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 もう随分と見慣れてしまった庭を、ルイスは窓からぼんやりと眺めていた。  ルイスがブラン家に滞在して十五日目。  とうとうパスポートが再発行される、との連絡が入った。その知らせを受けてミッシェルに電話すると、当初の予定通り帰国が決まった。あと五日で、ここを去ることになる。  庭では学校から帰宅したリュシィエンヌとジョルジュが、元気よくはしゃぎ回っている。あちこち茂みの中を探しているようだ。どうやら、カシュ・カシュをしているらしい。背の高い木陰から、美しいブロンドがチラチラと見える。相変わらずレオナールは隠れるのが下手くそだ。  ミッシェルとの通話を終え、特にすることもなくなったルイスは、自室を出て階下に向かった。  開きっ放しのドアからサンドラの姿が見えた。憂鬱そうな横顔に、影が落ちている。  ルイスはしばし躊躇った後、ドアの横の壁を軽くノックして、わざと明るく声をかけた。 「サンドラ、何か手伝えることはあるか?」  驚いたように肩を揺らしたサンドラが、こちらを向いて笑った。 「あら、ルイス! 大丈夫よ。もうメインの下ごしらえもほとんど終わっているの。後はマティスの帰りを待って、オーブンのスイッチを入れるだけよ。もう、電話は終わったの? お友達は何て?」 「ああ。予定通り今週末に、迎えが来る」 「そう。……あなたもどう?」  サンドラの持ったカップから、ふわりとほの苦い香りが漂う。 「……あんたがコーヒー? 珍しいな」 「紅茶が飲みたくなるのは、自分に余裕があるとき。そうでないときは、コーヒーの苦みの方が身体に合う。そんな気がするわ」 「それじゃあ、今は余裕がない?」 「どうかしら」  そう言いながらルイスの側に置かれたコーヒーは、少しぬるめに淹れられていた。サンドラらしい優しい気遣いに、苦笑が漏れる。ルイスの味の好みも、猫舌も、もうすっかり覚えられてしまっている。  こんな風にサンドラと二人きりで話すのは初めてだった。 「あなたが来てくれてから、あの子がずっと楽しそうで嬉しいわ」 「あの子?」 「レオよ」 「前から、あんな感じじゃないのか?」 「前はね、ふとした瞬間に寂しそうな顔をすることが多かったの。でも最近、本当によく笑うようになったわ。あの子は、いつも遠慮してしまうから」  サンドラはそう呟くとカップに視線を落としながら、少し寂し気な微笑を浮かべた。 「それは、あいつが養子だから、か?」 「やっぱり気がついていたの」 「本人から聞いたわけじゃない。あんた、若すぎるんだよ。そんなに俺と年も変わらないだろ?」 「まぁ、ありがとう」  サンドラは小さく笑った。レオナールの笑い方とよく似ていると思った。 「レオは、私の姉の子どもなの。といっても、異母姉妹でね。血のつながりはないんだけれど。すごく優しくて、綺麗な人だった。レオは、姉さんに似たのね」  サンドラ達がレオナールを引き取ったのは、彼が十歳になる冬のことだったという。病気で亡くなった姉は、シングルマザーだった。レオナールの父親は誰なのか、どこにいるのかは何もわからなかった。 「……あんた達、笑い方そっくりだぜ」 「まぁ。本当に?」  驚いた時に目をぱちぱちとする癖も、同じだとルイスは思った。  ちょっとした仕草や、さり気ない気遣いも、優しい手つきも。この家族はみんなとてもよく似ている。 「あなた、家族は?」  その問いかけにルイスは小さく首を振った。 「まぁ、いないようなもんだ。もう十年、まともに顔も合わせてないしな」  幼い頃に両親は離婚している。父親の記憶はほとんどない。ルイスを引き取った母親の実家は裕福な資産家だった。父親に顔立ちが似ていたせいか、ルイスは家で冷遇され、いつもひとりきりだった。金銭的に困ることはなかったが、愛情は与えてもらえなかった。 「……そうなの。それならあなたも、いっそのことこのまま私たちの家族になっちゃえばいいのに」  危うくコーヒーを噴き出しかけたルイスに、サンドラはまた微笑んで見せた。 「冗談よ。いいえ、半分は、本気かも。