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 ルイスがブラン家に滞在し始めて三日目の晩は、突然の嵐になった。  固く閉ざしたはずのよろい戸は、ひっきりなしにガタガタと大きな音を立てている。  アルプス山脈から地中海に吹き降ろす冷たく乾燥したミストラルだ。窓を破るのではないかと思うほどの強風に、ルイスは本能的な恐怖を覚えた。  この家はとても古い。いかに頑丈な造りであっても、こうも痛んだ建物では、いつ壊れてもおかしくはないのではないか。  吹きつける風の音に、悪い想像が止まらない。  毛布をかぶって目をかたく閉じても、一向に眠気は訪れず、寝返りの回数ばかりが増えていく。  こうもうるさくては、いつまでたっても眠れそうにない。  電気を点け時計を見ると、日付が変わった直後だった。この家の住人は朝が早い。もう皆寝てしまっているだろう。  三十分ほど悩んだ末に、ルイスはベッドから抜け出した。深夜に徘徊するなど不審極まりない行動だが、誰にも見咎められなければ問題はない。  自室をあとにすると、ひんやりとした空気がルイスを包んだ。  小さく灯された電球を頼りに、まだ慣れない廊下を歩く。靴音を立てないように、静かに一歩、また一歩。ルイスは幼い子どもに立ち返ったような気分を味わった。  通りかかったドアの隙間からオレンジ色の細い明かりがこぼれていた。微かに物音がする。確かここはキッチンのはずだ。  こんな夜更けに、一体誰が? まさか泥棒ではないのか?  緊張から、一気に鼓動が早くなる。  呼吸を殺し、恐る恐るドアノブを掴んだ。音を立てぬようにそっとドアを押すと、ふわり、と鼻をくすぐる甘い香りが漂ってきた。  開いたドアの隙間から室内を覗き込む。  背の高い、金髪の男の後ろ姿が見えた。 「なにやってんだおまえ…………」  ルイスの言葉に、くるり、とこちらを向いた男は、一瞬驚いたように目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。 「ルイス。どうしたのこんな時間に。眠れない?」  にこりと笑うレオナールの顔を見た途端、自分の行動が馬鹿らしく思えて、ルイスは一気に脱力した。 「どうしたのはこっちの台詞だ。なにやってんだこんな時間に」 「ちょっと、眠れなくて。カリソンを作ってたんだ」 「カリソン?」  パジャマの上からエプロンをしたレオナールは、ルイスに見せるように白い皿を差し出してきた。  つやつやとした光沢のあるアーモンド型の小さな欠片がのせられている。どうやら、これが甘い香りの正体らしい。あまりにも繊細な作りのそれが、一見して何かわからなかったルイスは、吸い寄せられるように皿の中を凝視した。 「プロヴァンスの伝統的なお菓子だよ。僕もリュリュもジョルジュも、このお菓子が大好きでね。あ、ねぇルイスお腹減ってない? ちょっと作り過ぎちゃったんだ。よかったら食べない?」  顔をしかめるルイスに、レオナールは微笑みながらさらに皿を寄せてきた。ふわり、と一層深い甘い匂いが鼻孔をくすぐってくる。  誘惑には勝てそうにない。  文句を言う気もすっかり失せてしまった。  まだ立ったままだったことに気がついたルイスは、手近にあった椅子を引っ張り腰掛けた。 「……もらう」  この男が準備したものであっても、食い物に罪はない。何より悔しいことだが、レオナールの作るものは、美味いのだ。ママレードジャムの一件で、それは既に分かっていた。  ルイスはそっと皿に手を伸ばすと、小さなアーモンド型のそれを一口かじった。フルーツの香りが口の中に広がる。表面はさっくりとした歯ごたえだが、中はもっちりと柔らかく、不思議な食感がした。口に入れた瞬間は甘いと感じたが、後味はさっぱりとしていて、なかなかどうして、美味い。ムカつくことに、美味い。妙に癖になる味と食感だった。  一つだけ、と言われていないのをいいことに、ルイスはさらに手を伸ばす。  ぼりぼりと無心でカリソンをかじるルイスに、レオナールは嬉しそうに笑った。礼を言うことは躊躇われたが、黙ったままでいるのも釈然としない。 「あー、…………この家、大丈夫なのか? すげぇガタガタ鳴ってっけど」  文句混じりのルイスの言葉に、レオナールが苦笑する。 「ごめんね、うるさかった? このあいだ父さんと僕とで点検したばかりだから、大丈夫だと思うけど、風が止んだら見てみるよ」 「いつもこうなのか? ミストラルってのは」 「うーん、今日の風はまだ弱い方じゃないかな。