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 サンドラが腕によりをかけたディナーは、どれも最高の一品だった。  ムール貝のグラティネに、トマトのプチ・ファルシー、美しいミルフィーユ状のティアン・ド・レギューム。ワインはとっておきだというシャトーヌフ・デュ・パプ産の白。  極上の食事と、あたたかな笑い声にあふれた夕食は、涙が出そうなくらい幸せな時間だった。  ミッシェルが迎えに来てくれるマルセイユまでは一時間半、マルセイユからニースまでは約二時間半。フライトの時間を考えると、昼前には出立しなければならない。  眠らなければ、と思えば思うほど、ルイスは寝付けなかった。時計の針はもうすぐ十二時を指そうとしている。  かつての晩と同じように、しん、と寝静まった廊下を、ルイスはひっそりと歩いた。不審者だと思われないようにするためではなく、彼らの幸せな眠りを妨げないようにするために。  向かったキッチンのドアの隙間から、オレンジ色の光がこぼれている。  ドアをそっと押し開けると、ルイスの淡い期待通り、レオナールがいた。 「やっぱり起きてたか」 「……眠れるわけないよ」  小さく笑ったレオナールの目元がほんの少し赤いのは、散々泣いたその名残だ。  宝石のように美しいカリソンが、レオナールの手元に見えた。 「また作ってたのか」 「うん。明日、ルイスに持って行ってもらおうと思って」 「もう食える?」 「まだだめ。ちゃんと冷えてないから美味しくないよ」  手を伸ばそうとしたルイスから皿を取り上げながら、レオナールが、くすりと笑った。  沈黙が一瞬落ちた。 「ねぇ、ルイス。ちょっとだけ、散歩しない?」 「こんな時間に、散歩?」 「うん。ね、いいでしょう? 今日は空気が澄んでいるから、きっと綺麗な星空が見られるよ」  連れて行かれたのは、毎日子どもたちと散々遊びつくした庭だった。  最初の頃は雑草と全く見分けのつかなかったハーブや花も、カシュ・カシュでレオナールがよく隠れる大きなプラタナスの木も、いつの間にかルイスの目にしっくりと馴染んだ。  レオナールに借りた彼のマウンテンパーカーは大き目で、少し袖が余ってしまう。ほんの少しの悔しさは、やはりぬぐいきれない。  乾いた夜風の冷たさが肌を刺す。ルイスは首を竦めた。 「さっむ」 「もう冬も近いね」  指を絡めながら、夜の庭をゆっくりと歩く。  ぽっかりと丸く開いた木立の隙間から、煌めく星空が見えた。  美しい満天の星空に、レオナールと出会った日を思い出す。あの日、全てが始まったのだ。  ハーブの匂いが混じった夜風が葉を揺らす。ホー、ホーと、どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえてくる。 「あ、そうだ。あれくれよ。おまえの作ったサントン人形」 「ライオン?」 「だけじゃなくて。あー、なんだっけ?」 「デュガス?」 「そう。それも一緒に。クリスマスに、飾るんだろ?」  レオナールの作った手のひらにすっぽりと収まってしまう小さな人形は、一つだけだと少し寂しい。二つ一緒でないと、可哀想な気がした。  隣でレオナールが嬉しそうに笑った。 「じゃあ、僕はルイスの作った王蟲をもらってもいい? 大事にするから」  サンドラも、マティスでさえも、一見何かわからなかった虫の人形を思い出して、ルイスは苦笑いを浮かべた。  様々な思い出が蘇って来る。初めて挑戦したジャガイモの皮むきで指を切りそうになったり、ゲーム画面では見慣れた嘘みたいな赤と白のまだら模様の毒キノコを見つけたり。  どうしようもない、なんでもない、ありふれた日々が、懐かしく思える。  楽しかった。  最高に、楽しい日々だった。 「ありがとう、ルイス。この家を守ってくれて」  ぽつりと、レオナールが声を落とした。星空に吸い込まれそうなほど、小さな声だった。見上げると、レオナールが優しく微笑んでいる。 「もう何回も聞いた」 「そうだけど。でも、何回言ったって、言い足りないよ。