曲が流れる最高の空間で岸本先輩が文芸部らしいことしようよーと言いだした。 「私俳句詠めないですよ」 「本の話するのー。心ちゃんいっぱい読んでんだからー。話聞くだけでも面白いよー」 「あ、あの、無理に読まなくてもいいよ。興味が湧いたらで・・・」 「先輩のその分厚い本なんですか?」 「トルストイの戦争と平和」 「タイトルからして読みたくない。真由はそれ何読んでんの?」 「トルストイ民話集。タイトルだけ知らないかな。イワンの馬鹿とか人にはどれほどの土地がいるか、とか」 「知ってる気がするけど、全然読みたいと思わない。ちなみにどれだけの土地がいるの?」 「気になってるじゃない。読んだらわかるよ」 「教えてよ。文字読むの好きじゃない」 「毎日あんなに沢山の記事にいいねしてるのに?」 「エデルへの称賛ならいくらでも読みたい。全然足りない。世界中から褒めたたえられるべき」 「あ、あの、あの、詩集とかは?衛藤さん歌あんなに好きなんだから。イェイツとかブラウニングとかシェイクスピアとか」 「ハムレットの人でしょ?エデルが舞台見に行ってた」 「そういえばインスタに写真あったね」 「あの時も馬鹿どもがぎーぎー言ってた。そんなに俳優の仕事がしたいなら脱退しろって、ご丁寧にタグまで付けて。あ―思い出したら腹立ってきた」 「よく覚えてるわねー。ノエルちゃんすぐ忘れちゃうけど。衛藤ちゃん執念深いのねー」 「私の思い出はエデルの思い出ないんです。私が思い出せることなんてこれしかないの」 「あ、あの、あの、僕もそうかも。思い出せるのゲームのイベントとガチャと読んだ本のことくらいかも」 「私より多いからいいじゃないですか。それ読み終わったら戦争と平和が加わるんでしょ。凄い持久力ですね。そんな分厚い本、私持つのも嫌です」 「これ、あと二冊あるよ」 「よくやりますね」 「あ、あ、衛藤さんもね」 「美弥子ちゃん。嵐が丘が面白いよ。多分美弥子ちゃん好きだと思う」 「何それ?」 「エミリー・ブロンテっていうイギリスの作家さん」 「あ、あ、うん。嵐が丘は本当に面白い小説だよ。こうぐっとくるセリフが随所にちりばめられてるし、おすすめ」 「ぐっとくるセリフ?」 「あたしはヒースクリフです」 「何それ?」 「あ、あ、僕は馬のかいば桶にはいってしまうだろうが好き」 「えーっとねー、ノエルちゃんは八十年かかってやっと俺の一日分しかってとこ。あの頃は八十年も生きたら最高に長生きだったんだろうねー」 「全然わかんないけど」 「読みたくなったでしょー?ノエルちゃんだって読んだんだよー」 「まあ、そのうち」 「上手い読み方あるよー。ヒースクリフをエデルちゃんだと思えばいいんだよ」 「あ、あ、エデル君はエドガーの方じゃないかなぁ。風邪と共に去りぬならアシュレー」 真由がふんわりとしたレースのように微笑む。 インスタに上げてくれたら私はいいねをするし、So stunning とコメントするだろう。 真由は本当に笑うのが上手い。 目には才能、唇には恩恵、頬には祝福。 つくづく真由は勿体ない逸材だと思う。 アイドルにでもなればいいのにと思うけれど、あんな過酷な仕事真由にはさせたくないとも思う。 ラインで今何してるの?って彼女みたいなこと聞いてくる女だけど、そういうベタベタした付き合いもまあ、慣れたし、そもそも私は美しい生き物が大好きなのだから、真由を嫌いになれるわけがないのだ。 小坂はバスケ部が休みの日には来ると言っていたけれど、そんな日は全くなかった。 中間テストで午前中で授業が終わった日、真由がお昼を食べて帰ろうというので、教室で待っていると当たり前のように小坂もついて来た。 私達は駅前のマクドナルドに入った。 真由と小坂は並んで座り私は真由の正面に座る。 何度か二人が並んで帰る後ろ姿は見ていたけど、食事をするという日常の二人を見るのは初めてだ。 