5

1/1
前へ
/12ページ
次へ

5

 静かな雨の音がする。  さらりとしたリネンが頬をくすぐる心地よい感触にルイスは寝返りを打った。  ほのかなラベンダーの香りがする枕から顔を上げ、ぼやけた視界の中、時計を見る。時刻は七時を少し回ったところだった。  このところの行動パターンから、予想はつく。おそらく、あと三十分もしないうちにあいつらが来るだろう。  それまでもう少しだけ微睡を堪能しようと、ルイスは瞼を閉じた。  ルイスがブラン家に滞在して、十日目の朝になる。  平和で穏やかなプロヴァンスでの非日常を、ルイスは思いのほか楽しんでいた。  何もないと思っていた田舎の暮らしは、ルイスの予想を裏切った。  学校から帰って来た双子の勉強を見てやったり、マティスに半ば無理矢理キノコ狩りに連れて行かれたりした。カトラリーを磨いたり、ジャガイモの皮むきをしたり。そのすべてが、ルイスにとってはとてつもなく新鮮で、刺激的だった。  家族との交流も次第に苦痛ではなくなっていった。橋渡し的な役割を担ったレオナールの存在が大きかったのかもしれない。ルイスが構えなければ、好意的な人々はとても付き合いやすかった。  そしてまた、思っていたよりも、レオナールはしたたかな男だった。  ルイスが嫌な顔をしようと文句を言おうと、少しも意に介さない。ルイスの機嫌を取ろうというのか、ことあるごとに手作りの菓子を持ち出してくる。カリソンに始まって、蜂蜜たっぷりのマカロン、ふわふわのトロペジエンヌ。どれもこれもすっかり気に入ってしまった。  ルイスが自身の考えを改めたのは、ミストラルの次の日のことだ。レオナールの予想通り、いつの間にか風は止んでいた。  雲一つない美しく澄んだ青空をぼんやりと見上げながら、ルイスはプロヴァンスでの生活を謳歌しようと心に決めたのだった。  どうせ帰れない。やることもない。それならば、付き合ってやるのもやぶさかではない。  だが、朝は別だ。できることなら寝ていたい。   ルイスが二度目の眠りを堪能していると、軽いノックの音が意識の隅に聞こえてきた。何度か続いた後、ほんの少しの間をおいてドアノブが回る音がした。次いで、勢いよくドアが開けられた音。バタバタと小走りに近寄って来る足音。子どもたちの大きな声。 「――ルイス。朝だよ起きて」 「ねえねえ、起きてってば!」  ああ、今日もまた小さなモンスターが来やがった。  四本の小さな腕は容赦がない。揺さぶられながら、ルイスはうめき声を上げた。もう少し寝かせてほしい。   子どもたちの声を無視して寝返りをうつと、カーテンの隙間から差し込んだ淡い光が瞼を射す。それも無視して、目を固く瞑る。  毛布にくるまったまま、てこでも起きるものかとベッドにしがみついていたルイスの耳元に、爆弾が降って来た。  甘い低音が、鼓膜を揺さぶる。 「ルイス。……早く起きないと、キスするよ?」  その瞬間、ルイスは思わずがばりと跳ね起きた。  にこにこと笑う金髪の男を、寝起きの不機嫌さも相まって全力で睨みつけるが、全く効果は見られない。むしろ、ますます笑みを深くしたレオナールは、まるでいまにも歌い出しそうなほど上機嫌に見える。 「おはようルイス! 今日も元気だね!」 「元気だねじゃねぇよ! その起こし方やめろって言ってんだろ!」  レオナールのこの攻撃は、今日で三回目だ。毎回ルイスが飛び起きる為、本当にキスされたことはない。おそらく言葉だけで、そのまま狸寝入りを決め込んでいたとしても実行しないだろう。そう頭ではわかっていても、とてつもなく心臓に悪い。反射で身体は勝手に動いてしまう。  レオナールの起こし方が悪いのか。起きないルイスが悪いのか。働かない頭では永遠に答えが出なさそうな問題だった。  渋々起きたルイスは身支度を簡単に整えると、階下のキッチンに降りた。  家族に混じって食卓を囲むことにもすっかり慣れてしまった。いつもの定位置に座り、カフェ・オレを飲み、バゲットにママレードを塗りたくり、口に運び入れる。  シャンブル・ドットはシーズンオフの為閑古鳥で、ルイスの他に泊まり客はいない。閑散期の収入の為に、マティスは今日隣町のレストランに働きに行っているという。  リュシィエンヌとジョルジュは、それぞれジャムをたっぷりとつけたバゲットを美味しそうに頬張っている。時計に目をやったルイスは首を傾げた。 「おまえらそんなゆっくりしてていいのか? 学校は?」 「今日は水曜日だから、学校はお休みなんだ」  パンを頬張っていた双子に代わって、レオナールが答えた。  