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5
傘の柄を持つ手の上、雨が弾ける。
屋台の後ろ、歩道に並ぶ商店の下へと避難する人の姿が見え、遠藤くんたちと分かれたところまで戻ってきたのだと気づく。遠藤くんもこのどこかにいるだろうか。大通りを歩く人影はなく、自分だけが取り残されている。
強まる雨音。薄い布から伝わる重み。こんな雨の中にいる自分はひどく滑稽に映っているだろう。他人の目がこわくて、自分の役割を守ることに必死で、はみ出さないことばかりを考えてきた。そうやって自分を守ることしかしてこなかったから、自分を見ていてくれた人に気づけなかった。
濡れた手から消えていく体温。
触れた指先はこれよりも冷たかっただろうか。
――もう一度、確かめたい。
「久住さん!」
雨の音も、風の音も、その声だけは掻き消せない。
振り返った先、屋根の下からこちらへと駆けてくる姿が目に入る。傘も持たず、水たまりを避けることもなく、ただまっすぐに。
「遠藤く」
握りしめていた手を掲げるようにして踏み出した、その瞬間。
ぶわり、と前から風が吹きつけた。顔全体にあたる雨粒に視界が狭まる。煽られた折り畳み傘がひっくり返り、体ごと引っ張られる。咄嗟に力を入れるが、浴衣で歩幅は制限され、下駄の底は濡れた地面を滑った。
あ、と思う間もなくバランスを崩し、支えようと捻った体が地面に近づく。膝と肘を打ちつけ、緩んだ隙間から落ちた傘が転がっていく。
「うわ」「かわいそう」耳に届くざわめき。転んだ痛みよりも、雨の冷たさよりも、恥ずかしさが体を包み込む。早く立ち上がらないと。傘を拾わないと。そうは思うが濡れた浴衣は重く、咄嗟に力を入れた足首からは痛みが走った。バシャバシャと近づく足音。今日一番見ていた黒いサンダルが視界に映り込む。
「はい」
叩くように落ちていた雨が遮られる。
「壊れてなくてよかった」
傘を拾ってくれたのだとわかったけど、顔を上げることができない。恥ずかしい。消えてしまいたい。こんなことになるなら浴衣なんて着なければよかった。折り畳みじゃなくて、長い傘を持って来ればよかった。最初から花火大会になんて来なければ……。
「久住さん?」
落ちてきた声が不安げに揺れる。
「大丈夫?」
サンダルを履いた足、ではなく。地面に膝を着くのが見える。濡れるよ、とか。どうして、とか。うまく言葉は出てこなくて。
「足、痛い?」
覗き込まれてようやく視線がぶつかる。痛かったのは足でも膝でも肘でもなくて。本当に痛みを訴えているのは胸の奥だ。込み上げてくる熱が目からこぼれていく。雨と一緒に流れていく。
「立てる?」
差し出された手に、振り払ってしまったときのことが思い出される。あんなことをしたのに。それでもまた手を伸ばしてくれる。遠藤くんは変わらない。変わらず私に向き合ってくれる。
――私もちゃんと向き合いたい。
自分のことばかりじゃなくて、遠藤くんのことを考えたい。周りに合わせるでも、気を遣うでもなく。遠藤くんに笑ってほしいから。
「あの」
差し出された手を自分から握る。今は私の手の方が冷たい。じわりと染み込んでくる温かさが胸に届く。
「さっきはごめんなさい」
立ち上がろうとした遠藤くんが動きを止める。まっすぐ見つめられ、逃げ出したくなる気持ちを必死に抑え込む。浴衣は雨に濡れていて、髪もきっとぐしゃぐしゃで、可愛い女の子には程遠いけど。それでも今、遠藤くんに伝えるべきだと、伝えたいと思うから。
「私、本当は嬉しかった。花火に誘ってくれて、浴衣似合ってるって言ってくれて、……手を繋いでくれたのも本当は嬉しかった。でも、遠藤くんと一緒にいると緊張して、うまく話せなくて、可愛く見られたいって、釣り合うようになりたいって頭がそればっかりになって、それで」
手を引かれ、体が前に傾く。途切れた言葉を繋ぐよりも早く、離れた温もりが回された腕と受け止められた胸から返ってくる。雨を吸い込んだTシャツから遠藤くんの鼓動と匂いが伝わってくる。
「……久住さん」
すぐそばで落とされた名前が熱を持つ。雨の音も匂いもざわめきも遠くなる。目の前の遠藤くんだけでいっぱいになる。
