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花火大会の会場である海岸へと続く通りには出店が並んでいた。大きな通りなので、歩けないということはないけど、人が多いことに変わりはない。はぐれたら落ち合うのは結構難しそうだ。
一番後ろを歩きながら、顔を前に向ける。カラフルな浴衣。可愛くまとめられた髪。横を歩く男子たちも見慣れた制服ではない。私服というだけでこんなにも落ち着かないものなのか。私も私服だけど着ているのはTシャツとジーンズだ。浴衣を着ているみんなよりは目立たない。
「……」
チクッと胸の奥が痛むのはどうしてだろう。
目立たなくてよかったはずなのに。変な苦しさが体の中で雲みたいに膨らむ。
潮の香りが鼻に触れる。日暮れにはまだ早く、空は青さを保ったまま。気温は少しずつ下がっているはずだけど、昼間の蒸し暑さは簡単には消えてくれない。膨らむざわめき。混ざる下駄の音。サンダルを履いている自分が小さくなっていくような気がした。
花火が始まるまではあと二時間くらい。
「どこがいいかな」
「あっちは?」
迷っている間に砂浜はレジャーシートで埋まっていく。
「あの辺、空いてるかも」
下駄では砂浜は歩きにくい。巾着やカゴバックにレジャーシートは入らない。きっとここは私がやるべきだろう。空いているスペースへと進んでいく。サンダルに砂が入っても気にせず進む。これがきっと私に求められている役割だから。
「ここでどうかな」
振り返った瞬間、間近で声が響く。
「いいじゃん。ここにしよう」
思わず体が跳ねた。早足で進んだのでまだ距離があると思っていたのに。すぐ後ろに遠藤くんがいた。みんなはまだ追いついていない。勝手に優しさを感じて、勝手に声が上擦る。
「じゃ、じゃあ、ここで」
リュックからレジャーシートを二枚取り出せば
「さすが」
と遠藤くんが小さく笑う。
遠藤くんにとっても私は「女の子」ではなく「オカン」なのだろうな。膨らんだ雲がそろそろ雨でも降らしそうだ。
「久住さん、いつも準備いいよね」
「へっ」
名前を呼ばれるとは思わず、声が跳ね上がる。間近で見せられた笑顔も、ちょっと高めの声も、遠藤くんを作るすべてが私を落ち着かなくさせる。どこに視線を合わせればいいのかわからず、固まっていると薄い唇がゆっくりと動いた。
「あのさ――」
「いい場所じゃん」
「まだ時間あるし買い出し行く?」
遠藤くんの言葉はやってきたみんなの声に掻き消された。なんて言おうとしていたのだろう。気になってしまう。でも、きっと大した内容ではないのだろう。遠藤くんはもう私を見てはいないし、みんなの話に混ざっているのだから。
ヒュー……。
みんな花火を見上げている。開いた光に照らされる浴衣は、地上で咲く花みたいに鮮やかだ。
ドン、ドン。
体の奥まで響く花火の音が、耳を内側から塞ぐ。波音もざわめきも掻き消される。
ヒュー……。
今ならきっと誰も見ていない。
ドン、ドン。
今ならきっと誰にも聞こえない。
「……浴衣、着ればよかったかな」
これだけ大勢の人が着ているなら。学校の制服と同じで、私が着ても目立たないだろう。
こぼれた本音に、自分で苦しくなる。
浴衣を着る、ただそれだけのことすらできない自分。変わりたい気持ちはあるのに変わる勇気がない自分。こわい、とか。恥ずかしい、とか。言い訳ばかり。自分からは何もしないで、他人を羨んでいるだけ。
――あだ名だって、受け入れたのは自分だ。
花火の光。花火の音。夜の空に刻まれる景色は一瞬の鮮やかさで周囲を照らす。
きっと私の悩みなんてこんなものなのだろう。必要なのは一瞬の勇気で。踏み出してしまえば、あっという間に夜の中に溶け込んでいく。
ツンと鼻の奥に響く痛み。視界がぼやけそうになる。
「ごめん、ちょっと」
お手洗い行ってくるね、と声だけかけて離れる。夜風に冷えたサンダルが心地良い。波音も砂を踏む音も聞こえない。真上から降る花火の音と周囲の声が混ざり合う。レジャーシートの隙間を進みながら手に力が入る。――何、してるんだろう。
