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『――で、結局今、何処にいるの?』  電話の向こうから聞こえてきたミッシェルの、呆れ半分、心配半分といったような複雑な声に、ルイスはため息を一つ落とした。 「……アルルって町の近くにある小さな村らしい」  シャンブル・ドット『ルミエールヴォアレ』は、村に入ってすぐにある広場の近くに建っていた。この辺りではよく見かける石造りの家で、昔ながらの農家を改築したものらしい。  ルイスは改めて与えられた部屋を見渡した。  『古い』と住人のレオナールが言っていた通り、以前は滑らかに整えられていたであろう壁の漆喰はところどころはがれかかっていて、木でできたよろい戸もかなりくたびれているように見えた。  しかし、シーズンオフとなった今も、部屋の掃除は行き届いているらしい。微かにハーブのような、花のような香りがする。昨夜はよく見えなかったが、広い庭のいたるところに、樹木や草花が植えられているようだった。  昨夜くたくたに疲れ果てていたルイスは、最終的に考えることを放棄した。とにかく面倒なことは後回しにして、案内された部屋に入るなりベッドに潜り込んで眠ってしまったのだ。  それから一夜明け、ミッシェルとどうにか繋がった電話で、事のあらましを簡単に説明することになった。  道に迷い、スリに遭い、鞄を盗られた。困っていたところを親切な男に助けてもらい、今はその男の家であるホテルに来ている、と。  ただし、その男から告白された、ということは伏せて。 『また随分と見当違いな方向へ行ったものね』  おそらくネットで地図を見ているのだろう。ふぅ、と息をついたミッシェルにレオナールから聞いた細かな住所を告げると、彼女の呆れたような声の中に微かな笑いが混じった。  どこで迷ったのか、どうして迷ったのか、くどくどと問わないところは流石ミッシェルだった。訊いても意味のないことだとわかっているのだろう。  大学時代に知り合ったミッシェルとは、もう十年以上の付き合いになる。ルイスにとっては、数少ない気の置けない友人でもある。  ミッシェルの方が三つ年上なこともあり、こうしたプライベートな時間で、彼女が姉のように振る舞うのは昔からのことだった。ルイスが上司という立場になった今も、それは変わらない。仕事中ならともかく、勤務時間外の今、誰に気がねする必要もない。それに今更話し方を変えられたとしたら、きっと戸惑ってしまうだろう。  クスリ、と小さく笑ったミッシェルは、ホッとしたように小さく息を吐いた。 『とりあえず、無事なようで安心したわ。世の中には奇特な方もいるものなのね、タダで泊まらせてくれるなんて、よかったじゃない。ご厚意に甘えたら?』 「馬鹿を言うな、借りを作るなんてまっぴらだ。金は貸しても借りない。利子をつけて返す」 『ええ、まあね。そう言うと思ったけど』 「あー、それより、ソフィアの具合はどうなんだ?」 『ベビーシッターが早とちりしたの、ちょっと風邪を引いてしまっただけみたい。……あなたって、本当、子どもが嫌いな割に優しいわよね』 「……別に嫌いじゃない。苦手なだけだ」 『嘘ばっかり。あなた基本的に人間嫌いじゃないの』  やはり彼女に隠し事はできないらしい。苦いため息が出た。  ミッシェルの言う通りだった。  中でも、幼い子どもは特に苦手だった。すぐに泣いたり怒ったり、そうかと思えば笑ったりと、ルイスには予想もつかない行動に出る。  扱い方が解らないものは恐ろしい。近寄りたくもない。 『この間だって、せっかく紹介した家政婦を初日で解雇するし』  ミッシェルの言葉に、苦い記憶がよみがえった。 「あれはあの女が俺のポルコを勝手に捨てようとしやがったからだ!」 『ポルコ? ああ、あのロケットだか何だかで空を飛ぶ牛?』  とぼけたようなミッシェルの声に、ルイスはすぐさま否定の声をあげた。 「豚だ! それから乗るのはロケットじゃなくて飛行機だ。飛行機の名前はサボイアS.21! ウチの会社の名前の由来にもなったポルコの愛機だぞ」 『ああ、トゥエンティ・ワンズって、そんなところからきていたの』  ルイスの経営する『トゥエンティ・ワンズコーポレーション』は、企業向けのソフトウェア開発事業を行っている。  創業当初は中小企業に向けてホームページの作成やウェブシステムの受託開発を中心に行っていた小さな会社だった。  転機が訪れたのは三年前。ルイスが学生時代に戯れで作った在庫管理システムを多店舗展開する企業に合わせて改良し発表したことがきっかけだった。システムの噂は徐々に広まり、リリースから三年足らずで、使っていない企業はいない、とまで言われるほどになっていた。