……いつまでもこんな風にいられたらいいのにね」  サンドラはふぅ、と重いため息を漏らした。  結局、赤の他人同士だ。自分が首を突っ込む権利はない、そう思っていた。最初の頃はできるだけ関わらないでおこう、と思っていた。それが無理なことだと気がつくまでに、時間はそれほどかからなかった。  この家は、この家族は、あたたかすぎるのだ。寒い日の毛布から抜け出せないように、包み込まれるような優しさからは離れがたい。  これだけ世話になっておいて、何も関係がないとはもう言いきれない。何か言いたいことがあるのなら、相談したいことがあるのなら、自分はそれを聞くべきだと思った。何よりも、こんなに悲しいため息を聞いてしまっては、放っておくことはできそうにない。 「あんたたちやっぱり家族だな、よく似てるよ。言いたいことがあっても、すぐ呑み込んじまう。……なぁ、よかったら、そのため息の理由を教えてくれないか? 宿泊客のちょっとした我儘を聞くのも、主人の務めだろ?」  ルイスの冗談交じりの問いかけに、サンドラは小さく笑った。しばらく逡巡した後、口を開く。 「……この家のことで、あの子から何か聞いてる?」 「いいや、何も」 「……もし次にあなたが、またプロヴァンスに来てくれたとしても、私たちはきっとここにはいない。ここは兄の家でね。私たちは彼に借りて住まわせてもらっている状態なの。毎年、固定資産税を払うことを条件にね。空き家にした場合も、税金はかかってしまうから。その税金を払うよりも、私たちにタダで管理させた方が、都合がよかったのね。兄はここの暮らしを嫌っていて、今はパリで暮らしているの。それが、突然この間電話があって」  ルイスは頷いた。ミストラルが吹き荒れた、あの日のことだ。 「この家を売ることにしたって。どうも、仕事が上手くいっていないみたい」 「随分勝手な話だな」 「そう、思うわよね。でも、彼が売ると決めた以上、もう私たちにそれを止める権利はないわ。この家は、彼の持ち物だから。……ああ、でもきっと、まだ先のことよ。だからあなたは」 「自分の宿の心配なんて、俺はしてねぇよ」 「……ルイス。あなた、やっぱりすごく優しいわ」  以前レオナールから同じように言われたことを思い出した。つい、苦笑いが零れてしまう。  傾きかけた夕日が、憂愁を帯びた橙色の光をキッチンに運んできた。  すっかり冷めきったコーヒーは舌に苦いばかりで、ルイスはサンドラに気づかれないようにそっと息を吐く。 「……みんなは何て?」 「リュリュとジョルジュにはまだ話していないの。マティスは、兄には強くは言えなくてね。隣町のレストランの近くにでも引っ越そうか、って。レオは、何も。ただ笑って、大丈夫何とかなるよって。でも、なかなかいい物件が見つからなくて……シャンブル・ドットはたぶんもうできないわ。それに、きっとレオは…………」 「レオは……?」 「たぶん、一緒には暮らさない。あの子は、ずっとここを出て行こうとしているの。いいえ、出て行かなきゃいけないと思い込んでいる。二年前にね、あの子は一度この家を出ようとして……子どもたちはまだ小さいし、シャンブル・ドットも手伝ってほしいからって、無理矢理引き留めたのよ。私たちは心の底からレオを愛しているし、家族だと思ってる、だけど」 「それは、あいつも同じだろ。それくらい見てればわかる」 「ええ。でも、あの子は心のどこかで、自分だけの居場所を探しているのかもしれないわ。あたたかい、ひだまりのような場所を」  その時何故かふと、孤独なライオンの話をした時のレオナールが頭に浮かんできた。笑顔の裏で、時折見せる物憂げな横顔や、寂し気に遠くを見つめている後ろ姿も。  レオナールはきっと、自分のことを『最後の一頭』だと思っているのだろう。  声にならない声で鳴き、誰にも届かない叫びをあげ、ずっと居場所を探している、最後のライオン――。  胸が締め付けられるような切なさと腹立たしさが同時に湧きおこり、ルイスは混乱した。レオナールの寂しさを想うと悲しくなるのに、無性にイライラとしてしまう。  あんなにあたたかな、優しい男なのに。こんなにあたたかな家族なのに。こんなにもこの家はあたたかさで満たされているのに。  