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 玄関に入った途端、リビングの方から怒鳴るような男の声が聞こえてきた。 「何故何も片付いてないんだ? 俺はさっさと出て行けと言っておいただろうが!」  急ぎリビングに向かう二人の耳に、それと対峙するような女性の声も聞こえてくる。サンドラの悲壮な声だ。 「止めてドミニク、そんな風に怒鳴らないで。子どもたちが怯えるわ。もちろん出て行く。そのつもりよ。今日だって、事前に連絡さえくれていたら、ちゃんと……いくらなんでも早過ぎよ」 「……おまえじゃ話にならない。マティスを出せ」 「まだ仕事から帰ってきていないのよ。お願いだから、もう少し静かにして」 「俺は家の中の写真を撮りに来ただけだ。……なんだこのガラクタは」 「やめて触らないで!」 「兄に向かってその口の利き方は何だ」 「確かにこの家はあなたのものよ。けれど、この家の中にあるものは、全部思い出が詰まっている大切なものなの。それは全部私たち家族のものよ。あなたには、指一本触ってほしくない。……座って。私も頭を冷やすから。……コーヒーを淹れるわ」  廊下に出てきたサンドラが、こちらに気がついた。目が合った途端、泣きそうな表情で微笑む。 「お帰りなさい、レオ。ルイス。ちょっと、こっちに」 「母さん、伯父さんが……」 「ついさっき、いきなり来たのよ……契約書類を作って来たって。家の写真を撮るから、今日は泊まって、明日の朝帰るって」  手招きをされて入ったキッチンは薄暗かった。いつもは陽気な笑い声に満ちたあたたかい空間が、やけに寒々しく感じる。  酷く混乱している様子のサンドラは、青ざめた顔で微かに唇をわななかせた。コーヒーを淹れようとしている手が、震えている。 「落ち着いて、母さん。とりあえず、座って。コーヒーは僕が淹れるから。母さんは少し休んでて。ね?」  レオナールはサンドラを気遣うように小さく微笑むと、コーヒーを載せたトレイを手に、リビングに向かって行った。  ルイスはキッチンを見回した。子どもたちの姿が見えない。混乱しきったサンドラを落ち着かせるように、できるだけゆっくりと声をかける。 「……リュリュとジョルジュは?」 「部屋から出てこないように言ってあるわ。……ごめんなさいね、ルイス。みっともないところを見せてしまって……。まさかこんなに早く来るなんて……」  そう言って口をつぐんだサンドラの、疲れ切ったような横顔が痛々しい。今日の朝は、明日発つルイスの為に、『夜はあなたの好物を沢山作るわ』と満面の笑顔で張り切っていたのに。 「あんたが謝ることじゃないだろ。……なぁ、サンドラ。一つ確認させてくれ。今日は、俺の為に特別なディナーを用意してくれてるんだろ?」 「え? ……ええ」  突然のルイスの発言の意味を測りかねるように、サンドラは瞬きをする。 「あの男の分はないよな?」 「え? ええ」 「じゃあ、追い出しても構わないな?」 「え?」 「これから少し勝手なことをさせてもらうが、手のかかる宿泊客の最後の我儘だと思って、許してくれ。俺のすることが気に入らなかったら、後で殴ってくれて構わないから」 「ルイス、あなた一体何をするつもりなの?」  サンドラが心配そうに顔を曇らせるのは、ルイスを案じているからだろう。 「頼むよ」  真っすぐに見つめると、彼女は戸惑いながらも小さく頷いた。  急ぎ向かったリビングから、二人の話し声が聞こえてきた。 「ねぇ待って伯父さん。せめて父さんが帰って来てから、もう一度ちゃんと話を」 「うるさい! 血の繋がりもないくせに、赤の他人が口を出してくるな。部外者は黙っていろ。だいたいいつまで――」  これ以上は、聞くに堪えない。  ノックもせずにリビングのドアを勢いよく開けたルイスは、話を遮るように大きな声を出した。 「なぁ、この家を売りに出すんだって? その話、俺にも詳しく聞かせてくれないか?」 「……ルイス?」  不安そうなレオナールに、男には気づかれないように、一瞬視線を動かしてみせた。大丈夫だ、心配しなくていいと、その瞳に語り掛けるように。 