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 最低の気分だった。  ルイス・ターナーは、本日幾度目になるかわからない深いため息を漏らした。  辺りは見渡す限りのどかな田園風景で、頭上には満天の星空が広がっている。  遠くの方にちらほらと見えるのは、民家や外灯の明かりだろうか。酷く閑散としていて、ルイスの他に人気はない。  どう考えても自分が目指していた場所は、ここではない。ここは、土地勘のない南フランスで、自分が生まれ育ったニューヨークではないが、それだけは断言できた。  数時間前までは確かに、マルセイユにいた。仕事絡みで行われたパーティーに出席していたのだ。それが、いまや華やかな会場からは一転し、人気もない暗い田舎道にいる。  本来ならば今頃は、帰りの飛行機の中にいる筈だったのに。 「ここはどこだ」  途方に暮れる、とはまさにこのことだ。  思えば、秘書が放った一言がすべての始まりだったのかもしれない。 『ああルイス、ごめんなさい! ソフィアが急に熱を出したって、ベビーシッターから連絡が入ったの!』  秘書のミッシェルはシングルマザーで、病弱な一人娘を溺愛している。普段は冷静なミッシェルの酷く取り乱した様子に、ルイスは彼女が次の言葉を発する前に「帰れ」と命令を下した。  一緒に帰国する、というわけにはいかなかった。パーティーはまだ始まっておらず、大事な取引先への挨拶も済んではいなかったからだ。  気心が知れた仲とはいえ、ミッシェルは普段ルイスに対して『社長』呼びを徹底している。その呼び方が崩れるくらい彼女は動揺していた。  『でも、』と眉をひそめ何かを言い募ろうとしたミッシェルに、「くどい」と返し、それ以上は有無を言わせなかった。顔を曇らせた彼女は、帰り間際に何度もこちらを振り返っていたが――。  今ならば、彼女が娘を想いながらも、何故あれほどまでに渋ったのか理由がわかる。  景気付けにと喉をしめらせたアルコールは久しぶりだったし、適度な緊張感と高揚感に、少しばかり気が大きくなっていたのかもしれない。  決して、忘れていたわけではない。そう、忘れていたわけではないのだ。  自分が、極度の方向音痴だということを。  昔からそうだった。目印を見ているようで何も見ていない。平気で曲がる道を間違え素通りし、反対方向へ進んでしまう。近道をしようとした挙句、迷って数時間帰れなかったことなど数え切れない。うっかりしていると、慣れ親しんでいる筈のニューヨークの市街でさえ迷ってしまうのだ。  『仕事はできるのに一体どうして』という文句は、もう聞き飽きた。誰に言われるまでもない。ルイス本人が一番疑問に思っている。  三十二年間、悩み続けてきた欠点だ。どうにかしたいが、どうにもならない。最近は一人で出歩くことを極力避け、食事さえも宅配で済ませていた。  パーティーが終わった後、ルイスはニースの空港に向かった、つもりだった。  タクシーで最寄りの駅まで向かい、そこから列車に乗った。途中の駅でバスに乗り換え空港の前で降りる、筈だった。しかし調べた所要時間を大幅に超えても、バスは空港に着かなかった。  窓の外の風景が次第にのどかになっていく。漸く覚えた不安に、バスを降りた。  気がついたときには遅かった。  スマートフォンで検索している間、少し、ほんの少し目を離した隙に、隣の席に置いておいたはずの鞄がなくなっていたのだ。  サイフも航空チケットもパスポートも、ルイスは持っていた荷物の大半を失くしてしまった。ルイスに残された物は、握りしめていたスマートフォンと、スーツのポケットに入れておいたタバコとライター、そして携帯灰皿だけだった。  一瞬でも荷物から目を離した自分が悪い。今更嘆いても仕方がない。ルイスはあっさりと荷物のことを諦めた。  元々、物に対する執着は薄い方だ。盗られなくてよかったと思ったのは、以前日本を訪れた際に土産にと購入した携帯灰皿だけだった。特別高価なものではないが、割合気に入っていて常に持ち歩いている。  