年頃の付き合ってもいない男女とはどういうやり取りをするのだろうかと思って少し身構えたけど、真由は私にエデルの話をしたりして小坂は無表情でビッグマックを食べていた。 私を驚かせたのは真由のフライドポテトを何も言わず小坂が食べていたことだった。 小坂もポテトのエルを買ったのにだ。 真由が食べきれないから食べてと言ったわけでもないのにだ。 これが幼馴染の距離。 私は家に帰り夕飯を食べ、お風呂に入ってからも最近私のコックピットと呼んでいる小さな要塞と化したパソコンの前で、ミストレ再生リストを回しながら頭をかいて何度も何度も小坂と真由を取り出してはおさらいした。 二人は膝をすり合わせるほど密着していたわけじゃない。 でも世界で一番近く見えた。 二人なのに一人の人間であるかのように。 六月に入り細かい雨が降り続いている金曜日。 青柳先輩が歯医者に行くと言うので部活を休んだ。 岸本先輩もいなくて部室は真由と私の二人きりだった。 真由は本を読んでいて、私はスマホで投票を頑張っていた。 作業用BGMはいつもミストレ。 「この曲いいよね」 「ミュージックビデオもいいよ。これは珍しいくらいごりごりKPOPしてる」 「美弥子ちゃんが入ってくれなかったら、私こんなに音楽聞かなかったよ。ありがとう」 「何読んでんの?」 「トルストイの人はなぜ生きるのか」 「何で生きるの?」 「まだそこまでいってない。後で教えてあげるね」 外が雨で世界から隔絶されているようだった。 世界に二人きり。 そんな言葉が浮かんだ。 だから聞いてみることにした。 「真由は青柳先輩のことどう思ってんの?」 「どうって、好きだよ。大好き」 「えっと、ちなみにどこが?」 「先輩優しいでしょ」 「それだけ?」 「それだけって、先輩可愛いよ」 「好きになる理由としては弱くない?」 「そうかな。十分すぎると思うけど。じゃあ美弥子ちゃんはエデル君のどこが好き?」 「顔、声、性格、全て」 「私と変わんないじゃない」 「理由なんかないよ。好きになるに決まってるでしょ。あんなこの世界で人類が持てる素晴らしさの全てみたいな人間。好きにならない方がおかしいんだよ」 「先輩は優しいし、私、先輩の感性が好き」 「感性?」 「うん。本の趣味とか。先輩と私ね中学では美術部で一緒だったの。先輩の描く絵私凄く好きだったんだよね。綺麗な絵なんだよ。夢みたいな。あと独り言で徒然草暗唱しちゃうとことか」 「そんなのしてたっけ?」 「昨日もしてたよ。昨日は一握の砂だったけど」 「何それ?」 「石川啄木。東海のとか言ってたでしょ」 「憶えてない」 「先輩は面白くって素敵な人だよ」 「真由のそれは、先輩と付き合いたいってそれなの?それとも人類愛?」 「うーん。先輩が、私と付き合いたいって言ってくれたら、そうするかな」 「付き合ってもいいってこと?」 「うん、勿論」 「小坂は?」 「那月?」 「どう考えても小坂は真由のこと好きだと思うんだけど」 「うん」 「うんって」 「知ってるよ」 「真由は?」 「大好きだよ」 「それは先輩と一緒の好き?」 「違うと思う。先輩は出逢ってから好きって思ったけど、那月の場合は好きって思う前に出逢ってたから」 「小坂待ちってわけ?」 「え?」 「小坂が好きって言うの待ってんの?」 「言わないよ」 「え?」 「那月は好きだなんて言わない。私のこと好きだけど、大好きなんだけど、那月は言わないよ」 真由はこれ以上できないくらい寂しそうに笑った。 雨はいつか止むけれど、自分達はずっとこうだと言わんばかりに窓の外を暫く見つめていた。 その横顔がとても綺麗だった。 夏休みに入った。 私はバイトのシフトを沢山入れられて満足していた。 真由とは毎日ラインでやり取りして、たまに小坂と青柳先輩が加わることもあった。 