3

1/1
前へ
/12ページ
次へ

3

 どうして、こんなことになっているのだろう。  ルイスの目の前には湯気を立てるカフェ・オレと、美しく盛られたバゲットが並んでいる。光沢が美しい色とりどりのジャムは、おそらく手作りだろう。 「ルイス、ジャムはどれにする? これはブルーベリーで、こっちがラズベリー。それからアンズにママレード、蜂蜜にチョコペースト」 「わたしはね、ブルーベリーが好き!」 「ぼくはアンズがおいしいと思う」 「それより、飲み物はカフェ・オレでよかったかしら? コーヒーの方が好き?」 「遠慮せずにどんどん食うといい!」  レオナールの言葉を皮切りに、家族も次々に声を上げた。  ルイスの右隣には、妹のリュシィエンヌが座り、その隣には弟のジョルジュ。その横に母親のサンドラ、向かいには父親のマティス、そして左隣にはレオナールがいる。  笑い出してしまいそうなくらい、最高に居心地が悪い。 「…………あー、どうも」  それでもどうにか一言口にし、小さく頷いたルイスは、とりあえず手近にあったママレードを手に取った。  朝に弱いルイスは、朝食を摂らないことが多い。居心地の悪さと比例するかのように胃は重く、喉は詰まりそうだ。しかし、今更いらないとは言いだせない。  この場から解放されるためには、食べるしかないとルイスは覚悟を決めた。  手に取ったパンは焼きたてで、しっとりとしていて温かい。ジャムを塗り、一口かじる。舌に感じたジャムは、適度な甘みと酸味があり、オレンジの皮の苦みがほんのりと残っている。  思いのほか美味い。  これならばなんとか食べ切れそうだ。黙ったまま咀嚼を続けていると、その様子を見ていたらしいレオナールが声をかけてきた。 「美味しい?」  言葉に出すのは面倒だった。素直に頷くと「よかった」とホッとするような声が聞こえ、次いでサンドラがどこか誇らしげに言った。 「そのママレードはね、レオの手作りなのよ。全く、私より上手に作るんだから」  予想もしない言葉に、パンが喉につまりかける。慌ててカフェ・オレで流し込み、どうにか噎せることは避けられた。 「あのね、そのパンはね、わたしとジョルジュが朝おつかいに行って買って来たパンなの。ね、ジョルジュ」 「うん。パン屋さんは、朝の六時から開いてるんだ」  少女の言葉に、少年は小さく頷いた。リュシィエンヌよりも、ジョルジュの方が大人しそうだ。  二卵性双生児らしい。二人とも顔立ちはよく似ている。ルイスよりも少し暗めの黒に近い髪の毛に、栗色の大きな瞳。 「みんなこのパンが大好きでね、毎日すっごく長い列ができるのよ。だから早く行かないと売り切れちゃうの。おいしいでしょう?」 「……ああ」  ルイスの素っ気ない返事にも、双子が気を悪くした様子は見られなかった。二人は嬉しそうに笑っている。  子どもたちの活発で、物怖じしない様子は、レオナールとそっくりだった。家族だ。似ているのも当然なのかもしれない。  そう思いなんの気なしに顔を上げたルイスは、その時になってようやく気がついた。  両親は子どもたちと同じような黒に近い髪で、レオナールだけが明るい金の髪をしている。顔立ちも、レオナールと彼らとの間に共通点を見つけることが難しい。  決定的なのは、母親であるサンドラだった。レオナールを生んだというには、あまりにも若すぎる。  なんとも言えない微妙な違和感を、ルイスは口に入れたパンと共に喉奥へと飲み込んだ。視線を目の前のカップに固定する。  パンを咀嚼しながら、ルイスは記憶を掘り起こした。  マルセイユへ向かう道中、レオナールは観光案内も兼ねてひたすら喋っていた。 『あれは全部オリーブの木だよ。今が旬!』 『この辺は初夏になると一面ラベンダー畑になってね。すごく綺麗なんだよ』  楽し気に話すレオナールに、ルイスは半分うわの空で、曖昧な返事ばかりしていた。今後のことについて、考えていたのだ。  ルイスは、悲観論者でもないが、楽観主義者でもない。  道に迷った直後は自分の愚かさに腹を立てていたものの、一晩経って頭も十分冷えていた。その後、漠然とした不安に襲われた。昼間の車内から見る景色が、あまりにもニューヨークと違い過ぎたのだ。  