周囲は花火を見上げる人たちでいっぱいだ。どこまで行けばいいのかもわからない。ただそっと深く息を吸い込みたい。それだけなのに。
海岸から道路へと続く階段にも人はいっぱいで、閉じ込められたように動けない。どこにも行けない。突っ立っていたら邪魔になる。端へ端へと進むけれど、どこまで行けばいいのかわからない。私の居場所はどこにあるのだろう。
――このまま、帰ってしまおうか。
そんな考えが頭を過ぎる。私がいてもいなくてもきっとそんなに変わらない。ああ、でも、レジャーシートどうしようかな。預けちゃうのも申し訳ないし。そこまで考えてしまって、やっぱり自分は変われないのだと気づく。
「……戻らなきゃ」
吸い込んだ風が胸に広がる。潮の香りと火薬の匂い。どうしたって私は私で。まるごと変わることなんてできない。
ヒュー……。
戻ろうと体の向きを変えた、瞬間。
視界を埋めるほど大きな花火が咲いた。
ドン、と強く心臓に響く衝撃。
思わず止めていた足に、微かな振動が伝わる。
ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出せば、グループでしか見たことのないアイコンが表示されていた。
指が画面に触れるのを躊躇う。どうして。なんだろう。いや、戻って来ないのを心配してるのかも。彼はみんなに優しい人だから。
「……も」
「「久住さん」」
耳が二重に音を捉える。スマートフォンを耳に当てたまま顔を上げれば、同じようにスマートフォンを持った遠藤くんが立っていた。わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。嬉しさと申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「ごめんね。もう戻るところだから」
「あのさ」
ゆっくりと動く唇。
まっすぐ向けられた視線から目が離せなくなる。
花火の光も、音も遠くなる。
落とされる言葉の一音も逃したくなくて。
ただ静かに見つめていた。
開いた花火が遠藤くんの輪郭を縁取る。
「花火大会、また行かない?」
「え、あ、そうだね。みんなで行くの楽しいよね」
一瞬浮かべてしまった期待を急いで沈める。自分だけが誘われた、なんてそんなことあるはずないのに。一瞬でも考えてしまったことが恥ずかしい。恥ずかしいと同時に、胸の中に生まれてしまった気持ちに気づいてしまう。気づいたところでどうにもできないのに。
「久住さんって、周りのことはよく見てるのに、自分のことはニブいよね」
ふっと緩んだ表情。ふふ、と小さな笑いが混ぜられ、
「浴衣、着ておいでよ」
続いた言葉に何も言えなくなる。
「レジャーシートは俺が用意しておくから」
「それは」
私の、と言いかけたところで
「二人で行くなら、その役割は俺でしょ?」
繋げられた言葉に「へっ」と声が跳ねる。いま二人って言った? そんなこと……。
きゅっと胸が鳴る。そうだったら嬉しいという気持ちのあと、浴衣を着ていた友達の姿が浮かぶ。遠藤くんは私なんかが一緒にいていい人じゃない。素直に浴衣が着れて、可愛くなろうと努力できる、そういう女の子じゃないと。それに……私は以前から気になっていたみんなとは違う。好きだと誰かに言える強さもない。
「あの」
断ろう、と口を開きかけたところで、向けられた視線が不安げに揺れたことに気づく。
みんなが、とか。私なんか、とか。結局、素直になることがこわい自分への言い訳だ。遠藤くんはまっすぐ言葉を届けてくれたのに。そんな理由で断っていいわけない。
せめて今だけは。
「遠藤くん」
――花火が上がる。
私は私の気持ちで。
「絆創膏もあったら嬉しいな」
――花火が開く。
素直になりたい。
胸の中にあった雲にも光が差し込むように。
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