きっと明日には止むと思うよ」  随分と酷い暴風だと思っていただけに、ルイスは驚いた。 「これでも弱い方?」 「うん。冬になると、もっと酷い風が吹くんだ。……はい、どうぞ」  言葉とともに、テーブルの上にティーカップが置かれた。白いカップの中で澄んだ黄金色が揺れている。花のような、林檎のような不思議な香りがする。 「なんだこれ? アップル?」 「カモミールのハーブティーだよ。安眠効果があるんだ。あ、淹れたてだから、気をつけて」  全てお見通しらしい。いつの間に用意していたのだろう。つくづく嫌になるほど気の利く男だ。  喉の渇きを感じてはいたが、湯気が立ち上るカップに手を伸ばす勇気は出なかった。ルイスは猫舌だった。  レオナールはもう一つカップを手にすると、ルイスの反対側の席に腰掛ける。自然、向き合う形になった。カップの取っ手を指の先で触りながら、レオナールはまるで独り言のように呟く。 「昔ね、一週間ずっとミストラルが吹き続けたことがあったんだ。すごく怖くて、全然眠れなくて。そしたら母さんが作ってくれたんだよ。それ以来、眠れないときのお供はカモミールティーなんだ」  いつもよりも、レオナールの声のトーンが少し落ちているように感じる。  しかし何も聞くまいとルイスは思った。自分は首を突っ込まないと、心に決めたのだ。  代わりに、引き続き菓子に手を伸ばした。 「……なぁ。これ、何が入ってんだ?」 「アーモンドと、メロンの砂糖漬けに、オレンジフラワーウォーター」 「ふうん。……上にかかってるのは?」 「それはね、グラス・ロワイヤル。えっと、粉砂糖と卵白とレモン汁を練って作った生地だよ」  材料を数えるように指を折りながら、レオナールは説明する。ただの小麦粉と砂糖の塊ではないらしい。道理で複雑な味がするはずだ。 「このカリソンはね、『幸せのお菓子』って呼ばれてるんだ。昔、王様が笑わないお姫様を笑わせたくて作ったお菓子なんだって。だから僕も、笑わせたくなったときにこれを作るんだ。みんなが、これを食べて『美味しい』って笑ってくれたら、嬉しいなって」  その時、初めてルイスは、レオナールの表情の陰りに気がついた。普段と同じように、無邪気に笑っているように見えたその顔が、少し曇っている。そんな気がする。 「……正直、夜は少し苦手なんだ。沢山寝て、朝起きて考えれば、大丈夫なんとかなる! ってことでも、どうしてかな、夜だと悪い方にばっかり考えちゃって。だからね、考える暇がないように手を動かそうって思って」 「そりゃ、建設的だな」  ルイスの一言に、レオナールは小さく笑った。  やはり笑みに力がない。いつもの陽気さがまるで嘘のように儚げに見える。  何も聞くまいとは決めたが、放っておくのは気が引けた。ただ、それだけだ。 「こんな繊細な菓子食ったの、久しぶりだ」 「ルイスはお菓子、あんまり好きじゃない?」 「甘すぎる、のはな。べつに嫌いじゃない。周りじゃ、馬鹿みたいに甘すぎるクッキードゥばかり好んで食ってるやつもいるけどな」 「クッキードゥって?」  レオナールが不思議そうに首を傾けた。 「焼く前のクッキーの生地みたいなべたべたした塊だ。それも、胸焼けするほど甘ったるい。ちょっと前に無理矢理食わされたことがあったが、一口でギブアップした」 「へぇ! アメリカの人って不思議なものを食べるんだね。なんだかお腹を壊しそう」 「それについては同感だ。けど、こっちだって大概おかしなもん食ってるだろ? エスカルゴとか。あんなエイリアンみたいな見た目のもん、よく食う気になれるな」 「アメリカでも食べるんじゃないの? ルイスは嫌い?」 「食ったことない」 「美味しいよ。今度作ってあげようか?」 「いらない。絶対食わない」  焼き菓子とハーブティーの甘く柔らかな香りが満ちた空間は、妙に安らいだ心地がした。そのせいだろうか、ルイスは肩肘を張らずに、話をすることができた。  対角線上に座るレオナールを見る。  ジャムを作り、真夜中に菓子を作り、ハーブティーを淹れる男。  心根が真っすぐで、明るく、優しい。まるで、草原に住まうライオンのように、雄大で余裕のある姿は、正直羨ましいとさえ思える。  道に迷っただけの見ず知らずの自分に手を差し伸べ、助けてくれた。  周囲の人間から愛されていて、性格が良くて、おまけに顔まで良い。認めたくはないが、およそ欠点など見当たらない。自分とは正反対の男。  