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10
ルイスがアメリカに帰国して二週間が経過しようとしていた。
十二月に入ったニューヨークの街は、クリスマス一色に染まっている。
ロックフェラーセンターのツリーは煌びやかに光輝き、ブライアントパークやセントラルパークではアイススケートリンクが開設されている。ホリデーマーケットは、カップルや家族連れで連日大賑わいだ。
マンハッタンにあるオフィスビルの三十階。電話を片手に街を見下ろすルイスの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
『――ルイス、久しぶりね。元気?』
連日止まらないイライラが、サンドラの柔らかな声でほんの少し緩和される。
このところタバコの量が一気に増えた。プロヴァンスでは結局吸うことさえも忘れていて、禁煙に成功したのではないかと思っていたのに、以前よりも酷いくらいだ。
プロヴァンスで味を占めた菓子の弊害かもしれない。
何となく口寂しいのだ。
レオナールが持たせてくれたカリソンも、すぐになくなってしまって、日に日に口寂しさは募る一方だった。
「まぁ、なんとかな。そっちはどう?』
『ええ、昨日ね、兄から振り込みがあったの。あなたに報告しておかなくちゃと思って』
「ああ、そうか。ありがとう。で、よろい戸はちゃんと直すんだろ?」
『ええ、まずはあなたの部屋から工事を始める予定でいるわ。ベストシーズンまでに他のところも修繕しようかって、マティスとも話していてね。綺麗にするから、今度帰ってくる日を楽しみにしていて』
相づちを打ちながら、ルイスはポケットに忍ばせていたしおりを取り出し、指先で弄んだ。
これを見ると、出発の朝、今にも泣き出しそうな顔で笑ったレオナールの顔を否応なしに思い出してしまう。ふわりと寂しげに微笑んだ目元は、やはり赤かった。脳裏に焼き付いて未だに忘れられない。
「あー、その。……みんなは、どうしてる?」
一番聞きたいのは、金のたてがみのライオンのことだったけれど。
『マティスは今日も隣町のレストランへ出かけているわ。リュリュもジョルジュも、風邪も引かずに毎日庭で遊んでいるし。レオは……』
「レオは?」
『大丈夫。きっとそのうち元気になると思うわ』
今も時折寂しそうにしているのだろうか。そう思うと胸が締め付けられるように痛む。
『だから……ねぇ、ルイス。本当に、よろしくね?』
「?」
『それじゃあ、ルイス。素敵なクリスマスを』
「ああ。そっちも」
サンドラの言葉に引っかかりを覚えながらも、返事をして通話を切った。
何本か進行しているプロジェクトが落ち着くか、あらかた目途が立ったら、また休暇を取ってプロヴァンスに行こうと思っていた。相談したミッシェルには大層驚かれた。
待っているのは性に合わない。
仕事を休めばその分ツケは溜まるものだと重々承知していた。目眩を覚えるほどの書類の山に、けれど溜まった分の仕事は消化していかなければさらに増加するだけだと叱咤する。
ドアがノックされる音がする。ミッシェルが呼びに来たのだろう。あと五分もすれば会議が始まる予定だ。
「おいミッシェル、トマスの奴に言っておけ。なんだこの資料は。抜けが多すぎる。メリットばかり書くなといつも言っているだろうが。信用してもらうためには、デメリットこそ説明して理解しても」
「ルイス」
幻聴が聴こえた。
懐かしい声がする。歌を口ずさむように、軽やかに自分の名を呼ぶ、柔らかな男の声がする。
「ルイス?」
ふと顔を上げると、レオナールに似た男が立っている。にこにこと笑う顔は、まさに瓜二つだ。
ルイスは手元の書類に目を落としかけ、もう一度男を見るなり絶句した。
どうして、レオナールが目の前にいるのだろう。
「あら。すっかり固まってるわね。社長、大丈夫? 聞こえてる?」
後ろに見えたミッシェルの言葉で、ようやく我に返った。が、声が出ない。