フランスでは、水曜日は休校のところが多いらしい。ということは、今日は子守り決定だ。  ちらりと横目でレオナールを見ながら、ルイスは先に聞いておくことにした。無邪気に走り回る双子に付き合うには、相応の体力がいることを既に学んでいる。遊びの内容によっては、エネルギーを蓄えておかねばならない。 「で、今日は何すんだ? ソレイユ? シャッセ・デュ・シャ? それともカシュ・カシュ?」  すべてここに来てから覚えた遊びだった。  ルイスにとって、遊びといえば一人でできるTVゲームやアニメばかりだった。友人同士で遊んだ記憶などほとんどない。  天気のいい日は半ば強引に庭に連れ出され、子どもたちと一緒になってカシュ・カシュをした。子どもたちは茂みに隠れるのがとても上手く、ルイスが見つけられるのは、わざとプラタナスの木からはみ出したレオナールだけだった。 「今日は雨が降ってるから、どうしようか。家の中でもカシュ・カシュならできるけど……うーん」  レオナールが悩んでいると、サンドラが思いついたように言った。 「ねぇ。みんなでサントン人形でも作ってみたら? 楽しいんじゃない?」 「サントン人形?」  ルイスの問いにレオナールが答えた。 「この辺りの工芸品だよ。クリスマス時期に飾る小さな人形でね。本当は土を素焼きにして色を塗るんだ。流石にそれはちょっと難しいから、紙粘土で作るのはどうかな?」 「賛成!」  双子がそろって手を上げ、勿論、ルイスも付き合わされることになった。  紙粘土は提案者のサンドラが用意してくれ、大きな屋根付きのテラスに移動した四人は、丸テーブルに向かい合うように座った。  粘土を袋から取り出しながら、レオナールは説明する。 「人形って言っても実際のサントン人形は、ロバとか鶏とかいろんな動物もあるし、噴水とか家の形のものもあるんだよ。だから、みんな好きなものを作ったらいいんじゃないかな」 「わたしお姫様!」 「ぼくは飛行機を作る!」  静かな雨の降る庭を横目に、四人は作業に没頭した。  レオナールはリュシィエンヌとジョルジュの間に座り、それとなくアドバイスを出している。その声をバックミュージックにしながら、ルイスは真剣に紙粘土と格闘していた。  こうなったら大作を作ってやろうと、ひっそりと決めていた。もともと凝り性なところがあり、細かい作業は嫌いではない。だからといって手先が器用というわけではないのだが。  黙々と作業を進め、ふと顔をあげると、双子は案外器用なもので、それなりに形になっている。 「へぇ、うまいなおまえら」  ルイスの感心したような言葉に、双子は自慢げに笑った。 「レオ、おまえは? なんか作らないのか?」  二人の世話をあれこれと焼いていたレオナールは、まだ何も作っていなかった。とは言え、紙粘土のほとんどは双子の大きな作品に使われてしまっていて、もうあまり残っていない。 「うーん。そうだね」  少し悩んだ風なレオナールは、残っていたちぎれた粘土の端を器用に集め捏ね合わせると、滑らかな手つきであっという間に小さな人形を二体作った。手のひらにちょこんと乗るサイズの人形だ。丸く可愛らしいフォルムをしている。  ルイスの予想通り、レオナールは素晴らしく器用だった。  「完成」と笑ったレオナールは、二体を並べてこちらに向けた。 「こっちがルイスで、こっちが僕」  『ルイス』と言われた方の人形を見ると、嘴と羽がついている。 「何だ? 鳥?」 「デュガスだよ」 「……デュガス?」  どこかで聞いた響きだった。記憶を辿るが、すぐには思い出せない。つい最近、聞いた覚えがあるのに。  首を捻ったルイスの耳に、ジョルジュの声が飛び込んできた。 「ぼくしってる。むかしの言葉で、『ワシミミズク』って言うんだ。デュガスはね、向こうのアルピーユの山に住んでるんだよ」 「おめめがとってもきれいでね、すごくかっこいいの」  リュシィエンヌの言葉に、出会った日にレオナールから言われたことを思い出した。ああ、そうだった。あの日――。  これ以上思い出してはいけないような気がして、ルイスはとっさに、はぐらかすように、隣の人形を指した。 「あー、そっちは? ライオン?」 「当たり! 昔はね、この辺りにもヨーロッパライオンっていうライオンがいたんだって」 「いまは? ぼく見たことない」  ジョルジュの質問にレオナールは小さく首を横に振る。 「もうだいぶ前にいなくなっちゃったんだよ」  少し撚れてしまったたてがみの部分を指先で直しながら、小さな声で呟いた。 「時々、考えるんだ。