青柳先輩が見たい映画があるというので皆で一緒に行くこととなり、私の最寄り駅にあるショッピングモールの映画館で集合となった。 集合時間より早めに来たつもりだったのに、真由と小坂はもう来ていた。 小坂がデカいので遠目からでもすぐにわかった。 二人は何も話していないようだった。 ただ黙って二人で並んで立っていた。 私には二人の身体はくっついていないのにくっついて見えた。 真由は私に気づくと右頬の横で小さく右手を振った。 小坂は黒い無地Tシャツに黒いだぼっとしたパンツ姿だった。 私はエデルがお洒落んさんなおかげでハイブランドの知識がすっかり身についてしまったので、ぱっと見ただけで小坂は洋服に興味がない人なんだと勝手に決めた。 もしかしたら母親が買ってきた服をそのまま着ているのかもしれない。 でもそれが彼には合っている気がした。 彼は身に着けているものまで表情がなかった。 真由は黒い英字の入ったTシャツにシャーベットグリーンのティアードスカートと長い髪をポニーテールにしていて、可愛かった。 私が小坂ならさぞ嬉しいだろうと思われたけど、小坂はこんな真由を恐らくもう思い出せない程見ているから何とも思わないのだろうと推察された。 小坂には真由が可愛いのはもう朝起きて顔を洗う、歯を磨くと同じくらい習慣なのだ。 好き以前に出逢っていた二人なのだから。 小坂先輩が見たいといったアメリカのごりごりアクション映画を見て、マクドナルドでお昼ご飯を済ませて、ショッピングモールをウロチョロして帰った。 小坂と真由はこの間同様隣に座り小坂はまた真由のポテトを食べた。 岸本先輩は幽霊らしくずっとニコニコして浮かんでいた。 八月も終わりに近づいた頃五人で私の地元の花火大会に行くことになったので駅で待ち合わせた。 学校での夏合宿は許可が下りなかったのでできないらしく、その代わりに岸本先輩が要求したのがこれだった。 浴衣着てきてねと言われたが一人で着れないのとお姉ちゃんに借りるのが面倒だったので普通にTシャツとGパンにスニーカーといういでたちで行くと案の定岸本先輩は頬を膨らませ浴衣見たかったーとごねた。 「真由は着てきてくれますよ」 「そうだろうけどー」 「あ、あの、ありがとうね。衛藤さん」 「いいえ」 制服姿の岸本先輩は夜空に浮かんでいて、どうやら岸本先輩は文芸部の部室以外だと地に足が付けていられないらしい。 青柳先輩は受験生だというのに無理なところは受けないからと夏休みは本を読んでゲームをして、家族旅行に熱海へ行くなど随分楽しんでいるらしかった。 真由は水色に朝顔の模様の入った浴衣を着て髪を三つ編みお団子にして現れた。 その横には黒いTシャツにだぼっとした黒いパンツとこの間映画に行った時と寸分たがわず同じ服にしか見えない恰好をした背の高い無表情なイケメンがいる。 何のことはないいつもの小坂だ。 「真由ちゃんかわいいー。最高。もうノエルちゃん思い残すことないかもー。まあ文化祭までは成仏しないけど」 「文化祭と言わず、もっといてください」 「ホントにかわいいよー。世界一位だよー」 この真由を見てもこいつは感動しないのかと思うと小坂が気の毒にすら思えてきた。 美しいものを見て素直に感嘆できないなんて人間として生まれたのに不幸だ。 そう思ってたのは間違いだったと気づかされたのは、それからほんの数分後のことだった。 私達は大群の流れにさからえるわけもなく、緩やかにはぐれ、私と青柳先輩と浮かぶ岸本先輩の三人と小坂と真由の二人という組み合わせで少し離れた所で花火を見ていた。 それは夏の空ばかりを見上げていた私がふと見た瞬間だった。 本当はもっと長い時間そうだったに違いない。 表情がないなんてそんなわけがなかった。 あんな風に話したこともないクラスメイトに頼むくらい彼女のために動ける男 の心が動かないはずなかったのに。 小坂は真由を見て笑っていた。 