「受付のアーニャが大騒ぎでね。どうしても取り次いでほしいって頼まれて、下まで降りてみたら、この子がいたってわけ」
帰りの際に待ち合わせたマルセイユの駅で、レオナールとミッシェルは顔を合わせていた。
「それにしても、間近で見るとかなりのイケメンね。ちょっと好みかも」
その発言に顔を凝視すると、ミッシェルはおかしそうに笑った。
「冗談よ。あなたのものを横取りする趣味はないから、安心なさい」
「なん……」
「あなたと何年付き合ってると思ってるの。そのくらい、顔を見ればすぐわかるわ」
返す言葉が出てこない。ミッシェルは腕時計に目を落とすと、さらりと言った。
「……会議の開始時間を十五分遅らせるわ。みんな準備が間に合っていないみたいだし、喜ばれるんじゃない? その予定でよろしくね。社長」
それじゃ、と部屋から出て行くミッシェルの後ろ姿に感謝を覚えつつ、やはり彼女には勝てない、とルイスは潔く負けを認めた。
レオナールは、不安そうに首を傾ける。
「あの、ルイス。ごめん、彼女何て?」
「あー、いや。十五分後に会議があるから、って」
「ルイス、あの、いきなり来て、仕事中に邪魔してごめんね。ホントは連絡してから明日にでも、って思ってたんだけど、こっちに着いたらどうしても会いたくなっちゃって」
来ちゃった、とだんだんと小さくなる声と、ほんのり赤く染まった頬が可愛らしく見えて、どうにも目眩がしそうだった。
改めてレオナールを見る。柔らかな金髪に、澄んだブルーの瞳。出会った日から変わらない優しい微笑み。
端正な顔の下に見えるのは、ぴしっとした濃紺のスーツだ。惚れ惚れするほど似合っているけれど、見慣れない格好にルイスは首を傾げた。
「……なんで、スーツなんて着てんだ?」
「気合を入れようと思って」
「ああ、結婚式か何かか?」
「あ、ううん。そうじゃなくて、えっとね………………ルイス。僕を……」
レオナールは両手を握りしめながら、珍しく口ごもっている。しどろもどろなレオナールが新鮮で、可愛らしい。
そんなことを漠然と思っていたルイスの耳に、爆弾が落ちた。
「家政夫として雇ってください!」
「………………は?」
予想外の言葉に、ルイスの思考は一瞬停止した。
意味がわからない。理解も納得もできない。ルイスの脳内の処理が追いつかないうちに、レオナールは口を開く。
「君が好き。どんな形でもいい、君のそばにいたいんだ。もちろん、料理も洗濯も掃除も、何でもするし、迷惑にはならないようにする。英語も、まだ全然わからないけど、頑張って覚えるから。だから……そばに、いさせてほしい」
真っすぐにルイスを見つめながら、必死で言い募るレオナールの頬が、徐々に赤く染まっていく。
比例するように、ルイスの鼓動が速くなっていく。なんとなく顔が熱い気がして、自分もレオナールと同じように赤くなっているのかもしれない、とぼんやりとした頭で思う。
自分に会うために、慣れないスーツを着て、言葉もよくわからないアメリカまでひとりでやって来た。
健気なレオナールが、可愛らしくて、愛おしい。同時に、自分の気持ちに気がついていないなんて、とほんの少し呆れてしまう。どうしたらこの臆病なライオンに、この愛しさを伝えられるのだろう。
「レオ」
「……何?」
「家政夫は、間に合ってる。けど」
「けど……?」
見上げた先で、不安と期待が入り混じったブルーの瞳が静かに揺れている。その瞳をしっかりと見つめ返して、ルイスは口を開いた。
「恋人なら、募集してる」
レオナールの震える手を握って、指を絡ませる。意味深に笑って見せると、レオナールの頬がさらに赤らんだ。
「ル、ルイス……あの、それって……」
つないだ指先から伝えられたらいいのに。
胸の奥から込み上げる感情を。言葉にできないほどの想いを。
けれどそんなことは無理だとわかっている。だからこそ、ルイスは言葉にする。勇気を振り絞ったこの臆病なライオンに、もう決してひとりにはさせないと、愛を伝えるために。
