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7
アルルの町のマルシェは、人だかりでごった返していた。
小さな屋台がそこかしこに立ち並び、威勢のいい声が飛び交っている。色とりどりの野菜に形の不揃いな果物、様々な種類のハーブやスパイス、チーズに、パンに、花に生活雑貨。ありとあらゆるものがずらりと無造作に並べられていた。
予想以上の活気あふれる光景に唖然としたルイスは、若干の驚きを胸に隣に立つ男をそっと見上げた。レオナールは普段と同じような小さな微笑みを浮かべている。
からりと晴れた秋の日。レオナールに連れられて、ルイスは最後の買い出しに来ていた。
とうとう明日、ルイスはアメリカに帰る。
人混みは昔から苦手だった。ただでさえ方向音痴なのに、人を避けることに夢中になっていると、どちらから歩いてきたのかさえ分からなくなりそうで不安になる。
わざわざ遠出をする理由を尋ねたルイスに、『いつもよりちょっと安くて、新鮮なものが手に入るから』とレオナールは言った。
それに、とこっそり小さく付け加えるような声で、『二人きりでデートも、悪くないでしょ?』と言われては、断るわけにはいかなかった。
あんなに情熱的なキスをした後で、お互い何もなかったように振る舞うのは少しばかり難しかった。熱量を隠し切れない眼差しを向けられるたびに、むずがゆいような気持ちが胸の中を満たし、どぎまぎとしてしまう。
あまり表情の変わらない性質でよかった。などと思うのは、湧き上がってくるようなこの胸の内の感情を制御しきれないでいるからだ。十も年下の、しかも同性を可愛いと思う日が来ようとは、夢にも思っていなかった。
自分の人生に、恋愛なんてものは不要だ。愛だの、恋だの、そういった感情は煩わしいだけだ。
愛される喜びも、愛する喜びも、自分にはわからない。だから必要ない。けれど、それでいい。ずっと、そう思って生きてきた。それなのに自分は今、確実に迷っている。
レオナールはただ『好きだ』と告げただけで、ルイスの返答を一切求めようとしなかった。
彼が何も言わないのは、不毛すぎるとわかっているからなのかもしれない。
通行人と肩がぶつかって、思考の海に埋没していたルイスはようやく我に返った。ぼうっとしていたせいで、傍らにいる筈のレオナールの姿を一瞬見失いかける。
「レオ?」
思わず焦ったような声が出た。見つけた、と思った瞬間、きらめくブロンドは人の波に飲まれるように視界から消えてしまう。
「ルイス。こっち!」
声とともに、人混みの中から顔を出したレオナールが、思わぬ強さでルイスの手を取った。
そのまま手をつながれ、そのあたたかさに、ホッと息が出る。
いつもよりも手が熱い気がするのは、レオナールのせいなのか、それとも自分のせいなのか、判断がつかなかった。けれど、不快さは感じない。振り払おうとは微塵も思わなかった。
この男の体温は、肌に心地よいのだ。
見上げた先で、レオナールがふんわりと笑う。
「はぐれたら大変だよ。ね?」
繋がれた手を引かれ、歩き出そうとしたルイスは足を止めた。
公共の場であることに、一瞬躊躇が芽生えたのだ。
自分は全く構わない。誰かに見咎められることも、困るようなこともない。しかし、レオナールは違うのではないか。
確か出会った日、レオナールは友人の結婚式の為にアルルに行って来た、と言っていた。
「おまえ、ここに知り合いいるんじゃないのか?」
大丈夫か、と問うルイスに、レオナールは首を横に振った。
「誰も見てないよ。みんな自分の買い物に夢中だもの。もし見られても、僕は全然気にしないし。それに、そんな心配をするよりも、ルイスが迷子になったら大変だよ」
悪戯っぽくウインクされ、ルイスは確かに正論だ、と思った。自分の方向音痴の酷さは自覚している。レオナールが心配するのも、もっともだ。