どうしてひとりきりだと、思い込んでいるのだろう。 「……ごめんなさいね、ルイス。話を、聞いてくれてありがとう」 「いや……」  それ以上は言葉に詰まり、何も言えなかった。  それからしばし沈黙が流れた後、静寂を破るような大きな足音が聞こえてきた。  キッチンに顔をのぞかせたマティスが、にっこりと笑う。 「おかえりなさい、あなた」 「ただいま!」  サンドラに返事とキスを返したマティスは、小脇に抱えていた紙袋をテーブルの上に置いた。 「喜べルイス、今日はおまえさんに土産物があるんだ。聞いて驚け! 採れたての黒トリュフだ!」 「トリュフ? そんな高級品どうしたんだよ」 「値段なんて気にするな。おまえさんにどうしても食わせてやりたくてな。これで作るトロットロのブリュイヤードは、超絶品だぞ!」 「そりゃ楽しみだ」  マティスの豪快な笑い声に、場の空気がふんわりとなごむ。キッチンに漂っていたうす暗い影が、一目散にどこかへ消えてしまったような明るさに、ルイスは知らず安堵を覚えた。  サンドラはルイスの方をちらりと見て、小さく微笑みを浮かべると、カップを手に立ち上がった。 「……それじゃあご飯にしましょうか。すぐに用意するわ。ルイス、悪いけど子どもたちを呼んできてくれる?」  まだ外で遊んでいるだろうか。庭に出ようとした矢先に、ジョルジュとリュシィエンヌが廊下の向こうから駆けてきた。 「飯だとさ。レオは?」 「レオの部屋にいるよ。絵本をよんでるあいだに、ねちゃったの」 「わかった。おまえら先に行ってろ。俺が起こしてくるから」  レオナールの部屋は屋根裏にあった。ドアをノックするが返事がない。中に入ると、ベッドの上に、長い手足を丸めるようにしてレオナールが眠っていた。普段よりも幾分かあどけない、子どものような寝顔だ。 「レオ、飯だぞ」  声をかけるが、起きる気配はなかった。小さい寝息は、規則正しく続いている。  先ほどのサンドラとの会話が頭を過ぎる。  本当に、この家を手放すことになったとき、レオナールは一体どうするのだろう。  レオナールの無防備な寝顔をぼんやりと眺めているうちに、突然沸き上がった感情にルイスは息苦しさを覚えた。あと五日しか、ここにいられないのだ。  ルイスはレオナールの眠るベッドの端に腰かけると、彼の頬に落ちた髪をそっと避けてやった。  誰も聞いていない、誰も見ていない。今なら、素直な気持ちを言葉にできる気がした。 「……あと五日で、アメリカに帰るよ。来たばっかの時は、三週間もこんなとこで暮らすなんて、どうなることかと思ったが……随分と短いもんだな」  子どものように眠るレオナールの髪を優しく撫でながら、ルイスは小さく呟く。 「……なぁ、最後の一頭って、どんな気持ちなんだ?」  この男に、自分は一体何をしてあげられるのだろう。与えてもらったあたたかさを、一体どうしたら返せるのだろう。  長い睫が小さく震え、薄く開いた青い瞳がぼんやりとルイスを捉えた。ルイスはレオナールに気づかれないように、彼の髪からそっと手を離す。  ぱちぱちと、何度か瞬きをしたレオナールは、ふわりと小さな笑みを浮かべた。 「……起きたか、飯だぞ」  返事はなかった。まだどこかぼんやりとしているレオナールは、放っておけばまた眠ってしまいそうだ。  もう一度声をかけようとした、その瞬間。  ルイスは思いのほか強い力で腕を引っ張られ、バランスを崩し、ベッドへと倒れ込んだ。 「何す、レオ? お、い……っ?」  甘い香りがした。吐息がかかりそうなほど間近に、レオナールの顔がある。あまりの近さに、ルイスは一瞬息を呑んだ。動きが止まる。  蕩けるような微笑を浮かべたレオナールは、驚くルイスの頬を両手で挟むと顔を寄せてきた。  抵抗する暇さえなかった。茫然とするルイスの唇に、とんでもなく柔らかいものが触れる。啄むように優しく触れたそれは、少し湿っていてあたたかい。  レオナールの唇だ。  そうとわかったのに、なんの反応もできなかった。  ほんの数秒もせずに離れたそれは、キスと呼ぶにはあまりにも軽い接触だった。羽で撫ぜるような感触は、すぐに消えてしまう。  離れていく唇をぼんやりと目で追う。