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02 金魚
「先生、お出かけですか?」
「ちょっとチケットを貰ったからね、企画展に行こうと思って」
「展示ですか……」
今、斑目の手には美術館のチケットが一枚。編集が「先生の話のネタにどうぞ」と言ってくれたものだ。そういえば最近はアウトプットばかりでインプットが足りなかったような気もする。そう思った斑目は、編集の好意に甘えることにした。
と、そのことを先日から事実上同居している一つ目の猫――ナイに言ってみると、彼はおそるおそるといった様子でこう言った。
「自分、ついていっても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だと思うよ、怪異が見えている人間はそう多くはないからね」
「怪異猫の縄張りとかについては」
「そっちも大丈夫。それ以前に同行者がいる怪異に手を出すほど彼らはバカじゃないよ」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
自分が編集の好意に甘えているように、ナイは自分の好意に甘えている。不思議なものだ、と斑目は思った。人同士であればよくあることであるような気がするが、対象が怪異となると不思議であるように見える。斑目の視界内で、ナイはその一つ目の頭をぺこりと下げている。初対面の時点で思っていたが、彼はどうやらかなり丁寧な性格であるようだ。とはいえ、それは彼の個性でもある。だから、斑目はそれに関して指摘する気は一切ない。彼がそれでいいならそれでいいのだ。
それはそれとして、外出先に怪異談義のネタがないとは限らない。むしろ怪異談義のネタは外から入ってくるものだ。斑目が知っている怪談しかり、数は少ないが実際に遭遇した奇妙な体験然り。そういうわけなので、
「何か怪異談義のネタがあったら……」
と、斑目はナイに伝える。
「帰ってから、ですね。わかります」
「ありがとう、そうしてくれると助かるよ」
かくして一人と一匹は、美術館へと向かうことになった。
バスに乗って二十分、美術館の近くにあるバス停で下車する。バス停にはゆるやかな坂道があり、件の美術館はその坂の上にあるらしい。一つため息を付いて、斑目は坂を登り始めた。夏の午後、日差しが少しばかり痛い。美術館までどれくらいかかるだろう、と斑目はぼんやりと思った。少しだけ急ぎ足で歩いていると、すぐに美術館の入り口が見えてくる。日差しからは案外すぐに逃れられるようだ。
そうして一人と一匹は美術館へと入る。冷房が効いていて涼しい。先客である人々がこちらに変な視線を向けてこないあたり、彼らにはナイが見えていないようだ。本当に同行しても大丈夫だったということで、斑目は少しだけ安心する。見えている人間だからこそあまり見えている人間と接点を持ちたくないとも、思った。
斑目はまず、企画展のポスターを見ることにした。金魚を描いた絵の特集であるようだ。目玉はポスターのメインビジュアルにもなっている、とある日本画家の絵らしい。なるほど、この季節にこの特集は涼しげで良い。いい刺激になりそうだ、と斑目はひとりごちた。
一人と一匹は、企画展のエリアへと入っていく。
左右に金魚の絵、正面にも金魚の絵。まるで金魚が泳ぐ水槽に入ったかのようだ。斑目は率直にそう思った。ふと頭に乗せているナイの様子を伺おうとするが、彼は特に喉や腹を鳴らしたりはしていないようだ。猫のような見た目ではあるが、彼にとっては金魚はただの金魚であるらしい。
斑目はゆっくりと一つ一つの絵を見て回る。赤い金魚の絵が大半である中、黒い金魚の絵もいくつかある。水の描写が細かい絵、光の描写に力が入っている絵、金魚のリアリティを追求したかのような絵。日本画、水彩画、油彩画、版画。様々な絵がそこにある。
その中の一つの前で、斑目は足を止めた。ポスターのメインビジュアルにもなっている絵だ。水の波紋と赤い金魚が一匹。シンプルなモチーフを色の濃淡で繊細に描きあげている日本画だ。どこかさみしいような印象を受ける。意図してそう描いたのだろう。斑目はその絵をじっと見つめる。
すると、絵の中の金魚が――金魚の尾びれが、ゆっくりと左右に動いた。
斑目は目を丸くした。自分の気のせいでなければ、今、金魚の絵が動いていた。そんなことがありえるのだろうか? 怪異が関わっているならば、ありえるのかもしれないが……今現在、ここには怪異の気配など自分の頭上のナイくらいしか存在しない。
もう一度動くだろうかと、斑目は絵を注視する。絵の金魚の尾びれが、再びゆっくりと動く。そして、胸びれが徐々に形を変えていく。
気のせいではなかった。動いている。たしかに動いている。斑目が見つめる中、絵のなかの金魚の胸びれが人の腕へと変化をとげた。そして、その付け根からゆっくりと、体の形を変えていく。粘土をこねて形にするように、変わっていく。その形、既視感があるような。斑目は思い至った。そうだ、これは……。
斑目の視界には、女性の上半身を持つ金魚が映っていた。
目を瞬かせる。ほんの一瞬のことだ。
斑目ははっとして目の前の絵を見る。金魚の絵だ。ゆうゆうと水中を泳ぐ金魚の絵――金魚が動いている様子は、ない。金魚の絵はただの金魚の絵としてそこに存在している。先程斑目が見た光景は嘘であると言っているかのように。
だが、実際に見た。金魚が動いている様子を見た。金魚が、徐々に人魚になろうとしている様を見た――。
◇
「いや、本当に……いろいろなものを見た気がするね」
「不思議なものもありましたね」
仕事部屋の椅子に腰掛けながら、斑目は展示で見たものを思い返す。
「金魚の絵」
「はい」
「俺の見間違いじゃあなかったら、絵の金魚が動いていた」
「自分も、あれは動いていたと思います」
怪異であるナイにも見えていたらしい。つまり、あれは確実に動いていた。どういうわけか、最終的には元に戻ったらしいが。白昼夢と言うにはおかしい。あれは現実だ。たしかにあったことだ。斑目は確信している。
「どう思う? 怪異を文字通り怪異として描ける人間はいると思うかい」
「先生のような見える人間なら“いる”と即答できるのですが……、怪異を怪異として描ける人間はいるにはいるとしか言えません」
「いるにはいる、つまり数は少ない」
「はい」
「まあ……そういう人間は、いる。いたから、俺たちが動く金魚の絵を見たってことになる」
画家は怪異を怪異として描くつもりであの絵を描いたのだろうか? それとも、意図せず怪異を生み出してしまったのだろうか?
理由はどうあれ、あの絵は怪異となった。害が及んでいるわけではない以上、当面はあのままにされるのだろう。たまたまやってきた見える人間が、動く絵を見るだけという状態のまま。
それはそれとして、斑目には一つ気になることがあった。
「あの金魚は人魚になろうとしていたね」
「していましたね」
金魚の姿が変わっていく過程を、自分たちは見た。胸びれが人の腕になり、体の一部が女性の上半身になる様子を。一匹の金魚が人魚になっていく過程を。
もしも、あの時はっと気づくことなく、変容を最後まで見届けていたらどうなっていただろうか。そう思うと、少しだけ背筋がぞっとした。これについては深く考えない方がいい、斑目はそう判断した。
「人魚になって何をするつもりだったんだろう」
物語の人魚のように恋する人と結ばれようとしたのだろうか? 物語の人魚のように、呪詛を明かりに込めて嵐を呼ぶつもりだったのだろうか?
いろいろ想像はしてみるが、何が正解かは金魚当人にしかわからないのだろう。窓の外に視線を移し、斑目は小さく息を吐いた。
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