どうにか無事パスポートの申請と買い出しを終え、帰りついた頃には日が暮れていた。  与えられた部屋で、ひとり夕食を口にしていたルイスは、どうにもみじめな気分になった。料理がまずかったわけではない。逆だった。  ハーブをふんだんに使ったサラダに、カリフラワーのポタージュ、魚のポワレ。どれもこれも、深い味わいのある一品で、手のかかる料理だとわかった。そして、タイミングを見ながら運んでくるレオナール。 『この魚はイトヨリって言ってね、今がちょうど旬で――』  レオナールの説明を聞きながら、一々、手間がかかり過ぎている、と思った。親切にされればされるほど、金を払っていない自分は、客ではないという思いが強くなっていく。  とうとう耐え切れなくなったルイスは、ふと思いついたことを口にした。 『……何か、俺に手伝えることはあるか?』  その後、すぐさま後悔した。ルイスにできることなど、たかが知れているとわかっていたからだ。  あまり器用な性質ではない。片付けは壊滅的に下手くそだし、料理もしたことがない。体格的にも、体力的にも、力仕事はまるで向いていない。果たして自分にできることがあるのか、疑問に思えるほどだった。  ルイスの言葉を聞いたレオナールが、驚いたというように大きく目を見開き、瞬きを繰り返した。その顔を見るなり、ルイスは顔を伏せた。 『あまり、客扱いしなくていい』  付け足すように呟いたものの、やはりレオナールの顔を見る勇気はなかった。どうにもばつが悪く、魚の載った皿ばかり見ていたルイスの耳に飛び込んできた言葉は、予想もしないものだった。 『それじゃあ、子どもたちと一緒に遊んでほしいんだ。きっと、リュリュもジョルジュも、君のことを好きになるはずだから』  そんなわけがない、と思った。  目つきも悪ければ、口も悪い。子どもに怖がられることはあれど、好かれる要素などどこにも見当たらない。何度も顔を合わせているミッシェルの娘のソフィアでさえも、母親がいなければ近くに寄って来ることもしないのだ。  ルイスは、はぐらかされたような気分になった。お前にできることは何もないのだと、馬鹿にされたような気さえした。  それきり、深く考えることをやめていたのだが。  確かに、『客扱いしなくていい』と言った。けれど、家族扱いしろ、と言った覚えは微塵もない。が、もしかすると、いやもしかしなくても、言ったことになってしまうのだろうか。  一人悶々と考え込んでいたルイスの耳に、マティスの豪快な声が聞こえてきた。 「おっと、もうこんな時間か! あんまりのんびり食べていると、学校に遅刻するぞ! 今日は俺が送り迎えの当番だったな。そうだレオ、ルイスに村を案内してやるといい」  マティスからの思わぬ提案に、ルイスは一瞬戸惑った。断ろうとも思ったが、他にすることもない。 「あー、……頼む」  頷くと、レオナールが嬉しそうに笑った。  なんとか無事に朝食を終えた後、ルイスは半ば強引に連れ出される形で玄関前に立っていた。  双子の見送りをする為だ、という。心の中は、何故自分もいなければならないのか、という疑問であふれていた。  目の前には、昨日乗ったトラックとは違う、いかにも年季の入った風合いの黄色い軽自動車が停まっている。 「二人とも忘れ物はない?」  車に乗り込む前の最終確認らしい。レオナールの問いかけに、双子は同時に元気よく頷いた。 「どうぞいい日でありますように。いってらっしゃい」  レオナールは微笑むと、子どもたちの頬に優しい口づけを落とした。二人も笑って、それぞれキスを返す。 「ありがとう。レオにとっても、いい日でありますように。いってきます」  その光景を突っ立って眺めていたルイスを、ジョルジュが見上げてくる。 「ルイスは?」 「は? 俺もやるのか?」 「もちろん! 朝のあいさつはとっても大事なのよ!」  リュシィエンヌの有無を言わせぬ強い口調に、思わず渋面が浮かんだが、二人は急かすように見つめてくるばかりだ。  どういうわけか、気に入られてしまったらしい。こんな不愛想で目つきもたいして良くない男の、一体何が面白いのだろう。わからない。さっぱり、わからない。  どんなに顔立ちが可愛らしかろうと、大人しかろうと、やはり子どもは苦手だと思う。