鞄に入っていた現金など、ルイスが日々稼ぐ収入を考えれば、はした金と言ってよかった。少しも惜しくはなかったし、クレジットカードも止めてしまえばどうということもない。  しかし、問題はパスポートと飛行機のチケットだった。このままではアメリカに帰れない。  とりあえず、最寄りの警察署に行かなければ。そう思い歩き出したものの、どうやらまたしても見当違いの方向へ来てしまったらしい。  いつの間にか陽はとっぷりと暮れ落ちてしまった。外灯の少ない田舎道ではどこをどう歩いたら目的地にたどり着けるのか、ただでさえ方向音痴な上、土地勘もないルイスには全く判断がつかなかった。  砂利の混じりあった小道は、歩を進めるたびに小さな音を立てる。マンハッタンの完璧に舗装された道路ではあり得ない、ジャリジャリとした耳慣れない音が、ルイスの苛立ちをあおった。  バスを降りてからしばらくの間はちらほらとあった人影も、陽が暮れてからは全く見かけなくなってしまった。  こんなことになるのならば、もっと早くに誰かに道を訊けばよかった。自身の判断の甘さに腹が立って仕方がない。  道を尋ねなかったのは、たとえ知らない人間であっても、弱味をさらけ出すようなマネをしたくないと、ルイスの愚かなプライドが邪魔したせいだった。  ニューヨークの通りにあるような二十四時間営業のデリもない。いや、デリどころかそもそも建物がほとんど見当たらない。見えるのはなだらかな丘と、その先にちらほらと見える民家の明かりだけだ。信仰心の薄いルイスも、普段の行いを悔い改めて、神に縋りつきたくなった。  まさかニューヨークから遠く離れたプロヴァンスで、こんなことになろうとは。  スマートフォンも電波状況が悪いのか、先ほどから圏外表示が続いていて、全く使い物にならない。たとえアプリが正常に動いたとしても、地図を読むという行為が恐ろしく不得手なルイスにとっては、その機能を使いこなせるかどうかはわからなかったが。  ため息が止まらない。  ここがどこだかわからない。足が痛い。疲れた。眠りたい。  唯一の救いは、天気が良いということだ。仕立ての良いスーツのおかげか、若干の肌寒さはあるものの、耐えられないというほどではない。  野宿するしかなさそうだと、ルイスは腹をくくった。  どこか夜露を遮れる場所はないものか。辺りに視線を彷徨わせるが、どこもかしこも畑ばかりで近くには小屋の一つも見当たらない。もう少しだけ、歩いてみようか。  朝になり明るくなれば、事態は好転するとまではいかなくても、多少はマシになる気がした。少なくともこれ以上悪くなることはないだろう。  今更焦っても仕方がない。落ち着こうと、胸元からタバコを取り出し口にくわえたところで、はたと思い留まった。法的に問題がないかどうか、気になったのだ。  タバコをくわえたまま考え込むこと数秒。背後から聞こえた微かな物音と気配に、ルイスは振り返った。  闇に沈む影に、うっかりおかしな声を発するところだった。目を凝らすと、自分より幾分か若い、スーツ姿の青年が立っていることに気がつく。  数時間ぶりに見た人間の姿だった。道を訊くべきだろうか? しかし、なんと声をかければいい?  悩んだルイスの口元からタバコがぽろり、と落ちかける。慌てて指で支えると、凝視されている気がした。  どうにも居心地が悪い。先ほど頭をかすめた可能性に、ルイスは口を開いた。 「あー、もしかして、ここは禁煙、か?」  すぐには返事がなかった。フランス語に自信がないわけではなかったが、プロヴァンス地方では独特の訛りがあると聞いていた。もしかしたら、言葉が通じなかったのかもしれない。  ほんの少しの間を置いて、タバコと携帯灰皿を見せるように軽く振ると、ようやく青年が反応を見せた。 「ねぇ、それはもしかして携帯灰皿? 君はすごくマナーがいいんだね。道端に捨てられるのは山火事の危険があるから困るけど、それなら大丈夫だよ」  いやに耳あたりのいい声だった。  ルイスの学んだフランス語とは違い、やはり独特の訛りがある。早口で、どことなく陽気な喋り口調は、軽やかな音楽を聞いているように思えた。  