ほんの微かで、夕闇にかき消されてしまうくらい儚いものだったけど、確かにそうだった。 そんな顔して見てるくせに何が俺は真由を好きなのか?だ。 どの口が言うか。 ああもう、ふざけるな。 小坂、お前は確実に真由が好きだよ。 だって真由は好きにならずにいられないじゃない。 可愛くって優しくって不思議でつい目で追いかけちゃう。 真由はそういう女の子で、こういう女の子を知る前に知っていたらもう他の誰を好きになれると言うんだろう。 そして私は何にそんなに心をかき乱されているんだろう。 最初はどこだったんだろう。 真由が先か小坂が先か。 エデル以外どうだって良かったはずだった。 身体がエデルのために動けと入力する。 習慣だからいつものように、通報して、いいねして、投票して、動画を回して、ストリーミングしても考えるのは真由と小坂のことばかりだった。 空からは無数の光が降り注ぐのに、小坂は真由だけを見ていた。 そして私はそんな小坂を見ていた。 それは本当に短い時間で私達はすぐ合流した。 さっきまではそうとう作画班が頑張っていたんだろう。 小坂はもういつものデフォ顔に戻っていた。 でももう私は知ってしまった。 二人を考えてしまうどうしようもない理由も。 小坂は多分一生こうだということも。 別れ際真由が私に耳打ちした。 愛だったよと。 私は何それ?と顔をしかめる。 それを見て真由は笑う。 何度も思い出しては宝物のように見つめたくなる、とびっきりの笑顔で。 「トルストイのだよ。人は何故生きるのかの答え。そういえば言ってなかったなぁって今思い出した」 「ホントにそんな理由なの?」 「美弥子ちゃんはよくわかるんじゃない?」 「何で?」 「エデル君」 「愛かな?」 「それ以外の何なの?」 「執着?」 「え?」 「最近思うんだよね。エデルを誹謗中傷している人間とエデルで楽しんでいる私達って執着してるんだから一緒じゃないって」 「それは違うと思うよ。だって美弥子ちゃんはエデル君を守りたいじゃない」 「自分を守りたいだけじゃないのかなって」 「そんなことないよ」 「愛か。愛」 「うん。愛だよ」 小坂が私を送ってくれることになり、真由は青柳先輩と岸本先輩と帰っていった。 「やっぱりいい。すぐそこだから真由達追いかけなよ」 「すぐそこってどれくらい?」 「三十分くらい」 「それはすぐそこじゃない」 「人まだいっぱい歩いてるし」 「何かあってからじゃ遅い」 「それはそうだけど何にもないって」 「あるかもしれない。心配だから家の前まで送る」 「もう本当にいいって」 「じゃあ衛藤さんについていく。別にすることないし」 「は?」 「先歩いて。後ろから勝手についてくから」 「そういう問題じゃないっての。もういい。送ってくだされ」 「わかった。何かごめん」 「何がよ?」 「嫌な思いばかりさせてるんじゃないかって」 「は?うぬぼれないで。私嫌な事ならやらない。私がこの世で本当に許せないのは人殺しとエデルを誹謗中傷してる人間だけだから、大概のことは許せる。汚職とか大したことない顔の人間がアイドルやってるのとか」 私は小坂に背を向け歩き出す。 小坂は私の隣に並ぶ。 私達に距離はほとんどない。 「真由も最近エデルさんの話ばっかりする。エデルさんというより衛藤さんの話、か」 「真由が何て?」 「美弥子ちゃん面白いって。一緒にいると楽しくって落ち着くって。沈黙が苦痛じゃないって」 「そう」 「一年中おでん作るお母さんの話とか、原作で一度も会話したこともないキャラクター同士のカップリングに命を燃やすお姉さんの話とか、夜おはぎだけ食って寝るお父さんの話とか、中華ドラマばっかり見てるお祖母さんの話とか」 家族の話はどうも真由に受けが良かったので遂してしまった。 真由にお母さんがいなくって朝食もお弁当も夕飯も自分で作っていると知ったのは夏休みに入ってからだった。 