常に明るく、笑っていて。悩みなど何もなさそうだ。そう、思っていたのに。  今はレオナールを、ほんの少し身近に感じる。  じっと見つめるルイスを不思議に思ったのか、レオナールが首を傾げた。 「どうかした?」 「いや。おまえはなんつーか……もっと馬鹿な奴だと思ってた」  ぽつり、と零れ落ちたルイスの本音に、レオナールは目をぱちぱちとさせた。  その一瞬で、ルイスは自分の口走ったことを後悔した。世話になっておきながら、これはあまりにも酷い言い草だ。  けれど、レオナールは怒った風でも、傷ついた様子でもない。ましてや、どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。 「よく言われるよ。何にも考えてなさそうだって。でも僕だって、人間だもの。考え過ぎちゃって眠れないことも、悲しんだり怒ったりするときもあるよ。ただちょっと、人より笑ってることが多いように見えるだけ。ルイスだって、いつも怒ってるばかりじゃないでしょう? それと一緒だよ」  レオナールは、それまでの様子とは打って変わって、ふにゃりと笑った。  その顔を見た途端、ルイスの気が抜けた。同時に、肩の力も一気に抜けた。 「…………なんでそんなに嬉しそうなんだよ」 「やっとルイスの本音を聞けたと思って。気を遣って、建て前を喋られるよりも、その方が何百倍も嬉しい。だからもっと、ルイスは遠慮しないで喋ってよ。僕を罵倒してくれたって構わないから」 「なんだそれ。おまえはドMかよ」 「え!? いや、多分違うと思うんだけど……うーん。どうかな? そうなのかも?」 「どっちだ」  ルイスのつっこみに笑ったレオナールは、カップに口をつける。その動作につられるように、ルイスも静まり返った金の水面に視線を向けた。もうだいぶぬるくなっていたそれは、ルイスの口に優しかった。ほのかな甘さが、喉を潤す。ホッと小さなため息が落ちた。  気に入ったことは、すぐに伝わってしまったらしい。いつの間にか視線を上げていたレオナールと目が合う。  今朝までレオナールに対して感じていた気まずさは、いつのまにかどこか遠くへと姿を消してしまっていた。  まだ、出会って三日だ。わからないことの方が圧倒的に多い。それでも、この男のことが、当初よりも苦手ではない。  その時、午前二時を告げる時計の音が聞こえてきた。 「ありがとうルイス」 「……何が?」 「僕のこと、慰めようとしてくれたでしょう? 君は、やっぱりすごく優しい」  すっかり見抜かれていたようで、きまりが悪い。指先を頭髪の中に突っ込むと乱暴にかきまぜた。  嬉しそうなレオナールの顔を見ても、不思議と悪い気分にはならなかった。  残りのハーブティーを一気に飲み干して、椅子から立ち上がる。 「……俺はもう寝る」 「眠れそう? あ、僕の部屋で一緒に寝る? そしたらミストラルも怖くないよ!」  冗談交じりのレオナールは、もうすっかりいつもの調子に戻っているように見えて、ルイスは安堵した。 「馬鹿言ってんな」  わざと呆れたように返すと、レオナールがくすりと笑った。 「えー、残念。僕はこれを飲んだら寝るよ。おやすみ、ルイス。いい夢を」  ドアを開けたルイスは、そこで自分がまだ礼を言っていなかったことを思い出した。勧められたものとはいえ、菓子もハーブティーも、遠慮なく口にした。そもそもルイスは、この男にまともに礼を述べたことが一度もないのだ。  一言くらい、言ってやってもいいか、と思った。  それでもやはり、正面からは気恥ずかしさが勝って言えそうにない。ましてや笑いながらなど、言える筈もない。  苦肉の策だった。廊下に出たルイスは、ドアを閉める寸前、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でぼそりと呟く。 「…………美味かった。おやすみ」  言い終わるやいなや、ドアを閉める。それが、ルイスにできる精いっぱいだった。  ちらりと盗み見たレオナールの顔は、目を真ん丸にしていたから、きっと聞こえていたに違いない。  部屋の中から、ごとん、と何かが落ちた音がした。おそらく、レオナールが手にしていたカップの音だろう。  まだ風は止んでいなかったが、もう気にはならなかった。  心地良い眠りが訪れそうな気配に、ルイスはほんの少しだけ笑った。
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