このシステムは、リリース以来、トゥエンティ・ワンズの旗艦サービスとなっている。  一躍トップ企業に躍り出たトゥエンティ・ワンズの名を、今や業界で知らない者はいない。 「前にも話しただろうが。『紅の豚』は最高の作品だ! 全くハヤオ・ミヤザキの作るアニメーションの素晴らしさを理解しない奴はこれだから」 『わかった! わかったわ、ごめんなさい。いいわ、私が悪かったから、止して。あなたがジャパニメーションを愛していることも、手のひら大のミニチュア人形とその飛行機を愛していることも、嫌になるほどわかった。……でも部屋が汚いのがいけないんじゃないの? どうせその辺に置いておいたんでしょう?』  ミッシェルの言葉に、ルイスは喉を詰まらせた。とっさに否定できないほど、頭の中に思い描いた部屋は汚かった。  基本的に部屋には寝に帰るだけの生活だ。片づける気も起きなければ、ルイスにはその能力もない。物とゴミは増え続ける一方で、常に足の踏み場すら危うい状況だ。 『ゴミに埋もれて死ぬ前に、はやく代わりの家政婦を雇いなさいよ。もしくは結婚相手を見つけなさい。ああ、いっそのことそちらで探したら? 例えあなたの相手が男性でも、私は気にしないわよ』 「はぁ!? いきなり何言ってんだ!?」  ミッシェルの突拍子もない言葉に、驚きすぎて声が裏返った。 『あら? 女っ気があまりにもないから、実はそうなのかしらって』 「そんなわけあるか」 『冗談よ。けどねぇ、あなただって、見た目はそんなに悪くないんだし。社長でお金持ちだし。その気になれば恋人くらい、いくらだって見つけられるはずよ。出会いなんて、そこら中に転がっているものなんだから』  話の流れと、出会い、という単語にルイスの頭を過ぎったのはあろうことかレオナールの顔だった。  全くどうかしている。  そう思いながら、ルイスはちらりと窓の外を見下ろした。  視線の先に広がる庭では、いくつもの真っ白なシーツが風に揺れている。そのシーツの隙間から、蜂蜜色をした髪の毛と整った男の顔が見えた。  陽の光の下で見るレオナールは、まるで絵本に登場する王子様のような外見をしていた。  雲一つない青空をそのまま切り取ったような美しく澄んだ瞳に、高い鼻梁。形の良い唇は、微かな笑みを湛えている。風にふわりとなびく金の髪は、まるで雄々しく立派なライオンのたてがみを思わせた。  レオナールは着古したチェックのシャツに色あせたオーバーオールといういで立ちだった。何の変哲もない牧歌的な、悪く言えば田舎者丸出しな恰好が、どういうわけかすっきりと似合っている。  どうやら洗濯物を干している最中らしい。レオナールの手慣れた様子は、ルイスをまるでドラマか映画の撮影風景でも見ているような気分にさせた。  レオナールの長い脚に、じゃれつくように二人の子どもがはしゃいでいる。小学校に上がったばかりだという弟妹のジョルジュとリュシィエンヌらしい。その奥に、母親のサンドラの姿が見える。仲睦まじい親子の様子だ。  窓の下をぼんやりと眺めていたルイスに気がついたレオナールが、大きく腕を振った。  途端、自身でも分かるほどにルイスの眉間に皺が寄る。  よくよく考えてみなくても、あんな『王子様』が、自分に告白などするわけがない。たとえ天と地がひっくり返っても、あり得ない。  聞き間違いか、あるいは性質の悪い冗談か。  どちらにしても、本気だと考えるなんて馬鹿のすることだ。ああ、それにしてもなんだか腹が立つ――。 『――社長?』 「……ああ、悪い」  ミッシェルの訝しんだような声に我に返ったルイスは、話題を切り替えようと、庭から視線を逸らした。 『話が逸れたわね、本題に戻りましょう。パスポートの申請が降りるまで、早くて数日、遅くて十日ってところかしら。そうね、それじゃあ三週間後、迎えに行くわ。万が一それまでに申請が下りないようなら、連絡してちょうだい』 「三、!? ちょっと待て、そんなに待ってられるか! もっと早く――」 『駄目よ。たまにはしっかり休むことを覚えなさい。あなたの代理は、いつものようにパトリックが務める。どのみちパーティーが終わったら、休暇に入る予定だったじゃない。それが少し早くなっただけ。そうでしょう?』 「それは、そうだが」 『大体、あなたは働き過ぎよ。大方、二、三日休んだらひょっこり出社するつもりだったんでしょう? 日本人じゃあるまいし、ワーカホリックもほどほどにしたら? ここ数ヶ月まともに休んでいないじゃない。とにかく、私たちが迎えに行くまで、そちらで大人しくしていて。いいじゃない、プロヴァンスでバカンスなんてそうそうできないわよ。素敵!』 「……どこがだ。