私はお皿一つ洗ったことがなくって、洗濯もしたことがなく、玉ねぎやニラを切って出る涙を知らない。 真由がいつもこの世の悪いことも良いことも全てを内包するかのような笑みを見せる一端を私はその時知ってしまった。 そして小坂はもうずっとそれを知っていたんだ。 二人は互いを知り尽くすくらい知り尽くしている。 全部かき出してもう底なんてないんだ。 「小坂」 私達は信号で立ち止まる。 風が小坂の髪を揺らす。 私はそれを細い月であるかのように見つめる。 「真由が嬉しいと嬉しい?」 「あー、うん」 「真由が楽しいと楽しい?」 小坂はうんと言い信号が青になったので歩き出す。 「真由を可愛いと思う?」 「あー、うん」 「いつも?」 「あー、うん」 「毎日?」 「あー、うん」 それが何なのかわかる? 私は聞かなかった。 聞けなかった。 「衛藤さんのこと巻き込んで悪かったって思ってた。衛藤さんにはやりたいことがあって、そのためにいつも一生懸命自分で考えて行動してて。俺衛藤さん帰宅部だから名前だけでもいいから貸してくんないかなって軽く考えてた。忙しかったのにごめん」 「それはいい。私はあの時本当に一緒に通報してくれる人が欲しかったから。 それにあんたらって善人だよね。言われた通りに通報してくれるし、インスタいいねしてくれるし、投票も手伝ってくれて、動画再生も、事務所への通報もやってくれて、エデルに興味なんてないのに」 「今は真由そこそこ好きだと思う。エデルさん」 「うん、確かに。別に小坂は気にしてくれなくていい。私は好きで部活行ってるし。結構楽しい。まあ俳句は詠めないし、本も未だに全然読めてないけど」 「あー、本は俺も全然」 「読めないんだよね。嵐が丘ちょっと読んでみたんだけど、冒頭の男の語り口が鼻についてすぐやめちゃった」 「わかる。俺も本読もうと思うんだけどすぐ挫折する」 「小坂って服に興味ある?」 「服は着れたらそれでいい。センスないのはわかってるけど、どうせ自分で自分なんか見ないし、興味ない」 私達は信号に何度か引っかかりながら星空の下を二人で歩いた。 小坂に声をかけられなかったら私は今日も家にいて、動画をえんえんと回しながら通報をして、投票をして、検索浄化に勤めていただろう。 エデルを知ってからの私の思い出はエデルがあれをした、これをした、エデルの出来事だった。 こうなってしまった原因はもう思い出したくないし、思い出すつもりもない程私の今後の人生にとってもう取るに足らないことと化していた。 後悔はなかった。 人と関わり合いにならなかったこの四年余りの歳月は自分にとって酷く楽なものだったから。 でも今、何故だろう今、凄く小坂と話していたい。 この表情のない男と歩いていたい。 たった一人の前でだけ見せる顔がある男とまだ一緒にいたい。 それは叶わぬ願いだった。 小坂は私の家の前まで本当に来て、私がドアの前まで行くとじゃあとだけ言って帰っていった。 私はドアを開け階段を勢いよく上がると、自室のドアを開け、ベッドに倒れ込んだ。 パソコンを立ち上げる気にもならない。 スマホを見る気もしない。 心臓が声を上げている。 涙は止めどなく溢れる。 気づきたくなかった。 何で今更。 何で今頃。 始るべきじゃなかった。 最初から詰んでるのに。 ああ、でもどうしようもない。 止まらないし、止められない。 こんなの全然聞いてない。 予定にない。 何でどうして何で私。 ああ、もう本当にどうしようもない。 理由なんてないし、理由なんていらない。 あえて挙げるならエデルさんって言った時かもしれないし、最初からだったのかもしれない。 わからない。 だってあいつは服のセンスはないけれど女の趣味は最高にいい男なのだ。 ああ、もう、本当に。 勝手に始んな、恋。
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