「今の言葉、そっくりそのまま返していい?」
「え」
どの言葉のことかわからず顔を上げれば、至近距離で目が合う。ビクッと心臓は跳ねたが、視線を外す隙間は見つけられない。
「こうして来てくれたことも、浴衣を着てくれたことも、手を繋いでくれたことも、俺も全部嬉しかったよ」
ふっと緩んだ表情にきゅっと胸が鳴る。
「久住さんといると緊張してうまく話せなくなるし、カッコよく見られたいって思っちゃうし……本当は転ぶ前に助けたかったってずっと思ってるし」
恥ずかしそうに笑う遠藤くんの声がくすぐったくて。
「間に合わなくてごめん」
ううん、と声にすらならない。首を振ることしかできない。
傾けられていた傘が角度を変える。赤い傘の影に染められる。いつの間にか雨が止んでいたのだと気づくよりも先、コツ、と額がぶつかった。濡れた前髪がくっつく。近すぎる距離にどうしていいかわからなくなったけれど、もうこわくはなくて。内側で弾む心臓の音だけが響き、自然と唇が動いた。
「「好きです」」
声が重なったことにびっくりして、同時に顔を離す。
丸くなった瞳が向かい合う。聞き間違えではなかったのだと確かめたいのに、聞き返せなくて。答えを探すように見つめ合う。
「「……」」
ゆっくりと離された体の隙間へと、小さな笑い声が重なり落ちていく。
「花火、やるかな」
遠藤くんが折り畳み傘を閉じ、ゆっくりと体を伸ばす。差し出された腕に掴まりながら立ち上がれば、足首の痛みは落ち着いていた。
「歩けそう?」
「うん。ゆっくりなら」
よかった、と遠藤くんが笑い、リュックへと手を突っ込む。
「タオルは持ってきてないんだよなぁ」
悔しそうに呟いた遠藤くんは長袖のシャツを取り出した。
はい、と差し出され、思わず首を振る。
「濡れちゃうよ」
髪も浴衣も乾いていない。雨に濡れたのも転んだのも自分のせいだし、歩いているうちに乾くだろう。これ以上遠藤くんに迷惑をかけたくない。
「久住さん」
名前を呼ばれて動きを止めた一瞬、遠藤くんがシャツを私の肩にかけた。ふわりと柔らかな香りが浮かび、まっすぐな視線に何も言えなくなる。
「俺にもカッコつけさせてよ」
「そんな、遠藤くんはいつでもかっこいいよ」
思わず反射的に言葉が飛び出したことに、驚きと恥ずかしさが込み上げる。目を丸くした遠藤くんが表情を緩め、視線を僅かに逸らしながら言った。
「……久住さんだって、いつでも可愛いし」
消えそうに小さな声が一瞬で熱を生む。胸の中で弾けてぶわりと顔まで熱くなる。悲しくなんて全然ないのに鼻の奥が痛くなる。
本当は可愛くなりたいのに、うまくできなくて。自分には似合わないから、と諦めたフリをして。ようやく踏み出した一歩は小さすぎて簡単に後退りしてしまった。それなのに、遠藤くんの一言で全部が救われた気がして、どうしようもなく嬉しくて泣きたくなる。
「私……オカン、なのに」
ぽつりとこぼせば、大きく温かな手がふわりと私の手を掴む。顔を背けるようにして歩き出した遠藤くんがとても小さな声で言った。
「可愛いオカンって最強だと思うけど」
え、と問い返す間もなく手を引かれる。
「……俺はカッコいいオトン目指すかな」
緩やかな風に溶かされた言葉は、足下で響く下駄の音と重なりよく聞こえなかった。
問い返そうと口を開くより先、繋がっていた手に少しだけ力が込められる。
「さっき会ったの中学の同級生なんだけどさ」
隣を見上げても、顔を背けたままの遠藤くんの表情は確かめられない。
「次会ったら『もう』彼女だって言っていい?」
ちらりと視線だけを向けられ、一瞬呼吸が止まる。
こくん、と頷いた私の視界が下駄の鼻緒まで落ちる。鮮やかなその色は、見上げた先にあった遠藤くんの耳の色とよく似ていた。
「遠藤くん」
そっと顔を上げれば、振り返った遠藤くんと視線が繋がる。
「かき氷じゃなくて、たこ焼きが食べたいな」
そう言って笑えば
「いいね。じゃあ、両方買っちゃおう」
と遠藤くんが笑った。
いつのまにか雲は割れ、光が降り注ぐ。
花火はまだ上がっていないけれど、この前よりも綺麗に見える気がした。
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