このライオンが、いつでも笑っていられるように。
「そばにいろよ。家政夫としてじゃなくて、恋人として。部屋が汚くても生きていける。けど、おまえがいないと、生きていけない」
レオナールの瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。駄目押しの一言をルイスは告げた。
「好きだっつってんだよ。……わかったか?」
「…………っ」
ルイスの視界の端で、一瞬泣きそうに見えるほど、レオナールは顔を歪ませた。伸ばされた長い腕が背にまわり、ふんわりとした甘い菓子の香りに包まれる。あたたかい広い胸から、心臓の鼓動が聞こえてくる。
レオナールが、小さな声で呟く。耳元で、甘く低い声が揺れる。
「……ホントに、ホント?」
「ああ」
「嘘じゃないよね? 夢じゃないよね?」
「ああ。嘘でも夢でもねぇよ。疑り深いな、おまえ」
つい、呆れたような笑いが零れる。
「君は、僕のこと、そんなに好きじゃないんじゃないかって、思ってた。こっちに帰って来ちゃったら、僕のことも、すぐ忘れちゃうんじゃないかって」
「……悪かった。言葉が足りないのは昔からだ。今度からもう少し努力する」
そう言いながら、ルイスもレオナールの背に手をまわす。レオナールがどこか嬉しそうに、ホッと息をついた。
「ルイスは、僕よりもずっと大人で、こんな立派な会社を経営してて、すごくカッコよくて、すごく素敵で……、だから」
「おまえ前から思ってたんだけど、目腐ってんじゃねぇ?」
「酷いよルイス! 僕今すごく真面目な話をしてるのに」
「おまえ可愛いから、ついいじめたくなるんだよ」
「……ちょっと今、ときめいちゃった」
やっぱり僕はMなのかもしれない、と困ったような声を出すレオナールが可愛くて。惜しみなく愛を伝える為に、ルイスは再び口を開く。
「俺からも言わせろ。おまえが来なくても俺は行くつもりだった。次は、もしおまえが嫌がっても、無理矢理さらって来ようかって、考えてた。俺は言葉が足りないから、これからもたぶん、逐一言葉にするほどマメじゃないし、何度も言わないだろうから今ちゃんと聞いて、覚えとけ」
好きだ、と囁くその後に、背にまわった腕の力が強くなる。あまりにもきつく抱きしめられたものだから、気がついたレオナールが腕を少し緩めるまで、ルイスは数秒息が止まりかけた。
スーツに皺が寄る、などと考えたのは一瞬だ。とびきりの笑顔で笑うレオナールを目の前にすれば、そんなことはどうでもいいと思える。
ぎゅうぎゅうに抱きしめ合いながら、ルイスは幸せを噛みしめる。
「あのね、ルイス。ずっと考えていたことが、やっとわかった気がするんだ」
レオナールが、耳元でそっと囁く。
「最後のライオンは、きっと、幸せを探しに行ったんだよ」
ふんわりと微笑むレオナールが可愛らしくて、嬉しくて、ここがどこだか頭からすっぽりと抜け落ちた。
何度も啄むようにキスを繰り返すと、レオナールが慌てたように叫んだ。
「あ、ちょ、ねぇ、ルイス! 会議!」
その言葉にハッとした。仕事をこんなにも憎らしいと思うのは初めてのことだ。
愛を伝え合うには、十五分では短すぎる。
「あー、……きっかり一時間で終わらせるから、待ってろ」
一緒に帰ろう、そう言うと、レオナールは嬉しそうに頷いた。
微笑むレオナールを見ながら、ルイスは一瞬自室の惨状を思い出したが、まぁいいか、とすぐさま開き直った。
片付けが不得意なことも、すでに知られている。きっとレオナールは驚いたように瞳をぱちぱちさせた後、呆れながらも笑ってくれるだろう。
いろいろ話したいことも、話してほしいこともある。一晩中語り明かしたって足りないかもしれないけれど、焦る必要は何もない。二人の時間は、これから沢山あるのだから。
けれど、帰ったら。まずは、そう。その唇をもう一度甘く塞ぐことから始めようか。
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