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 電車内のざわめきも気にならない。窓に映る自分の姿を確認することに意識の全部が向かってしまう。変じゃないかな。思うのはそれだけだ。バクバクと心臓が激しく音を立てても、手に持った巾着の重みに引っ張られても、一番気になるのはどうしたって「変ではないだろうか」というところだった。それが「オカン」としてなのか、「女の子」としてなのかは自分でもわからないけれど。  ――浴衣、着ておいでよ。  耳の奥で蘇った声。真上で咲いた花火よりも鮮明な記憶。レジャーシートを持っていくと言ってくれた遠藤くんに 「絆創膏もあったら嬉しいな」  と返したのは一週間前のこと。  素直になれたのは一瞬だった。 「うん。用意しておく」  不安げだった表情が消え、ふわりと柔らかく笑われる。心臓がおかしなくらい跳ねた。これ以上は無理。緊張でうまく頭が回らない。変なことを口走る前に逃げたい。嬉しさよりも恥ずかしさが上回る。胸の中がむず痒くてどうしていいかわからなくなった。 「じゃあ」 「も、もう、戻らないと」  思わず遠藤くんの言葉を遮ってしまったけど、心臓がうるさすぎてそれどころではない。迎えに来てくれた遠藤くんを置き去りにする勢いで足を進める。どこをどうやって歩いたのか覚えてはいなかったが、レジャーシートの隙間をひたすら進んだ。  遠藤くんが後ろを歩いているのは気配でわかる。わかるけど、振り返ることも話しかけることもできない。  素直になりたい、と思ったのに。  簡単にはいかない。 「あ」  花火が真上で開く。光に照らされ、みんなの姿が見えた。止まることなく歩いてきたけど、本当はちょっと不安だった。戻れなかったらどうしようと思っていた。遠藤くんまで一緒に迷わせたら、と。だから、自然と振り返ったのだと思う。 「あそこ」  ドン、ドン。  光に遅れて音が弾ける。  体全体に響いたはずの衝撃は、一瞬で凪いだ。  視線がぶつかった。ただそれだけのことに息が止まる。どんなに大きな花火よりも目の前の丸い瞳に惹きつけられる。外からの振動よりも内側の鼓動の方が大きい。 「久住さん」  ざわめきも波の音も聞こえない。呼ばれた名前だけがすべてだった。近づく距離。遠藤くんが歩いてくることしかわからなくなる。 「あとで連絡するね」  すれ違う瞬間に落とされた言葉。うん、とか。はい、とか。頷くこともできない。こちらに気づいた男子から声が飛んでくる。 「おー、遅かったな」 「悪い。迷っちゃって」 「オカンと一緒だったの?」 「戻る途中で会ったから」  気温は涼しいと感じられるほどに下がったはずなのに。顔の熱はしばらく引かなかった。今が夜で、花火を見る時間でよかったと心から思った。  ――どこがいい?  花火大会の予定を送られ、選んだのは地元から一番遠い場所。  知り合いに会いたくない。選んだ理由はそれだけだ。浴衣姿を見られたくないのか、遠藤くんと一緒のところを見られたくないのか、その両方か。「似合わない」と思われるのがこわくてたまらなかった。  帯で締められているお腹がギュッと痛くなる。落とした視線の先には鼻緒と何も塗られていない爪と、指の間に巻かれた絆創膏。痛くなる前に予防として貼っている。赤い鼻緒は可愛いのに。私はやっぱり可愛くなれない。  改札を抜ける前から視界は人で埋まった。みんな花火大会へ行くのか、とざわめきと人の多さに圧倒される。立ち止まることは許されないので、流されるまま足を進める。本当はお手洗いで自分の姿を確認してから行きたかったけど。列の長さを横目に見て諦める。自分の見た目よりも遅刻しないことの方が大事だと言い聞かせて。  待ち合わせは駅の向かいにある本屋さん。自動ドアが開くとすぐに冷たい空気が肌に触れ、本の匂いが鼻に届く。人波はコンビニや屋台に吸い込まれていき、店内は静かだった。  