「誰だ?」  いきなり割って入ったルイスに、ソファに座っていた男は振り返ると怪訝そうな眼差しを向けてきた。   男はルイスの後ろに立つサンドラに気がつくと、嫌味ったらしい笑みを浮かべた。 「ああ、まさかまた拾って来たのか? それともお前の愛人か? やるじゃないかサンドラ」 「なっ……」  言葉を失ったサンドラを庇うように、ルイスは一歩前に出た。作り笑いの仮面を張り付ける。 「こんな美人の相手だと思ってもらえるとは光栄だが、生憎と誤解だ」  ルイスは男を一瞥した。神経質そうな細い眉に、薄い唇。眉間に寄った皺。明らかに格下の相手を見るような、侮蔑を含んだ目つき。品性の欠片も見当たらない。  優しい面差しのサンドラとはまるで似ていない。強いて挙げるとすれば、髪の毛の色くらいだろうか。  どう考えても、いけ好かない。  しかし、考えようによっては、これ以上にやりやすい相手はいない。ルイスは唇の端を吊り上げた。 「ルイス・ターナー。ここの宿泊客だよ」 「……ドミニク・フォーレルだ。……それで、宿泊客がいきなり何の用だ」 「おいおい、いきなりケンカ腰はないだろ? せっかくあんたにいい話を持って来てやったのに」 「なんだと?」 「こう見えて、金持ちの知り合いは多いんでね。この家を買うかもしれない奴に、心当たりがある」 「……ほぅ」  その言葉に興味が湧いたらしい。ドミニクはルイスを改めて一瞥すると、鼻で笑うような声で言った。 「それにしても、こんな古い貧乏じみた安宿にあえて泊まるなんて、相当なもの好きだな」  一々癇に障る男だ。そう思いながら、明らかに蔑んだ物言いにも、ルイスはあえて笑って答える。 「あんたとは気が合わないな。食事は美味いし、採れたてのキノコだって毎日食える。シーツも清潔、ベッドもふわふわ。かなり贅沢させてもらってる」 「随分と貧相な感性の持ち主らしい。流石に、レオナールと付き合いがあるだけのことはあるな。育ちが知れるというものだ」 「なんとでも言えばいいさ。なぁ、まずは契約書を見せてくれよ。いいだろう? 金持ちに口を利いてやろうって言ってんだ」  舌打ちをし、渋々といった体で鞄から書類の束を取り出すドミニクを、ルイスは密かに観察した。  ドミニクの身に着けているものは、全て高級品と呼ばれる類のものばかりだ。  仕立ての良いブランド物のスーツにちらりとのぞく腕時計。指輪も下品に見えるほど大ぶりな宝石が煌めいている。外に停めてあった車は、暗がりで良くは見えなかったが、おそらくシトロエンのDSだ。生活に困っているようには到底見えない。  この男が本当に金がなく、もう少しサンドラに似ていたならば。そう思いながら、ルイスは立ったまま受け取った契約書を眺めた。文書を読む術には長けている。軽くざっと目を通すが、特におかしいところはない。 「四十万ユーロ? ふぅん……」  頭の中でおよそのレートを計算し、ドルに換算した。  約四十八万ドル。アメリカでも場所によっては、プール付きの家が一軒買える値段だ。  ルイスのため息をどう受け取ったのか、ドミニクは、焦ったように言った。 「これでも安くした方だ。本来なら土地の面積を考えただけでも、もう十万は高くなる。だが、この家はとんでもなく古いし、ここは相当な田舎で不便すぎる。あまり高いと買い手もつかないからな」 「つまりあんたは、多少安くてもいいから、さっさとこの家を売り払いたいってことでいいか? 相手は誰でも? 性格のねじ曲がった金持ちでも文句は言わないか?」  ルイスの言い方が気に入らなかったらしい。ドミニクの眉が一瞬ぴくりと動いた。 「……ああ。そうだ。できるだけ早く。相手が誰であろうと、そんなこと構うものか」 「で、ここの家族には、迷惑料としていくら支払われるんだ?」 「そんなものが必要か?」  ドミニクの言葉に、ルイスは大げさに驚いてみせた。 「おいおい、本気か? 毎年税金を納めていたのはここの住人だろう? 引っ越すにしても、新しい家を建てるにしても、金は必要だ。俺は言っただろ、心当たりがあるって。そいつはな、ここの家族には世話になりっぱなしで、かなりの恩を感じている。