最後の一頭は、一体何を思っていたのかなって……」  レオナールの瞳が、どこか寂しそうに揺れる。  その瞬間、ルイスの中で、力強く雄大な存在だとばかり思っていたライオンが、急に切なく悲しい生き物に姿を変えた。  レオナールの憂いを帯びた横顔が、最後のライオンの姿と重なって見える。  最後の一頭になった孤独なライオンは、一体どんな声で鳴いたのだろう。どんな瞳で、世界を見つめていたのだろう。  一体、どんな気持ちで――。  ルイスの視線に気がついたレオナールは、目が合うなりにこりと笑った。 「ところで、ルイスは何を作ったの? ――独創的なオムライスだね!」 「違う」  リュシィエンヌが大きな声で言った。 「ブロッコリー!」 「違う」  ジョルジュが首を傾げた。 「カリフラワー?」 「違う! おまえら一回食いもんから離れろ! つーか、食いもんだと決めつけんな」 「えー、でも。ルイス食いしん坊さんだから」  リュシィエンヌの言葉に、ジョルジュも勢いよく頷く。素直な二人の態度に、ルイスは若干のショックを受けた。  ほっそりとした体格のせいか、ルイスは日頃から偏食で小食に見られがちだ。実際のところ、決してそんなことはない。アレルギーもなければ、味にもこだわりはなく、大概のものは食べられる。  確かにここに来てからというもの、出されたものはほとんど残さずよく食べた。あれほど忌避していたエスカルゴも、口にしてみれば美味だった。やはり本場は違う、と思ったものだ。  ただ少し、予想外に食べ物が美味過ぎたのだ。ただ、それだけだ。別に、大食いというわけではない筈なのに。そこまで食い意地が張っているように言われるのは心外だった。 「僕はルイスが美味しそうに食べてくれて、すごく嬉しいよ。作り甲斐があるもの」  のほほんと笑うレオナールの言葉に、少しだけ理不尽なもどかしさが込み上げたが、何も言い返せない。  咳ばらいをしたルイスは、話を切り替えることにした。 「……よく見ろ。これはな、王蟲だ」  三人はルイスの作品を見、ぱちぱち、とまばたきをした。全く嫌になるほど癖が似ている。  最初に反応を見せたのはレオナールだった。 「ああ!」  わかった! という声に、満足したのは一瞬だ。 「オウムって、なに?」  ぽかん、とした子どもたちの声に、ルイスは驚愕した。信じられない思いに声が震える。 「……まさか知らないのか? ナウシカを観たことは?」 「ナウシカ?」 「しらない」  双子はそれぞれ同時に、ふるふると首を振った。 「おまえら、まさか観てないのか? あんな名作を?」  レオナールが首を傾げる。 「ああ、そうだ! 思い出した。前に観ようとした時、リュリュが虫が嫌いで、『怖い』って泣き出しちゃったんだよ。だから、二人ともホントに最初の方しか観てないんじゃないかな。父さんの書斎にDVDがある筈だよ」 「まじかよ早く言え! 午後からはアニメ鑑賞だ! ナウシカを観るぞ」 「でも、おっきな虫が出てくるんでしょ? こわくない?」  リュシィエンヌが泣きそうな顔をする。 「こわくねぇよ。絶対面白いから。嫌だったらすぐに止めてやる」 「ぼくが手をつないでてあげる」  ジョルジュの言葉に、まだ不安げなリュシィエンヌが小さく頷く。その様子をにこにこと眺めているレオナールが視界に入った。 「……アニメが好きとか、ガキくせえとか思ってるだろ」 「まさか! そんなこと思うわけないよ。僕も大好きなんだ。特にラピュタ。『四十秒で支度しな』」  さらり、と名脇役の台詞を口に出したレオナールに、ルイスは本気で嬉しくなった。  オタク気味なルイスの趣味に対して、周囲の反応は否定的なものばかりだった。ミッシェルにも呆れられるこの趣味を、肯定されたのは初めてだ。  粘土の人形たちは乾くまでもう少し放置することになった。ジョルジュとリュシィエンヌはサンドラの手伝いをする為キッチンに、ルイスはレオナールと共に、マティスの書斎へ向かった。  意気揚々と開けたドアの先は、予想以上の蔵書量だった。壁一面に備え付けられた大きな棚に、所狭しと本が並べられている。ルイスは感嘆の声を上げた。 「すげぇな」 「意外だった? ああ見えて父さん、読書家なんだよ。映画も好きでね。DVDも沢山あるんだ。アニメも、ジブリはほとんど揃ってるよ」   豪快に笑うマティスの意外な一面を知ったルイスは、心の中で彼に激しい感謝の念を送った。まさかプロヴァンスに来て、大好きなアニメが観られるなんて嬉しい誤算だ。  レオナールが指さした棚の上の方の端に目を走らせると、すぐに見つかった。