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10月2日
夜風に揺れる暖簾に誘われるまま、夜食を決めた。
「いらっしゃい」
大人になって知ったこと、その一。肌寒い日に入る屋台の醍醐味。
「おお、兄ちゃん。久しぶり」
「どうも」
「ブチョーさん、元気にしてる?」
「春に転勤したので、わかりません」
「そうかそうか」
わかってねえなあ、ぼっちゃん。
豪快な笑い声が、脳内で響く。仕事の時には嘲笑うように吐かれる台詞が悔しくてならなかったが、仕事を離れると明るく肩を叩いてねぎらってくれる人だった。
「いつものでいい?」
「はい」
お前、真夏にラーメン食うときはクーラー効かせるだろ?それと一緒よ。しかも、おやじさんは客のことをずっと覚えてくれてんだ。この季節だけの付き合いってやつな。ロマンを感じないか。
ロマンはわからない。しかしとんこつラーメンはこの季節・この屋台でしか食べなくなった。
「すみません。とんこつラーメンひとつ」
「はいよ」
右隣に腰を下ろしたのは、酒と化粧の臭いをさせた女だった。着ていたのは秋物のトレンチコートだったが、声に聞き覚えがあった。
そうか、あの店の。
大人になって知ったこと、その二。女性のいる店の楽しみ方。
「お待たせ」
いいか。こういう店で問われるのは、客としての品格だ。可愛い女の子におだてられるまま、気持ちよく酒を飲む。気持ちよく女の子におだててもらう。それ以上でも、以下でもいけねえ。
割り箸に手を伸ばすついでに、横顔を盗み見る。目が赤く腫れ上がっていて、痛々しい。
あの子、惚れっぽくてすぐお客さんに入れ揚げちゃうのよ。お兄さんみたいな優男がタイプだから、ねだったら時計くらい買ってくれるかもよ。
「くだらん」
夜の騒々しさが引いていく街中。思わず零れた呟きは、掻き消されることなく宙を漂う。
気まずさを感じる間もなかった。
「ごちそうさま!」
カウンターに叩きつけるように箸を置いて、女は暖簾をくぐってしまった。
「...兄ちゃん、2人分」
スープの中には、中身がほとんど残っている。
チャーシューだけ食いやがったな、あの女。
渋々ポケットから財布を取り出す。秋の温度をした風が、確かに体を冷やしにきた。
大人になって知ったこと、その三。どんなときでも男が悪くなる。
とんこつラーメンの日
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