あー、そうだな、もう五万ユーロ高くして、その分に充てればいい。その条件でも、喜んで金を出すはずだ。それでも、あんたは何も損しないだろ」 「……本当だろうな?」 「ああ、間違いない。あんたこそ、きちんとここの家族に、五万ユーロ支払うと約束できるか?」 「あ、ああ。勿論だ。では、そうしよう」 「それを聞いて安心したよ。……それじゃあ、取引だ」  ドミニクの胸ポケットから万年筆を素早く抜き取ったルイスは、彼の真向いのソファに乱暴に腰かけた。少し前かがみになり、ドミニクを見据える。ドミニクが怪訝そうに深く眉を寄せた。  その顔を見ながら、ルイスはにやりと笑った。 「この家は、俺が買おう」 「………………何だと?」  ドミニクの目が驚愕に見開かれる。その様子を見て少し溜飲が下がった気がした。  ルイスは契約書に素早くサインをしたためると、空いているスペースに会社のアドレスをさらりと書き加えた。彼に押し付けるように、テーブルの上を走らせる。  滑り落ちそうになる紙を慌てて掴んだドミニクは、信じられないものを見るように、サインとルイスの顔を交互に見比べている。 「ちょうどよかった。どうやって宿代を払おうか考えていたんだ。なかなか正攻法じゃ、受け取ってもらえそうにないんでな。ああ、頭金は一週間以内に振り込む。その前に、秘書から連絡を入れさせよう。細かいやり取りはその時でいいよな? 俺は腹が減ってるんだ。今はこれ以上、ここで面倒なやり取りをしたくない」 「ちょ、ちょっと待ってくれ」 「なんだよ。まさか一週間待てないなんて言うつもりじゃないだろうな?」 「いや、そうじゃない。そうじゃないが……」  それまでの偉そうな態度から一転し、混乱するドミニクの慌てふためいた様子は、ルイスの目に酷く滑稽に映った。 「あんたは、相手が誰であろうと構わないと言った。男に二言はないよな?」 「勿論だ。だが、なんだってこんな」 「それ以上口を開くなよ。言っただろ? ここの家族には恩があるって」  何か言いたげにしているドミニクに、指先で弄んでいた万年筆をくるりと回転させる。 「ああ、忘れていた。これは返すよ、大いに役に立った。流石はウォーターマン、素晴らしい書き心地だ。今度から金に困ったら、まず車と時計とこの万年筆を売れよ。少しは金になるはずだ。それに、あんたには似合わない。もう少し、分をわきまえた方がいいんじゃないか」  ルイスは言いながら、万年筆をテーブルの上に置いた。  怒りか、それとも羞恥か。ドミニクの顔が一気に赤く染まり、唇が震える。その様子を見ながら、ルイスは心からの会心の笑みを浮かべて見せた。 「というわけで。ここから先は、俺達の団らんの時間だ。残念ながら、あんたの分のディナーはないんでな。部外者は、さっさとお帰りを。ムシュー?」  その言葉を聞くと同時にドミニクは、傍らにあった鞄とテーブルの上の万年筆を乱暴に引っ掴んだ。屈辱に顔を歪めながら、よろよろと立ち上がり、しわがれたような声で問う。 「……サンドラ、あいつは一体誰なんだ?」 「そんな、私にも、一体何が何だか……」  リビングから出ようとする男の背中に向かって、ルイスは言い放った。 「俺のことが知りたければ、検索してみろ。ルイス・ターナー、トゥエンティ・ワンズコーポレーション、でな。俺とそっくりな社長の顔が拝めるはずだ」  ドミニクは、そのまま振り返ることなく、荒々しい足取りで去って行った。玄関のドアが乱暴に閉められる音が響く。  すっきりした、と思いながら振り返るとレオナールとサンドラが固まっている。  いつの間にか身を寄せ合っていた二人は、そろって信じられない様子でぼんやりとルイスを見ている。反応がない。 「なぁ、サンドラ。あいつ本当にあんたの兄貴か? 似てないにも程があるぞ」  投げかけた言葉にも、やはり反応がない。  レオナールが、ルイスを見つめながら、ようやく声を絞り出した。 「……ルイス、君は一体……?」 「……名前はルイス・ターナー。アメリカでトゥエンティ・ワンズっつう会社を経営してる。趣味はジャパニメーションの観賞。特にハヤオ・ミヤザキの作るアニメは最高だ。