その次にルイスの瞳に映ったのは、激しく驚いたように固まったレオナールの顔だった。  至近距離で見つめあうこと、数秒。何度か瞬きを繰り返していたレオナールは、突如慌てたようにルイスの頬から両手を離し、勢いよく半身を起こすと、後ずさるようにベッドの端へと移動した。  レオナールの頬がじわじわと赤く染まっていく。とにかく、赤い。ルイスが今まで見た彼の顔の中で、一番赤い。 「……なんでおまえが照れてんだよ」 「だって夢だと思ってて! そしたらまさかの現実だったんだよびっくりして当然じゃない!?」 「何だ今更。おまえこの間、俺にしただろうが」 「あれは、おでこだし! やっぱり口にするのとは違うっていうか!」 「おまえは乙女か。ガキじゃあるまいし、キスくらい初めてでもないだろ」 「本気で好きになった人とするのは初めてだよ!」  その言葉に、ルイスは、ああ、この男はやっぱり本気だったのか。と思った。  初めて会ったあの夜の告白を、ずっと冗談だと思い込もうとしていた。レオナールの優しさに満ちた言葉や配慮に、思い出しかける度になかったことにしていた。それを今、ルイスは不思議なほどすんなりと受け入れた。  少しも嫌な気分にはならない。それどころか、自身でもどうかと思うくらい、じわじわと嬉しさのようなものが込み上げてくる。  レオナールは、かなり動揺しているらしい。側にあった枕の端を引っ掴み、握ったり離したりを繰り返している。いつもどこか余裕で、落ち着きのあるレオナールが、たった軽いキスひとつで真っ赤になって狼狽えている。  こうまで焦った、恥じらっているレオナールを見るのは初めてだった。  目がおかしくなったのかもしれない。ルイスはぼんやりと思った。  赤い顔で、うろうろと視線を彷徨わせているレオナールが、なぜだか可愛く見える。 「あの、寝ぼけててホントにごめんルイス。今ちょっとこっち見ないで……」  そんなことを言われたら、逆に見たくなってしまう。レオナールの反応が、ルイスの何を煽ったのかはわからない。欲情だとは認めたくない何かが、自分の中で急激に膨れ上がる。 「レオ」 「……何?」  名を呼ぶと、レオナールは少し恥ずかしそうにしながら、それでも律儀に返事をする。  やはり、自分の目はおかしくなってしまったらしい。いや、おかしくなったのは、頭かもしれない。 「飯だから、呼びに来たんだけど」 「あ、そっかもうそんな時間なんだね、ありがとう。うんわかった、ごめんもうちょっと落ち着いたら行くからルイスは先に」 「その前に、もう一回キスしとくか」 「どうしちゃったのルイス正気!?」 「さぁ。どうだろうな」  これが目の錯覚だろうが、正気でなかろうが、そんなことはどうでもいい。  ルイスはレオナールの手にしていた枕を取り上げると、にやりと笑ってみせた。珍しく笑みを浮かべたルイスに、レオナールは驚いたように目を瞠る。  にじり寄り、唇を笑みの形のまま押し付け、ふっくらとした下唇を軽く噛んだ。 「ちょ、だめだって、ば、ルイス! ああ、もう!」  何度目かの接触の後、レオナールのわめくような声が聞こえたかと思うと、視界がぐるりと回転した。  赤い頬のまま、少し怒ったような顔をしたレオナールが、覆いかぶさって来る。  これは、少しやり過ぎたかもしれない。そう思った時には遅かった。真っすぐにルイスを見つめながら、レオナールは口を開く。 「僕だって我慢してるのに! いまさらなしだって言っても遅いからね」 「待っ……――」  制止の声は、飲み込まれた。  ベッドに押し倒される形になったルイスに、噛みつくようなキスが降って来た。吐息ごと奪うような、獰猛なキスだった。  驚き開いた唇の狭間から、容易く侵入してきた舌は、ルイスの口腔を優しく蹂躙した。引きずり出すようにされた舌を噛まれ、逃げては追われ、また絡めとられ。  何度も濡れた舌が、互いの唇の間を行き来した。  夕食のことなど完全に忘れ去った頃。  しびれを切らしたサンドラがドアをノックする音で、二人はようやく正気にかえった。
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