……僕は、なんにもできなかった」 「違う」  ルイスの否定に、レオナールが顔を上げる。 「言っただろ? 俺はおまえに貰ったもんを返したいと思っただけだ。だから、まぁ要するに、おまえの功績だ」  あの日、レオナールと出会わなければ、自分はここに来なかった。こんなにも素晴らしい、こんなにも愛おしい感情を、自分は知ることはなかっただろう。けれど上手く言葉にできない。 「……そっか」  二人で寄り添うように、芝生の上に寝っ転がった。目の前に広がる濃紺の海にちりばめられた小さな光を、酷く美しいと思った。  明日から、元の生活に戻る。  急に胸の内に苦しさが込み上げてきた。  ああ、そうか。寂しいのだ。  この地に来てから、ずっと一緒だった。何をするにも、どこに行くにも、いつもレオナールが隣にいた。 「君の隣は、すごくあったかくて……、ずっと幸せな夢を見てるみたいだった」  レオナールが、ひとり言のように呟く。絡んだ指先に、ほんの少し力が籠められる。  込み上げてくるものを押さえ込むように、ルイスは瞳を固く閉じた。  そうしなければ、泣いてしまいそうだった。  決して叶わないとわかっている無邪気な子どもの願い事のような想いが、ルイスの頭の中を駆け巡る。  このまま時間が止まってしまえばいいのに。明日が来なければいいのに。  あたたかな陽だまりの中にいるような、穏やかな非日常が、終わりを告げようとしている。 「……ルイス? 眠っちゃった? ……風邪引いちゃうよルイス、起きて」  レオナールの囁くような、低い声が耳元に落ちる。 「…………起きないと、キスするよ?」  震えるような小さな声だった。ルイスは目を閉じたまま動かなかった。  数秒か数十秒か。待ってみたが、一向にレオナールが動く気配はない。  我慢の限界だった。 「……なんでしないんだよ」 「ルイス、起きてたの!?」  目を開けると、覗き込むような姿勢のレオナールがいた。ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼に、どうしてか酷く苛立った。 「この、ヘタレライオン」  レオナールの首元を掴んで、引き寄せる。唇が触れあって、吐息が重なった。触れ合うだけのキスを何度も繰り返す。  ルイスの頬に、冷たい滴が落ちてきた。 「泣くなよ。俺まで泣きたくなるだろ」  大粒の涙が、レオナールの頬を濡らしている。袖口で拭ってやるが、全く止まりそうにない。 「ごめん」  レオナールの震える声に、嗚咽が混ざる。  柔らかな金の髪を撫でながら、ルイスはそっとキスを繰り返した。目元に、頬に、額に、唇に。ありったけの想いを込めて。  優しくて臆病で繊細なレオナールが、誰よりも愛おしい。  子どものように涙を零すレオナールが、可哀想で可愛くて。早く泣き止んでほしい。  それなのに、嗚咽は一層深くなるばかりだ。 「おまえ、今日泣いてばっかだな」 「ホント、ごめん。明日は、ちゃんと、笑えるはずだから」 「あー、もう。いいよ。好きなだけ泣けよ」  そう言いながら、ルイスも自身の瞳が熱を持ったように熱くなるのを感じた。きっと明日の朝は、お互い酷い顔をしているに違いない。  いろいろな感情が堰を切ったようにあふれ出して止まらない。言葉が、頭の中で空回りする。  何と告げればいいのだろう。そもそも、この気持ちを伝えることが正しいことなのかどうかも、ルイスにはわからない。「好きだ」と一言告げたとして、明日にはアメリカに帰るのに。  ルイスが、ただ、願うのは――。 「……明日から、この先ずっと。レオ、おまえにとっていい日でありますように」  この孤独な最後のライオンが、どうか幸せでありますように。  明日も、明後日も、その次の日も。またその次の日も。  どうか心から、笑っていられますように。 「ルイス。君も、ずっと。…………ずっと、大好きだよ」  涙混じりの声が、いつまでも耳に残った。
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