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 自分の心臓の音がこんなにうるさいなんて知らなかった。冷たかったはずの遠藤くんの手が私の体温と混ざり合って、同じ温度になっていく。ただそれだけのことに何も考えられなくなる。  隣に視線を向けたいのに、自分がどんな顔をしているのかわからなくて。どんなふうに見えているのか自信がなくて。自然と足元ばかり見てしまう。黒いサンダルに並んだ自分の下駄。赤い鼻緒。マニキュアを塗る、という発想もなくそのままの爪。  もっと頑張ればよかった。  後悔が胸に広がっていく。変に思われたくない、とか。似合わなかったらどうしよう、とか。そんなことばかり考えて臆病になっていたけど。今思うのは、ただひとつ――。 「久住さん」 「は、はい」  呼ばれて顔を上げれば、足を止めた遠藤くんと目が合う。半歩遅れて下駄の音が止まる。 「何か食べたいものある?」 「え、あ」  言われて辺りを見渡せば、屋台が道沿いに並んでいる。香ばしいソースの匂い。カステラの甘い香り。カラフルなお面。大人も子供も楽しそうに立ち止まっている。  長すぎる行列も遠藤くんの嫌いなものも避けたい。そこまで考えて、嫌いなものどころか好きなものさえ知らないのだと気づく。 「えーっと」  好き嫌いが分かれなくて、無難に食べられて……並んだ文字が視界を掠める。 「かき氷、とか?」 「なんで疑問形なの?」  遠藤くんがふっと目を細め、表情を緩めた。たったそれだけのことで心臓がきゅっと縮まる。 「遠藤くんは何がいいの?」 「俺? 俺もかき氷食べたいかな」 「ほんとに? 無理してない?」  私に合わせようとしているのではないだろうか。本当はもっと別の物がいいのではないだろうか。遠藤くんは優しい。優しいから不安になる。 「その言葉、そっくりそのまま返していい?」 「え」 「久住さん、優しいから。自分のことより周りを優先させるところあるじゃん」  繋がっていた視線がゆっくりと解かれる。 「花火誘ったの俺だし、今だって」  落とされた視線の先、繋いだ手にじわりと汗が滲む。遠藤くんは私が断れないから付き合っているのだと、手を繋いでいるのだと思っているのだろうか。包み込んでくれていた力がゆっくりと緩むのを感じる。  ――違う。  今こうしているのは、私自身が望んだから。花火も浴衣も手を繋いでいるのだって、全部、私がそうしたかったから。もっと頑張りたいと思ったのは、遠藤くんに「可愛い」って思われたかったからだ。 「あの」  離れていく手を繋ぎ止めようとした、その瞬間。 「遠藤?」  聞こえた声にびくりと肩が跳ね、反射的に引っ込めた手が遠藤くんの指にあたった。遠藤くんの表情が一瞬驚いたように揺れ、すぐに顔を背けられる。  繋ぎ止めるはずだった手を、自分が振り払ってしまったのだと気づく頃にはうるさかった鼓動も止んでいた。 「おー、久しぶり。卒業式以来?」  遠藤くんはこちらを振り返ることなく、声をかけてきたグループの方に顔を向ける。 「久しぶりだね」 「元気だったー?」  中学の同級生だろうか。遠藤くんよりも少し背の高い男子が二人と、水色と白の浴衣を着た女子が二人。緩く巻かれた髪。黄色の花飾り。巾着を持つ指は細く、鮮やかなピンク色の爪が輝く。おしゃれで可愛くて、華やかな雰囲気。クラスの中心にいるような、そんな子たち。――遠藤くんがいるべき場所だと思った。  会話に入るわけにもいかず、どこに目線を合わせればいいのかもわからず、自然と顔が下を向く。遠藤くんと私はいるべき場所が違うのだ。浴衣を着ようが、髪をまとめようが、私は「遠藤くんに釣り合う女の子」になんてなれない。  きゅっと握り締めた巾着が重さを増す。不格好に膨れた姿が自分と重なった。おしゃれをすることより心配性で備えることを優先する。私は「オカン」でしかない。 「遠藤も来てるなら誘えばよかったわ」 「今からでも一緒する?」 「隣にいるの彼女?」  自分へと興味を向けられたのだと気づき、ますます顔を上げられなくなった。 「あ、いや……ま」  遠藤くんの戸惑うような声が聞こえ、ぎゅっと強く縮まった心臓が言葉を押し上げる。 