極力近づきたくない。それでも、自分が断ったがために泣かれでもしては面倒なことになる。そもそも、『何か手伝う』と言い出したのはルイス自身ではないか。文句を言える立場でもない。  ルイスは仕方なく、レオナールの真似をすることにした。少し屈むようにして柔らかな頬へそっとキスを落とす。 「……あー、……いい日でありますように」 「ありがとう! ルイスにとってもいい日でありますように!」  なげやり半分の、ぼそぼそとしたやる気のない口調も気にはならなかったらしい。弾けるような笑顔でキスを返した双子は、車に乗り込むなりこちらに向けて手を振ってきた。 「ルイス!」  わざわざサイドウインドウまで開けて呼びかけられては無視もできない。ため息を飲み込んで、ルイスは小さく手を振り返した。  車が走り去った後、振り返るとレオナールがにっこりと笑っていて、ルイスは思わず顔をしかめてしまった。 「それじゃあ、僕たちも行こうか」  ルイスを乗せたトラックは、徒歩とそう大差ないスピードで、ゆっくりと村を一周した。それというのも、行く先々で呼び止められたからだった。老若男女問わず、村人たちはレオナールを見るなり、親し気に笑いかけてくる。人口も少なく、皆ほとんどが知り合いといった状態らしい。  レオナールはマルセイユ行きの時と同じようなテンションで村を案内した。 「あそこの路地に入ったところにある緑色の屋根の建物が、パン屋さんだよ。朝のバゲットもそうだけど、クロワッサンも美味しくてね」 「広場は毎週土曜日になると、マルシェが開かれて――」  個人経営の小さなパン屋と、雑貨店が一軒ずつ。取り立てて見どころなど何もない。本当に小さな村だ。  辺鄙で、のんびりとした、小さな田舎の村。興味が湧くものなど、何一つなさそうだ。ルイスは再確認をし、心の中でため息をついた。  こんなところで、どうやって三週間も過ごしたらいいのだろう。先が思いやられる。  ルイスの憂慮など全く気づかない様子で、レオナールはにこにこと笑って説明を続けている。  本当に陽気な男だ。悩みなど考えたこともなさそうなのほほんとした笑顔に、ルイスは知らず眉を寄せそうになった。  ルイスにとって最も気がかりな存在は、この男だった。加えて、彼の幼い弟妹もいる。出会って三日目。いまだに、どう対応したらいいのかわからない。  ブラン家の敷地内に戻って来た。裏の木陰がトラック専用の駐車スペースだった。  地面に降りたつと、やっと解放された、と思った。まだ昼前だというのに、一日中書類の山と格闘でもしていたような疲労感がある。  さっさと部屋に戻ってもう一度眠ってしまおう。密かに考えていたルイスに、レオナールが声をかけてくる。 「ルイス、羊の肉は食べられる? 夕食はトマト煮込みにしようかなって考えてるんだけど」 「ああ。何でもいい」  答えながら、昼食も夕食も朝のように家族全員で食卓を囲むことになるのだろうか、と想像したルイスは、すでに面倒くささで一杯になった。  玄関の扉を開けると、廊下の奥の方から話し声が聞こえてきた。 「あんまりだわ!」  声の主はサンドラだった。どうやら、電話でやり取りをしているらしい。朝の朗らかな明るい様子とは打って変わって悲壮な声に、ルイス達は足を止めた。 「冗談でしょう、兄さん。突然そんなこと言われても困るわ、私たちにだって生活があるのよ。引っ越すお金だってないし――」  こちらに気がついたサンドラが、ハッとしたように顔色を変えた。隣に立つレオナールも、何が起こっているのかわからない様子で、サンドラを見つめている。 「……部屋に戻ってる」  どうにも気まずい思いがして、ルイスはレオナールから視線を外すと、すぐにその場を後にした。  立ち聞きをするつもりも、揉め事に首を突っ込む気もなかった。  そうだ。自分とは関係のないことだ。関わるべきではない。そう自身に言い聞かせる。  戻った部屋は先ほどまでの陽気さが嘘のように静まり返っていて、どこか薄ら寒い気がした。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

64人が本棚に入れています
本棚に追加