まるで歌うような弾んだ声に、ルイスは酷く戸惑った。  静かな夜には不釣り合いとも思えるほど、明るい声だった。太陽の下で聞いたならば、これほど奇妙だとは思わなかったかもしれない。 「……それなら遠慮なく」  息を吸い込みながら、タバコに火をつける。数秒間目を閉じ煙を味わうと、ほんの少し落ち着いた気がした。  また視線を感じ、顔を上げる。そこで漸く、青年が思っていたよりも近くに立っていることに気がついた。  直感的に、苦手なタイプの人間だ、と思った。  おそらく金髪だろう。少し癖のあるやわらかそうな髪が、夜風に揺れる。小柄なルイスよりもはるかに長身で、広い肩幅に、長い脚。  一言で言えば、美男子だった。ルイスのコンプレックスをこれでもかとついてくる。  ざっくりと後ろで一つにまとめたルイスの茶色い髪の毛は、艶こそあれど、あまり洒落ているとは言い難い。忙しさにかまけて、伸ばしっぱなしにしているせいだろう。  スーツこそオーダーメイドの一流品だが、ルイスが身に纏っているもので、目に付くものはそれだけだ。  不細工ではないが、特別整っているというわけでもない平凡な顔立ちに、筋肉のつきにくい貧相な身体つき。薄い肩。猫背もなかなか治らない。  青年はルイスの胸中を知ってか知らずか、ニコニコと邪気のない顔で笑っている。 「こんな遅い時間に外に出ている人がいるなんて珍しいことだから、びっくりしてたんだ。この辺りじゃ見ない顔だね。最近、引っ越して来たの?」  本来ならば自ら他人と関わりあおう、などとは微塵も思わないルイスだが、今はどうにかこの状況から脱するために話をしなければならないとわかっていた。それが、たとえ自分の苦手な類の人間であったとしても。  しかし、またしてもプライドが邪魔をして、面と向かって「迷っている」と言うことは憚られた。ほんの一瞬悩んだ末に、青年の持っているワインボトルに目が行った。 「あー、いや。そうじゃない。……そっちは、結婚式の帰り?」 「大当たり! すごく良い式だったよ。アルルまで行ってきたんだけど、あそこの民族衣装はやっぱり素晴らしいね」  聞き慣れない地名に、ルイスは首を傾げた。 「アルル……?」 「そっか。やっぱり君はこの辺りの人間じゃないんだね。見たところ、君も結婚式かパーティーの帰りみたいだけど……。親戚か友達のところにでも行く途中? 場所はわかる?」 「いや。そうじゃなくて。あー、……実は…………」  意を決したものの、たった一言がなかなか言い出せない。半端に口を開いたまま黙り込んだルイスを見やり、青年は思いついたように言った。 「もしかして、道に迷った? 暗い中で探すのは大変だよ。この辺りは電波も悪いし、警察署や案内所もないし。今晩はもう遅いから、とりあえず僕の家に一晩泊まって、明日の朝になったら連絡してみるのはどうかな」  あまりにもさらりと告げられた都合が良過ぎる言葉に、ルイスは動揺した。 「……家って」 「家族でシャンブル・ドットを経営してるんだ。ちょうどオフシーズンに入って、部屋も空いているし」 「シャンブル・ドット? あー、ホテルみたいなところ?」  青年はにこやかに笑って「Oui」と頷いた。  口ずさむような甘い囁きは酷く誘惑的だったが、重要な問題があることをルイスは忘れてはいなかった。 「いや、だが。金がない。バスを降りた時にスリに遭って、鞄を」  持っていかれた、という言葉が弱々しく響いた。実際に、言葉にした瞬間の情けなさは尋常ではなかった。  酷く屈辱的だった。  電子マネーはあるが、おそらくこんな田舎では使えないだろう。そうなればただのゴミ同然だ。金どころか、ルイス本人を証明するものも何も持ち合わせていない。情けない。恥ずかしい。いたたまれない。  自然と俯いたルイスの耳に飛び込んできたのは、心底驚いたという風な青年の大きな声だった。 「それならますます大変じゃない!」  反射で見上げた先の青年は、酷く大真面目な顔をしている。その表情のどこにも、嘲りや煩わしさの類は見られなかった。 「お金はいいよ。