しかし、多少の苛立たしさがないわけではない。
にこにこと笑う男の顔を胡乱な眼差しで見上げながら、ルイスはつながれた手に渾身の力を込めた。
容赦はしない。
「痛い痛い痛い痛い! 酷いよルイス!」
「……仕返しと礼だ」
「その二つって同居するの!? おかしくない!?」
「おまえの言っていることは正しい。確かにはぐれるのは困る。だからまぁ、助かる。だが、ムカついた」
握る力を少し弱めると、レオナールは再び悪戯っぽく笑った。
「できればお礼だけの方が嬉しいな。例えば、キスとか」
冗談交じりの提案に、ルイスは数秒考えた。レオナールが気にしないのならば、何の問題もない。
「あー、そうだな。考えとく」
素直なルイスの返事に、レオナールは少し面食らったように、瞬きをした。
すっかり見慣れたこの癖も、やはりどこか可愛らしく映るから、情というものは恐ろしいな、とルイスはぼんやりと思った。
レオナールの頬に、ほんの少し赤が差す。
「……あの、ルイス、急にどうしたの?」
「人はいつかどうせ死ぬんだ」
「ねぇ大丈夫!? ホントどうしちゃったの!?」
「だから、楽しんだもん勝ちってことだろ」
いつまでもうだうだと考えるのは性に合わない。今はこの時間を楽しみたい。
レオナールの耳元に口を近づけると、彼にだけ聞こえるように小さな声で囁く。
「デート、すんだろ?」
絡められた指先にほんの少し力を込めて揺さぶると、レオナールが照れたようにまた頬を染めた。
「ルイスは、ホントにずるい……かっこよすぎる」
悔しそうに言いながら、それでも一層強く握り返してきた手にルイスは満足した。
「で、何から買うんだ?」
「うーん、まずはソシソンかな」
「ソシソン?」
「乾燥させたソーセージだよ。父さんがよくワインのお供に食べてるおつまみ」
メモに視線を落としたレオナールの半歩後ろを、手を引かれながらゆっくりと歩く。テーブルの上に沢山のカゴが並べられ、白っぽい紙に包まれた細長い棒のようなものが山のように積まれている。
ルイスにとっては珍しいものばかり並んでいるのに、ふわふわと風に揺れる金の髪や、長い睫や、すっと通った美しい鼻梁や、楽しそうに緩んだ口元に、つい目が行ってしまう。
「ルイス、口を開けて」
ぼんやりとレオナールの横顔に見入っていたルイスは、言われるがまま従った。
開けた口に、薄く切られた一口大のソシソンが放り込まれる。舌先にほどよい塩気を感じ、噛みしめるたびにスパイシーな香りが広がっていく。
「どう?」
「割と美味いなこのサラミ」
「違うよ、サラミじゃないよ」
「? サラミだろ?」
「サラミじゃないってば。ソシソンはソシソンだよ」
レオナールはそう言いつつ長々と説明を始めたが、ルイスには何がどう違うのか、結局よくわからない。
咀嚼し、飲み込むとまた新しい味のソシソンを味見する。シンプルな味のものから、ハーブやスパイスがまぶしてあるもの、ナッツが練り込んであるものなど数種類を試した後。
「どれが一番おいしかった?」
「あー、……全部?」
本音を言うと、レオナールは大きな笑みをこぼした。
次に向かったのは菓子屋だった。サンドラが、クリスマスのケーキ用にフリュイ・コンフィを欲しがっているのだという。シロップに漬けられた果物は、どれも宝石のようにきらきらと輝いている。
そこでもルイスはまた味見を繰り返すことになった。イチゴにメロンにパイナップル、マンダリン。ルイスが咀嚼を繰り返し、フルーツの小さな塊を飲み込むたびに、レオナールが嬉しそうに破顔する。
最後に口に入れられたのは、しっとりとした歯触りの、いつもの菓子だ。
「このお店のカリソンは、有名なんだよ。どう?」
「美味い。けど、おまえの作ったのが好きだな」
ぼりぼりとかみ砕きながら呟いた答えに、頬を染めて照れたようにレオナールは笑った。