「あの、私、帰るね」 「え」  遠藤くんの顔も友達の顔も見ることなく、逃げ出した心のまま言葉を紡ぐ。 「用事思い出しちゃって。遠藤くんはこのまま友達と一緒に行って」 「久住さん」 「ほんと、ごめんね」  振り返ることなく駆け出す。向けられた視線がこわかった。似合わないと思われたのではないだろうか。浴衣、ではなく。――遠藤くんと。私は隣に並べるような、釣り合うような女の子ではないから。  浴衣を着ても。髪型を変えても。ほんの少し素直になってみても。やっぱり私は臆病なまま。遠藤くんの隣に立ちたかったけど、それを誰かに見られるのはこわくて、否定されたくなくて逃げてしまった。せっかく誘ってくれたのに。手が冷たくなるほど待っていてくれたのに。私は……。  ドン、と肩がぶつかり 「すみません」  と頭を下げつつ通り過ぎる。花火大会の会場へと向かう波の隙間を駅へと進んでいく。遠藤くんと一緒にいたときは随分歩いた気がしたけど。こうして一人で走ってみれば、駅からはそれほど離れていなかった。  待ち合わせにしていた本屋が見え始め、少しだけ足を緩める。 「何、してるんだろ……」  こぼれた声が、ざわめきに消えていく。  バクバクと動く心臓は走ったから。  お腹が痛いのは帯を締めているから。  痛くて、苦しくて、泣きたくなるのは慣れない下駄のせい。  わかっていたのに。何を期待したのだろう。花火に誘われて舞い上がって。浴衣を着て少しだけ変われた気になって。中身は何も変わっていないのに。  ――久住さん。  遠藤くんは何を言いかけたのだろう。確かめる間もなく逃げてしまった。  浮かんだ汗が顔を伝う。手の甲で乱暴に拭えば、ほんの数分前の出来事もすべて夢だった気がしてくる。温度も感触も今はもうなくて。間違えてぶつかった指先だけがジンと痛いまま。 「振り払いたかったわけじゃないのに」  ひやりと頬に触れた温度に違和感を覚える。風が冷たくなったのだと理解するより早く、視界が暗くなった。  思わず足を止め、空を見上げる。  家を出たときは雲ひとつなかったのに。気づけば暗い灰色で覆われている。天気が変わり始めていたことに気づけないくらい、私の頭の中は遠藤くんのことでいっぱいだった。  ぽつ、ぽつ。  匂いが膨らみ、雫が落ちてくる。「雨?」「うそ」周りの声が大きくなる。  ぼた、ぼた。  激しく振り出す前の余興のように大きくなっていく雫が地面に黒い丸を付けていく。 「降ってきた」 「最悪」  屋根の下へと向かう人の中、私は足を止めたまま動けない。本屋まではあと数歩。みんなと同じように駆け込んでしまえばいい。そうすれば雨から逃れられる。  前髪がぺたりと額に貼りつく。紺色の浴衣が濃く、深く色を変えていく。  下駄を履いている足に直接触れる雫。濡れた絆創膏が心地悪い。  小さな巾着は不格好に膨らんだまま。  取り出した折り畳み傘を開く。雨の勢いは増していき、跳ね上がる音が耳を塞ぐ。  遠藤くんのリュックには入っているだろうか。レジャーシートと絆創膏はあるだろうけど。そこまで考えて、ようやく体が動き出す。駅でも本屋でもない。雨から逃れた人たちによって広くなった道路へと踏み出した。  ぼたぼた、ばしゃばしゃ。  上からも下からも聞こえるのは雨音だけ。浴衣の裾も袖も重くなっていくが、構わず走り続けた。  膨らみ過ぎた巾着と同じ。どんなに外見を変えようと、中身は私のまま。簡単には変えられない。  遠藤くんの隣に立てる女の子になりたかった。おしゃれで、可愛くて、女の子らしくて。爪の先まで気を使えるような、そんな子に。  遠藤くんに、と言いながら。私は結局自分や周りの目を気にするだけで。傷つくのがこわかっただけで。遠藤くん自身を知ろうとしていなかった。好きなものも嫌いなものも知らない。中学校でどんなふうに過ごしたのかも、何も。  ――知りたい。  言葉をくれるのはいつも遠藤くんの方で。私はただ頷くだけで。自分の気持ちを伝えようともしていなかった。  振り払いたかったんじゃない。  本当は、私は――。
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