古い家だし、豪華な部屋を提供できるわけじゃないもの。ああ、もちろん掃除はきちんとしてるから、その点は心配しないで。簡単な食事くらいならサービスできると思うよ」  てっきり馬鹿にされると思っていたルイスは、呆気にとられた。青年の口から出た言葉が信じられない。つい、声に険が混じる。 「少し信用し過ぎじゃないか? 嘘をついているとは思わないのか? 俺が強盗だったらどうする気だ?」  詰るように言うと、青年は一瞬きょとん、とした後盛大に噴き出した。 「君が強盗? そんな風にはとても思えないよ。強盗はそんな上等な服を着たりしないし、きっと携帯灰皿でタバコを吸ったりもしないんじゃないかな。それに、困っている人には優しくするものでしょう? 誰が僕の立場でも、きっと同じようにする筈だよ」  そう言いながらあまりにも可笑しそうに笑うので、ルイスは少し憮然としてしまった。 「ねぇ、そんなことより君、随分寒そうだよ」  ふと思いついたような青年の声と同時に、ふわりとルイスの肩に大き目のコートがかけられる。ほどよいコートの重みとあたたかさに、自然とほっと息が出た。  礼を言うべきだろうか。しかしすぐには声が出せずに、ルイスは眉根を寄せたまま青年を見上げてしまう。 「今日は少し冷えるから、風邪を引いたら大変だよ」  ルイスの視線をどう捉えたのか、彼はにこりと笑って咳ばらいを一つした後、改まった声を出した。 「それじゃあ、自己紹介から始めるね。僕はレオナール・ブラン。皆はレオって呼ぶよ。歳は二十二で、趣味は料理。えーと。それから、さっきも話したけど、家はシャンブル・ドットをやっていて」 「急に何だ」 「人に信用してもらう為には、まずは僕のことを知ってもらわなくちゃ」  レオナールと名乗った青年は、茶目っ気たっぷりにウインクまでしてみせた。それがあまりにも様になっていて、ほんの少し腹がたった。  この男は馬鹿がつくほどの、お人よしだ。  ルイスは呆れた。と同時に、心の底からありがたい、と思った。 「助かる。金は後で、必ず返す」  ルイスの頷きに、レオナールは満足そうに笑った。 「いいって言っているのに、君は随分律儀なんだね。ねぇ、そんなことよりも、君の名前を教えてもらってもいいかな、ムシュー・デュガス?」 「デュガス?」  聞き慣れない単語に、ルイスは首を捻った。 「……褒め言葉だよ。君の瞳がすごく綺麗だと思って」  ルイスは当惑した。基本的にルイスの視力は良くないし、夜目も利かない。今もおそらく、睨みつけているようにしか見えない筈だ。  それとも、これは冗談か。または揶揄されているのだろうか。どちらなのか判断がつかないまま、ため息交じりに名前を告げる。 「ルイス・ターナー」  すると、レオナールは「ルイス」と軽やかに、音を転がすように名を呼んだ。まるで歌でも口ずさんでいるような、響きだった。そのくせ、真剣な表情でルイスの顔を覗き込んでくる。  近い。  本能的に距離を取ろうとしたが、どうしてか足が動かなかった。間近でレオナールが、どこかうっとりとした声で呟く。 「本当に、すごく綺麗だ……」  やはり、からかわれているのだろうか。本心が全く読めない。ルイスの目つきの悪さを褒めた人間など初めて見た。  二度にわたる賛辞に、何も言えず凝視すると、レオナールはまたにっこりと笑った。 「どうしよう。ちょっと、困ったことになったかも」  そう言ったレオナールは、ちっとも困った風には見えない顔だ。どちらかといえば、今にも歌い出すのではないかと思えるほど、上機嫌に見える。ルイスは首を捻った。 「何がだ?」  どういう意味だ、と眉を寄せたルイスを正面から見つめて、レオナールは一段と深い笑みを浮かべる。  その顔があまりにも嬉しそうに見えて、思わずルイスは一瞬見惚れてしまった。 「僕は君に恋をしたのかもしれない」 「…………は?」  ちょうどそのとき、二人の頭上で星が一筋美しい弧を描いて流れたことにも、ルイスは気がつけなかった。
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