優柔不断な距離

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   優柔不断な距離  やけにカラスが外で騒いでいるなと思い、ベランダに出てみるとカラスの声は上から聞こえていた。  ベランダの柵に身を寄せ見上げてみると、上の階のベランダの桟に停まっているカラスが見えた。  ガーガー言いながら、カラスは上の階のベランダの物干しに吊るされている洗濯物を真っ黒な嘴で攻撃しているようだった。  気にいらないのか寝床の材料にでもしようとしているのか分からなかったが、あまりに上で、ガーガー、ガチャガチャやっているので俺はカラスを脅す目的でベランダの桟をゴンッと叩いてみた。  カラスは物音に驚いて飛んで行った。  やれやれと安心し部屋に戻ろうとした時、頭の上に何かが落ちてきた。ふわりとした感じからカラスの糞ではないと思いながらおそるおそる頭に手をやると布のようだった。  手に取ってみるとベージュ色でレースの部分が透けている女性の下着だった。カラスが悪戯していた洗濯物が上から落ちてきたのだろう。  上の階の住人については知っている。やや豊満なボディをしたアラサーの、勝気で人を見下す目をした冷淡な、どうにもいけすかない女だ。  俺は部屋に戻り窓際のテーブルの上に下着を置き、さてどうしたものかと考えた。  面倒なのでこのまま返さない手もある。しかし妻に見つかった時に何と言おう。 「あらっ、これって?」と妻。 「上から落ちてきたんだよ」と俺。 「へえっー」と冷めた目の妻。  妻は、心配性で決断力のない俺に愛想を尽かす一歩手前で、お互いを見つめ直しましょう、と言って出て行ったのだ。  妻とは別居中だが、いつ部屋にやってくるか分からない。ここに置いておいて妻や他の誰かに見つかりでもしたら俺は女性の下着を集めるのが趣味のコレクターになってしまう。  ゴミ箱に捨ててしまおうか。だがごみ収集日に人のゴミの選別が出来ているかを病的に気にする三〇三号室の住人にでも見つかったらえらいことだ。 「燃えるゴミの中に女性の下着があったのよ。そりゃあ燃えるでしょうけど女性の下着って、ねえ。奥さんと別居してるみたいだけど本格的に離婚かしら、それとも他の女を連れ込んでるのかもしれないわよ。それでその人の下着を記念に置いていってもらって、ムスッ、ムハッ、とかしてるのよ」  知らぬ間に妙な噂をたてられかねない。  ハサミで細かく切り刻んで捨てるというのはどうだろう。それならマンションの住人に下着と気付かれる心配はなくなる。だが、この下着は人のものである。それを細かく切り刻むというのは、いかがなものか。その行為が人に知られたら俺はマンションに住む恐怖の異常者になりかねない。  俺は上の階の住人に下着を返そうと、ポケットに下着を突っ込んで部屋を飛び出した。  一つ上の階まで階段を上がり、自分の真上の部屋が見えるところまで廊下を歩いた時、はたっと思った。  ポケットに生で下着を持ってきてしまった。もし俺がこのまま心臓発作で倒れでもしたら、俺の身元を調べるために救急隊員か警察官がポケットを探り下着を見つけ唖然とするだろう。そうしたら俺は下着泥棒の汚名を着せられかねない。そんなことがなかったとしても生で持ってくるのはまずかった。せめて紙袋にでも入れてくればよかった。  当の相手に、 「これ落ちてたよ」 って生のままでは渡せないぞ。生粋の変態と思われる。  俺は躊躇った。このままドアまで歩を進められないぞと思った。引き返すか、いまさらか。何事にも決められきれない俺の弱気がマンションの廊下で俺の動きを完全にロックした。  そうだ、一階の郵便受けに生下着を放り込むというのはどうだろう。あとのことは俺は知らない。自分が知らなければどう事が進もうと構いはしない。だが郵便受けに生下着が放り込まれているのに気付いた女は恐れ慄くだろう。自分の下着がなぜだか郵便受けに入っているのだ。事の成り行きが分かるはずがない。ストーカーに付きまとわれていると思うだろう。  これはダメ、あれはダメと考え続けた。いっそのことコインを投げて決めようかとも思った。そんなことを考えている内に靴音が聞こえてきた。部屋の住人の女が廊下を歩いてきた。外から帰ってきたところのようだ。ビニール袋を手に提げている。すぐそこにいる。考えるのに夢中で全く気付かなかった。  廊下でなにやらまごまごしている俺の姿はとっくに女の視界に捉えられている。  これぞまさしく蛇に睨まれたカエルのごとく身動き一つできずただ立ちすくんでいる俺の目の前まで来た女は、ドアに鍵を差し込みながら俺に言った。 「入ったら」  マンション内別居をしている俺の妻なのだ。
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