買い物客でごった返すマルシェの騒々しさの中で、味見ばかりの何の色気もないデートを、ルイスは心の底から楽しんでいた。レオナールと笑い合う時間に、かつてないほどの幸福を感じる。つないだ指先から伝わってくるぬくもりに、心が和らいだ。
石鹸に、オリーブオイル、蜂蜜、ブレンドされたハーブ。いくつかの店を周り、メモに書かれた買い出し品は、全て揃えられた。
昼まで開かれているマルシェが終わるまで、まだ一時間ほど時間がある。残された時間で、ブラン家への土産を見繕うことにした。
陶器や銀器などのテーブルウェアや、クロスや小物など、生活に根差した古道具が所狭しと並べられた店先で、二人は見つけた品を検討し合う。
リュシィエンヌに似合いそうなレースのリボン。乗り物が好きなジョルジュにはブリキの機関車の玩具。マティスには使い勝手のよさそうなオリーブの木で作られたカフェボウルに、サンドラには繊細な刺繍の施されたラベンダーのサシェを買うことにした。
レオナールが店主とやり取りをしている間、ゴッホのひまわりの絵が描かれたしおりが、ルイスの目に留まった。
偶然見つけたそのしおりから、なかなか目が離せない。何度も目にしたことがあるはずの有名な絵を、今初めて出会ったもののように、ルイスは見つめた。
ひまわりの鮮やかな黄色が、ライオンのたてがみのように思えた。切なくなるような黄色が、レオナールを連想させる気がした。
「おじさん、これもちょうだい」
そう言いながら、レオナールはルイスの目線の先にあったしおりを手に取った。店主に支払いを済ませると、ルイスに向かってにっこりと笑う。
「これは、ルイスの分ね」
「おまえは?」
「ん? 僕はまたいつだって来られるもの。今日はみんなへのお土産だけでいいんだ」
いつもそうだ。レオナールはいつも、自分よりも他人を優先する。
自分のことは全て後回しにして、いつも他人の幸せばかり願っている。
人の笑顔の為に菓子を焼いて。紙粘土も余りもので。今日もずっと、ルイスのことばかり気にかけていた。
この男はどうにも、優し過ぎる。もっと自由に、もっと自分のことを考えていいのに。
「ねぇ、ルイス。ちょっとだけ遠回りして帰らない? ドライブしよう」
レオナールの提案に、ルイスは一も二もなく頷いた。このままシャンブル・ドットに帰るのは、なんだかもったいない。それに、レオナールがそうしたいと望むのならば、優先させてあげたいと思った。
アルルからたどり着いた先は、大きな湿地帯だった。
白い馬や黒牛がのんびりと草を食み、大小さまざまな野鳥が空を飛んでいる。大きなフラミンゴの群れが、辺り一面に広がる池を淡いピンク色に染めていた。
「あれがサギで、あっちの木に止まってるのがチョウヒだよ」
「おまえ目いいよな」
歩きながらレオナールはあちらこちらを指さした。しかし、ルイスには正直あまり違いがわからない。唯一区別できたのは、ガーガーと大きな声で鳴くフラミンゴだけだった。
池から少し離れた木陰に、二人は腰を下ろした。
隣に座る男の肩口に、頭を預ける。レオナールが少しくすぐったそうに、笑う気配がした。
気持ちの良い風が頬を撫でる感触に、ルイスは目を細めた。このまま眠ってしまいたいほど、心地よかった。
「ここはね、カマルグっていうんだ。……ホントに小さい頃、この近くに住んでたんだよ。あんまりよく、覚えてはいないんだけど」
「あの家に、引き取られる前、か?」
「うん。……母さんから聞いたんだって? 伯父さんと、家のことも?」
「ああ」
レオナールは「そっか」と小さく呟いた。寄り添う男のシャツ越しの体温があたたかい。ルイスは何も言わず、彼の次の言葉を辛抱強く待つことにした。
さわさわと、葉が揺れる音が聞こえてくる。
どのくらいそうしていただろうか。
レオナールが静かに、口を開いた。