まぁ、こんなもんか。以上、質問は?」  冗談交じりの紹介にも、二人は戸惑いの表情を浮かべたままだ。 「……なぁ、怒った?」  少しやり過ぎたかもしれない。困惑しきった様子のサンドラに問う。  性格のねじ曲がったいけ好かない男とはいえ、サンドラの実の兄だ。彼女にも思うところがあるのかもしれない。 「いいえそんなこと……正直胸がすっとしたわ。ああ、いえ、そうじゃなくて。ちょっと待って。何が起こったのか、信じられない。あなた、この家を」 「買ったよ。これで、あんたたちが引っ越す必要はなくなった。いままでと同じようにシャンブル・ドットを続けられるし、何か新しいことを始めたって構わない。もう、あの男に気がねする必要はないんだ」  ルイスが大きく頷くと、より一層わからない、という風にサンドラは首を振る。 「どうして」 「あんたたちには恩を感じてる。俺は俺のやり方でそれを返す。ただ、それだけだ。自慢じゃないが、金だけは持ってるんでな」 「そんな、私たちは何もしていないわ。それにあなただって、この家のことを手伝ってくれたじゃない。子どもたちの面倒だってみてくれて」 「素性も知れない異国の男をタダで三週間も寝泊まりさせてくれたんだ。感謝してるよ。美味い食事に、清潔な寝床。充分に提供させてもらった。最初はな、それこそとんでもない田舎に来ちまったと思ったが。なかなか刺激的で、楽しかった」  ルイスが彼らに貰ったものはあまりにも多すぎて、どうしたら返せるのか、ずっと考えていた。自分には金しかない。けれど、きっと宿代もまともに受け取ってもらえないに違いない。  この家の購入については、サンドラの話を聞いてから漠然と考えていたことだった。そしてさきほどカマルグでレオナールの言葉を聞いて、密やかに決意を固めた。  まさかこんなに早く、しかも彼らの目の前でやり取りをすることになろうとは思ってもいなかったが。 「俺が勝手にやったことだ。だからあんた達が気に病む必要は全くない。今まで通りここに住んで、この家を管理してほしい。俺がいつここに帰って来ても、快適であるように。この家がなくなっちまったら、俺はどこで寝ればいい?」  野宿はご免だと、冗談めかしてそう言うと、ようやくサンドラは美しい微笑みを見せてくれた。 「ええ。それなら、任せてちょうだい」  サンドラの隣に立つレオナールは、何も言わずにただ黙ってルイスを見つめている。ルイスはレオナールに向けて、悪戯っぽく笑ってみせた。 「あー、なんだ。とりあえず。これからも家族みんなで、仲良く幸せに。俺が言いたいのは以上だ。オーケイ? な、レオ?」  名を呼ぶと、レオナールはふにゃり、と泣きそうに顔を歪めた。 「ルイス」  いつもは歌を口ずさむように、軽やかに聴こえるその声が、儚く揺れる。  近寄って来たレオナールが、ルイスを抱きしめる。背に回された両腕に、ぎゅっと力が籠められて、少し苦しいくらいだ。 「レ、……おい?」  広い胸は、あたたかくて甘い菓子の匂いがする。首筋に髪の毛が当たって少しくすぐったい。  同時に、ルイスの胸の中に、じんわりとあたたかなものが満ちてゆく。 「ルイス…………ありがとう」  肩を震わせるレオナールの、涙混じりの小さな声が、耳元に落ちた。  あたたかな滴が、ルイスの肩を濡らしてゆく。  泣かせてしまったことを可哀想に思いつつも、自分の思いが正しく彼に伝わったことが嬉しかった。  仕方ないな、と大げさにため息をついたのはわざとだ。大きな子どもをあやすように、彼の柔らかい髪の毛をそっと撫でると、嗚咽が大きくなった。  視線の先で、サンドラも目に涙を溜めている。  レオナールが泣き止むまで、かなり時間がかかった。  恐々と様子を見に来た双子たちは、彼につられて泣き出してしまった。  帰って来たマティスも、事情を説明すると大号泣して、ルイスは潰されるかと思うくらいきつく抱きしめられることになった。  泣き顔がみんなそっくりで、やっぱり家族じゃないか、とルイスは思った。
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