それぞれの未来へ

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『綾さんへ  私の手紙なんて見たくもない。綾さんのお怒りは、当然です。そう思われる事は、重々承知しておりますが、どうか今だけは私への感情は捨て置いて、最後まで目を通してくださいませんでしょうか? きっと賢い綾さんならば、このまま読む手を止めることはないだろうと信じ、このまま私からの最初で最後のお願いを託させていただきます。  私が綾さんへお願いをしたいこと。お察しのとおり、怜のことです。  怜のプロジェクトが成功した暁には、その成果をご両親にお伝えいただきたいのです。  いつも冷静で決断もあっという間に出し、邁進する。そんな彼が迷いながらも決断し、とても大きな一歩を踏み出しました。大隈病院のご両親は、怜がのような道を進んでいこうとしていること、ご存じないと思います。それをどうか、応援してほしいとお伝えいただけないでしょうか。  本来ならば、私自身が直接お会いしたいところですが、残念ながらそのような体力も残されていません。大学の皆には言えませんでしたが、空港に足を運べたのも、ほとんど奇跡といってもいいといえるほどで、情けない状態です。私には難しい。  ぜひ、綾さんから今回の件を知らせてあげてほしいのです。そして、この先どんな未来を彼は思い描いているのかも、伝えてほしい。怜が伸ばした手を、どうか受け取ってほしい、と。  私にとって、生きるということはとても苦しく、辛いものだと思うことのほうが断然多い人生でした。どんなに努力をしても報われず、願っても叶わず、いくら泣いても非情なくらい何も変わない。なのに、時間はどんどん掌から零れて、消えていく。それをただ茫然と見つめ、憂うことしかできない。そんな私を見守り続けてきてくれた人までも、傷つけてしまう私は不幸を振りまくだけの存在なのではないかと、病気が襲い掛かってきて以来、そう思いながら生きてきました。  そんな暗闇の世界に落ちていた私を引き上げてくれたのは、彼でした。 『人は生きていれば必ず誰かを傷付けてしまう。病気に関係なく、誰しもそうだ。でも、傷ついたとしても、その傷がいつか輝くこともあると思うんだ』その一言が、私をどれほど救ってくれたか。ずっと閉ざされていた扉が開いて、光が満ちていくように私の世界は変わりました。残された僅かな時間も、これまでを取り戻すように一気に輝きを放ち始めました。今では、もう少しでもその日が早く訪れてくれていたらと、思わずにはいられません。でも、それもまた、仕方のないことなのだと今はそう思うことにしています。長い時間一緒にいればいるほど怜へ与える傷はより深くなってしまうのですから……と綺麗事を言いたいところですが、それは最後の最後まで私には受け入れられそうにありません。  こんな私のように、この世には、どうしても分かり合えない、受け入れられないことはたくさんあるものです。それでも、向き合わねばならない日はやってくる。  そんな苦しい中でも、私は信じたいのです。  がむしゃらにでも、前に進んでいけば道は開き、何か掴めると。そして、いつの日か。その時の重い悩みや苦しみが、輝いて、笑い話になるほどに軽くなると。そんな未来が彼に、訪れる。  それは綾さんの未来にも、きっと。  私は心より願い信じ続けていこうと思います。この世界から飛び立つその日まで、その後もずっとあなたを思っています。そして、ありがとう。  伊藤美羽』  感謝すべきは俺の方で、自分ばかりが与えられてばかりだった。もっと、伝えるべきことはあったはずだった。自分の鈍感さ、口下手さが腹立たしかった。自分への怒りの感情だけなはずなのに、自分の喉からあふれる泣き声。その瞬間、あの電話が来た日以来、彼女の思いを無理矢理詰め込んで蓋をした箱が、音を立てて壊れた。美羽と一緒にいた時間が雪崩のようにとめどなく押し寄せる。彼女の風が吹くような笑顔。どれもが眩しく、温かくて、胸が苦しくなる。抱えきれないほどの幸せ。そして、美羽の言葉がいつか一度だけ涙した瞳がよみがえって、反射して光った。どうしようもなく、美羽に会いたいと、思った。  きっと、美羽がいなかったら。今はなかった。こんな道も開けなかったし、誰かを思うという気持ちがこんなにもかけがえのないものだと知ることも、この世にはまだまだ多くの希望が転がっていることも、知りえなかった。それに気づかせてくれたのは他ならぬ美羽だった。自分の壊れていた橋をまた架けてくれた。  