「……実はね、まだちょっと現実味がないんだ。でも、家族には、幸せになってほしいって思ってる。無理だってわかってるけど、できることなら、あのままあの家で、みんな一緒に暮らしてほしいって、そう思ってる。だけど……」
「…………おまえは、どうするんだ?」
一番、聞きたいことだった。
レオナールが本当はどうしたいのか。どう思っているのか。この機会を逃したら、一生聞けないような気がした。この優しい男は、言いたいことをすぐに飲み込んで、胸の奥深くにしまい込んでしまう。
レオナールの口から、彼の気持ちを聞かなければいけないと、ルイスは強く思った。
身体を離し、レオナールと向き合う。真っすぐに瞳を見つめると、レオナールはどこか悲しそうに小さく笑った。
「もちろん、僕もあの家は大好きだよ。でも、僕の幸せがどこにあるのかは、まだよくわからないんだ……」
家族には幸せになってほしい。それにはきっとあの家が必要で、でも、そこに自分の居場所はなくていい。
それが、悲し過ぎるレオナールの願いだった。
ルイスは彼の言葉を聞いて、ひそやかに決意を固めていた。
この地に来てから、ルイスは本当に沢山のものを与えられた。
衣服や食べ物や寝る場所。そして、目には見えない、心の奥底にじんわりと染み入るような、あたたかさ。
それをいつも率先して与えてくれたのは、レオナールだった。
彼から与えられたものを、どうにか返したい。けれど、どうやったら返せるのか、わからない。ずっと探している答えの糸口をやっとつかめた気がした。
レオナールは眉を下げて、ぽつりと頼りなく声を落とした。
「……情けないよね。自分のことなのに、どうしたらいいのかわからないなんて」
「全部わかってる方が、おかしいだろ。自分が進むべき道を知ってる人間なんて、ほんの一握りだ。みんな逃げて、流されて、まともに向き合うことなんてしないまま生きてんだよ。その中で、考えようとしてるおまえは、ちゃんとしてる人間なんじゃねぇの」
ルイスの言葉に、レオナールはぱちぱちとまばたきを繰り返すと、ふんわりと微笑んだ。
「やっぱり、ルイスはすごく優しいね。……そういうところ、すごく好きだよ」
自分は優しいだろうか。ルイスの口から、思わず苦笑が漏れかけた。
本当に優しいのは、『優しい』と口にできるレオナールの方だ。
池の縁に佇んでいたフラミンゴが群れを成して、一斉にばさばさと飛び去って行く。鳴き声がだんだんと小さくなり、やがて聞こえなくなった。
辺りが、しんと静寂に包まれる。
「レオ」
「……何?」
「俺と来るか?」
乾いた冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
言葉はなく揺れる瞳に、レオナールの戸惑いが伝わって来た。
「悪い。……余計なことを言った」
「ルイス、あの、……ごめ」
「いい。謝るな。おまえは何も、悪くないだろ」
泣きそうな顔をしたレオナールの髪をくしゃりと撫でて、ルイスはわざと笑って見せた。上手く笑えた自信はない。
あまりにも唐突な言葉だとわかっていた。踏ん切りなどつかなくて当然だ。ルイスは後悔した。
重苦しい沈黙の中、先に口を開いたのはレオナールだった。
「……そろそろ、戻ろうか。きっと母さんがご馳走を作って待ってるよ」
ぎこちなく微笑みかけるレオナールに、ルイスはどうにか頷き返した。
トラックに乗り込んだ後も、ルイスは彼にかけるべき言葉を見つけられなかった。
美しい夕日が、辺り一面を黄金色に染め上げている。まばらな木立の影を目で追いながら、ルイスは瞳の奥にその情景を焼きつけようとした。
家に帰りついた頃には、夕闇が辺りを包み始めていた。
見慣れない黒い車が、庭先に停まっている。
「伯父さんの車だ」
レオナールが、青ざめた顔で小さく呟く声が聞こえた。
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