何もない、田舎だぞ」  こんなど田舎で、三週間も一体何をして暇をつぶせというのだろう。大体、海も山も好きではない。家の中で日本のアニメーションを見ている方がよっぽどいい。何もすることがない休暇など、ルイスにとっては苦痛でしかない。  パスポート再交付の申請が通るまで数日はかかるだろう。たとえパスポートを手に入れても、ミッシェルの言う通りルイス一人では帰れない。情けない話だが、大人しく迎えを待つしかないのだ。ルイスは受け入れるしかなかった。  その後軽くやり取りをし、通話を切り、暗澹たる気持ちにルイスは盛大にため息をついた。 「――浮かない顔だね」  突如後ろから聞こえてきた声に、ルイスは驚き肩を揺らした。勢い振り返ると、ドアのすぐそばにレオナールが立っている。  レオナールはほんの少し眉を下げ、困ったように小さく笑った。 「驚かせてごめん。ノックしたんだけど、聞こえなかった? ……どうにかなりそう?」 「ああ。三週間後、迎えが来ることになった、から…………」  それまで置いてくれ、というのはどう考えても厚かましい。視線を彷徨わせると、レオナールの弾んだ声がした。 「それなら買い出しに行かなくちゃ。大体のものはウチにも揃ってるけど、下着と着替えは必要だよね。えっと、他に何がいるかな。ルイスは何か欲しいものある?」  近寄って来たレオナールは、何故か妙に楽しそうだ。  ルイスが今身に着けているのはレオナールの服だ。サイズが全く合わず、ずり落ちそうになるジーンズはベルトで無理矢理固定して、裾は何重にも折り曲げた。体格が違うのだから仕方がない。仕方がないとわかっているが、どうにも癪に障る。  背の高いレオナールの服では丈が余るし、彼の父親のマティスは恰幅が良く、身幅が余り過ぎる。どちらの服を借りるとしても、サイズは全く合わないことは明白だ。一日や二日ならば我慢できるが、流石に数週間となれば、身体にあった服が欲しい。  今こそタバコが吸いたい、とルイスはぼんやりと思った。けれど、手持ちはほとんどなく、そもそも室内は禁煙である。  吸わない人間にとっては、害悪以外の何物でもないと知っている。ニューヨークでは年々タバコが値上がりしており、肩身は狭くなる一方だ。おそらくフランスでも同様だろうと思うと、おいそれとは言い出せなかった。 「今父さんが、リュリュとジョルジュを学校に送って行ってるから、帰ってきたら出かけよう」  その言葉に、ルイスは黙って頷いた。  パスポートの申請の為に、マルセイユにあるアメリカ大使館に連れて行ってもらうことになっていた。今朝起きてすぐ、レオナールの方から言い出したのだ。金を貸してもらい、一人でマルセイユに向かうことも考えたが、すぐさま却下した。確実に迷う。身に染みてわかっていた。  「荷物がそっくりそのまま出てくる可能性は、かなり低いんだけど」 「……ああ」  それはそうだろう、とルイスは同意を示した。もとよりほとんど期待などしていない。それでも念のため道すがら警察に寄って、届け出をすることにした。  平穏に見える南フランスも、案外治安は良くないらしい。特に旅行者は狙われやすい、という。道に不慣れで、高級スーツを身に纏い、ひとりふらふらとしていたルイスは絶好のカモだった、というわけだ。  それにしても、昨日いたマルセイユに逆戻りする羽目になろうとは。複雑な心境だ。 「マルセイユまで、一時間半くらいかな。古い車だから、ちょっと乗り心地は悪いかもしれないけど、快適な旅になるように努力するね。せっかくだもの、ついでにいろいろ見て来ようよ」  人に指示することには慣れていても、頼むことは至極苦手だった。  それでも、世話になる身だ。多少の反感はあっても、結局のところ、今ルイスが頼れるのは目の前にいるこの男だけなのだ。一番頼りたくないのもこの男なのだが。 「あー……、その、な」 「ん?」  意を決して見上げた先、レオナールが首を傾げる。ふわり、と金の髪が揺れた。  レオナールの姿を見れば見るほど、やはり昨日の告白は、どう考えても聞き間違いだという思いが強くなる。うっかり、何を言うべきか一瞬忘れた。  蒸し返すのはよそう。そう思ったところで、ブロロロロ、と外からエンジンの音が聞こえてきた。 「あ、ちょうど父さんが帰って来たみたいだね。それじゃあ、行こうか」  うんうんと唸るだけの機械になり下がったルイスに、レオナールがにっこりと笑いかける。 「……………………、頼む」  やりきれなさと、申し訳なさと、若干の苛立ちが入り混じったまま。ルイスはどうにか一言、口にするのが精一杯だった。  
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