早速手を伸ばすが、かなりきつく詰められているせいでなかなか引きだせない。 「僕が取ろうか?」 「いや。取れる」  見かねたレオナールの言葉に首を振り、目に付いた丸いスツールを踏み台にする。  力任せに引っ張ると、並べられたDVDケースのバランスが一気に崩れた。つられたように両脇のケースが雪崩を起こす。焦ったルイスは一歩下がろうとして、足を滑らせた。  ぐらり、と視界が傾く。 「ルイス!?」  ああ、まずい。思わず目を瞑り、ルイスは来たるべき衝撃に備えた。のだが。 「…………?」 「……っ、ルイス、大丈夫?」  つめていた息をそっと吐き出すような、心配そうな囁きに恐る恐る目を開けると、長い睫に縁どられた澄んだブルーが目の前にあった。  どうしてこんなに近くにレオナールの顔があるのか、理解できなかった。  派手な音がしたわりに、背も頭もどこも痛みを感じない。ただ、心臓の鼓動だけがやけに大きい。それに、あたたかい。  甘い香りがするのは、この男が普段から菓子を作っているせいだろうか。そんなどうでもいいことが頭を過ぎる。 「どこかぶつけた? 大丈夫?」  固まったルイスを覗き込むレオナールの、乱れた前髪の隙間から、少し下がった眉が見える。  密着した身体のあたたかさと声の近さから、レオナールが抱きとめてくれたのだと気がついたルイスは、慌てて身体を起こした。心臓が激しい音を立てている。  立ち上がったルイスは、レオナールの顔をまともに見られなかった。格好悪すぎて情けない。冷静を装えそうにない。  ぎゅうぎゅうに押し込まれていたケースを無理矢理引き抜こうとしたのだから、当然といえば当然の結果だ。自身の短絡的な行動をルイスは恥じた。 「悪かった。なんともない」  どうにかぼそりと呟くと、心底ホッとしたようなレオナールの声が聞こえてきた。 「君が無事でよかったよ!」 「おまえは?」 「ん? 大丈夫大丈夫! 頑丈さは僕の取り柄だもの」  辺りに散乱したケースを拾い集め、レオナールに渡す。元の場所に戻す作業は、彼に任せることにした。  棚の上段に手を伸ばすレオナールの広い背中を、ぼんやりと眺めていたルイスは、彼の後頭部に白い塊を発見した。おそらく自分をかばった際に埃が絡まってしまったのだろう。 「おい、レオ。ちょっとそのままじっとしてろ」 「ん?」 「いいから。動くなよ」  ふわふわとした金の髪に手を伸ばすと、見た目通り柔らかい。よく見るとあちこちに小さな埃がまとわりついている。 「あのー、ルイス? くすぐったい。っていうか、何してるの?」 「埃取ってる」  細かい埃を一つ一つ取るのが面倒で、わしゃわしゃとかき混ぜる。 「ねぇ、取れた? もういい?」 「まだ。もうちょっと」  そんなやり取りを何度か繰り返しているうちに、段々と楽しくなってきた。ルイスはレオナールの髪の毛を思うがまま散々弄んだ後、ようやく手を放した。 「もういいぞ」  振り向いたレオナールは、ルイスが遊んだせいか、正面から見ても酷い髪形をしている。思わず噴き出したルイスに、レオナールが憮然とした。 「君がやったんじゃないか」  髪の毛を直しながら呟く。むくれたような顔をしたレオナールは、普段よりも数倍子どもっぽく、なんだか新鮮に思えた。 「あ! 待って。君も埃ついてる」 「あ?」  逆襲する気か。そう身構えたルイスが見たものは、思いがけず真剣な顔をしたレオナールだった。  そっと伸ばされた指先の奥に、真っすぐにこちらを見つめるレオナールが映る。普段笑っている顔ばかり見ているせいだろうか。真顔になると冷たく見えるほど整った顔立ちをしていることに、改めて気がつく。 「はい、取れたよ」  その台詞を合図に一転、レオナールはいつものように、にこりと微笑んだ。 「ああ、サン」  不意打ちだった。  すっかり身体の力を抜いたルイスの額に、突然柔らかな感触が降って来た。それは小さなリップ音を立てて、すぐさま離れていく。  額に、キスされたのだ。  そう気づいた瞬間、落ち着いてきていたはずの鼓動が大きく跳ねた。 「何――……っ」 「さっきのお返しだよ。――さぁ、戻ろう。もうすぐお昼だよ」  不敵に微笑んだレオナールは、ルイスが何か言う前にさっと踵を返してしまった。ルイスは自身の額に手を当てたまま、茫然とした。ぐいぐいと擦っても、先ほどの感触がなかなか消えてくれない。  大きく乱れた鼓動は、しばらくの間落ち着きを取り戻してくれなかった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

64人が本棚に入れています
本棚に追加