いつ連絡が入ってもいいようにと握り締めていた画面を確認する。待ち合わせ時刻の十五分前。遠藤くんはもう来ているだろうか。  棚の間へと視線を巡らせながら足を進める。入り口が狭かったのでそれほど広くはないと思っていたが、奥行きはある。自分の身長より高い棚を過ぎるたび、左右を確かめる。連絡した方が早いとは思うが、待ち合わせ時刻よりも前に連絡したら急がせてしまうかもしれない。 「あれ」  雑誌の棚を過ぎ、文庫本の棚にたどり着いたときだった。聞こえた声に振り返る。壁沿いに並ぶ本の前、遠藤くんがいた。 「久住さん、早いね」  私よりも早く着いていた遠藤くんの言葉に思わず笑ってしまう。 「遠藤くんこそ」 「初めての場所だったからさ」  ちょっと早く出ちゃった、と小声で言われる。  笑ってくれているけれど、やっぱりこんな遠いところを選んで迷惑だったのかもしれない。 「あの、こんな遠くの花火大会、選んじゃってごめんね」  頭を下げれば、自然と視線は赤い鼻緒に落ちる。浴衣が似合うか、変じゃないかよりも。誰かに見られるこわさよりも。遠藤くんの希望を聞くべきだったのではないだろうか。自分のことしか考えられていなかったと気づいて恥ずかしくなる。 「久住さん、『できれば誰にも会いたくない』って思ったんでしょ」  言い当てられて思わず顔を上げれば、戸惑う間もなく言葉が続く。 「それ、俺も同じだから」  え、と返す前に遠藤くんが出入り口へと体を向けた。まっすぐ進んでいく遠藤くんの背中を追いかけることしかできない。言われた言葉がぐるぐると頭を回る。遠藤くんも私と一緒にいるところを見られたくないってことだろうか。でも誘ってくれたのは遠藤くんで。遠藤くんに限ってそんなふうに考えるとは思えないけど。でも、やっぱり私とは嫌だったのかもしれない。私が遠藤くんに「釣り合わなくて」恥ずかしいと思っているのと同じで、遠藤くんも私のこと……。  自動ドアを抜けたところでざわめきが戻ってくる。明るくなった視界に目が眩む。思わず立ち止まった私を遠藤くんが振り返った。 「久住さん」  どんなざわめきにも掻き消されることはない。大きくはなかったのにはっきりと聞こえる。自分の名前だから、という以上に意識が引っ張られる。恥ずかしい、とか。こわい、とか。先立つ感情以上に遠藤くんに嫌われたくないと思ってしまう。 「なんか勘違いさせちゃった?」 「え」  遠藤くんの視線が揺れるように逸れていく。 「俺がほかのやつに会いたくないのは、久住さんを見せたくないからだよ」  花火はまだ上がっていないのに、遠藤くんの顔が赤く染まっている気がした。 「……浴衣、似合ってる」  完全に顔を背けられ、なんて返せばいいのかわからなくなる。あ、とか。え、とか。小さな音ひとつ声にならない。 「行こう」  伸ばされた手と掴んでいたスマートフォンがぶつかる。  予想外の出来事にどうすることもできず、ぶつかった衝撃を握り締めたまま固まってしまう。振り返った遠藤くんは恥ずかしそうに「ごめん」と小さく笑った。 「手、繋いでもいい?」  かけられた言葉を理解するよりも先に跳ねた心臓のまま、急いでスマートフォンを巾着にしまう。 「ど、どうぞ」  どうするべきかわからず中途半端に差し出した手。 「じゃあ、改めて」  遠藤くんの優しい声と同時に柔らかな冷たさが肌を包む。夏の暑さを忘れてしまうほど心地の良い温度に、思わず聞いてしまった。 「もしかして結構早く着いてた?」  流れてくるのは、体温というよりも、冷房に晒され続けた温度だ。指先まで広がる私の熱が吸い込まれていく。 「……誘ったの、俺だから」  続く言葉を尋ねる前に体の向きを変えた遠藤くんに引き寄せられる。速くなっていく鼓動は足元で響いた下駄の音に重なった。
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