嗚咽する俺の隣で綾は、さっと目の端を指先で拭う。 「あの子が空に還った日もこんな感じだった。最期の顔。とっても、幸せそうだったわよ」  綾は、空を見上げながら、静かに添える。その眼には、未だに僅か水の膜が張られていて今にも零れ落ちそうだった。はぁっと息を思い切り吸って、綾は両手で顔を覆う。怜も、熱くなっていた胸を冷ますように、何度か深呼吸して取り乱した心を拭っていた。  しばらくすると、綾はすっと立ち上がり、欄干の奥に流れる川を見下ろしていた。 「私は、怜とご両親のことをよくみてきた。だからこそ、こんなの渡されて、元々あの子のこと嫌いだったけれど、更に癪にさわったわ。あの子の思い描いたままに、私が動いてやるなんて冗談じゃないとも思った。だけど、私もずっと前からそのことに関しては気になってもいたし、一度くらいその話に乗ってやろうと思ったの。まぁ、怜の話ご両親から拒否されてうまくいかなかったとしても、あの子のせいにできるしね。  だから、大隈病院へ伝えに行ったわ。そしたら、お父様、お母様とても喜んでいた。拍子抜けしてしまうくらいにね。すぐにプロジェクト参加の電話を入れていた。心のどこかで、あの子の作戦通りいかなければいいと思っていたのに、うんざりするくらいに思い通りになった。本当は、全部この件は私の手柄にして、この手紙は処分してやろうと思ったのよ。だけど、今回だけは、あの子に花を持たせてやろうって思って、ここに来た。それに、そんなの処分したら祟られそうでしょう? 保管にとても困るから怜が持っていて……というか、それ、私への願いといいながら、ほぼあなたへのラブレターよね。失礼しちゃうわ」  怒ったように笑うと、くるりと怜に向き直っていた。そこには、先ほどまでの穏やかさは消えて、より一層気の強い双眸があった。 「私ね、もう一度大学入り直そうと思ってるの。この大学に入ったのも、怜を追いかけたくて入っただけで、なんの目的もなかったし、詰まんないからね。私は、やっぱり医者になろうと思う」 「あぁ。その方が、綾らしい。がんばれよ」  怜が微笑みながらそういえば、綾は満足そうに笑っていた。  そうして、本格的に腰を据える前に、怜は一度日本へ帰国することになった。  怜が真っ直ぐに向かったのは美羽の自宅。美羽そっくりの明るい声に迎え入れられた。 「わざわざ来ていただいてすみません」  丁寧に頭を下げてくる美羽の母。相変わらず明るく穏やかな笑顔だった。 「いえ。こちらこそ遅くなって申し訳ありません」  怜が深々と頭を下げると、美羽の母はニコリと笑って「どうぞ」と中へと促された。  玄関を入って、リビングへとつながる廊下。その途中に美羽の部屋が見えた。ドアが開いていて、思わずそちらに視線が行ってしまうのに気付いたのか。中見てみる? と言って美羽の部屋へ入っていく。一瞬躊躇ったが、いわれるがまま怜もその後に続いた。  中にはベッドと机だけ。机にあった書籍も、ペン立ても、時計も何もかも片付けられて、何も残っていなかった。だけど、代わりにいっぱいに置いてあったのは机いっぱいの花とその中に美羽がいた。   「あの子ね、身の回りの物を片付けていたの。そんなこと、しなくていいって言ってもきかなくてね。物は必要以上に心を縛るから残さないって。心の中でたまに思い出してくれる方がいいんだって」  あの子らしいといえば、そうだけどね。そういって、写真に目を移して悲しげに微笑む美羽の母。 「大隈くん、ごめんなさいね。あなたを傷つけてしまって。でも、あなたのお陰でずっと諦めていた幸せを最期に見つけられることができた。最期にね。あの花火の日の浴衣を着させたら、まるで微笑んでいるようで。幸せってこういう顔をしている人のことを言うのかなって母親ながらに思えたわ」  何よりも美しく輝き、儚い美羽の笑顔。あの日の夜を思い出せば、一気に視界が歪んでいきそうになるが、溢れないようにぐっと喉の奥に力を入れた。  ゆっくり上げた視線の先をもう一度飾られた美羽の写真に移す。そこにはずっと見てきたあの風が吹くような柔らかい笑顔があった。  私はずっと怜の心にいる。  私があなたの空に大きな花火を打ち上げる。そんな声がどこからか、聞こえた気がした。  家を出ると、ふわりと風が吹き込んだ。夏から秋へ季節の移り変わりを感じる爽やかな空気。  ふと見上げた先には、青く高い空に美しい羽根を持った鳥が光を携えて、大きく羽ばたいていた。  
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