14人が本棚に入れています
本棚に追加
94番 参議雅経
み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
ふるさとさむく 衣打つなり
《歌意》
吉野の山から秋風が吹き、夜は更けゆき、
寒々とした古い都に、衣を打つ砧の音が聞こえてくる
参議雅経は、藤原雅経のことです。参議は官名で、朝政の政策に携わる要職だそうです。有能な人が任じられるポジションで、今でいうと、官僚クラスの役職になるでしょうか。
そして雅経は、「和歌」と「蹴鞠」の歌鞠二道を柱とする、飛鳥井家の始祖でもあります。(*蹴鞠については、後述します。)
さて、歌についてですが、元歌(本歌)は坂上是即の「み吉野の山の白雪つもるらし ふるさと寒くなりまさるなり」という冬の歌です。
雅経は、白雪を風や砧の音に変えて、秋の歌に変えています。
吉野(奈良)の「ふるさと」とは、「生まれ故郷」ではなくて「古い都の跡」を指します。
天皇がいるところは都になるので、天皇の別荘、離宮があった吉野は「古い都」なのです。
「衣打つ」は、「砧を打つ(音が聞こえてくる)」という意味です。
砧とは、台の上に布をのせて木槌で叩いて、やわらかくしたりつやを出したりすることです。
秋の風情を伝えるアイテムの一つとして歌に詠まれます。
かつての都はなくなり、ただ、風と砧の音だけが響いてくる秋の寒い夜更け…寂寥感に満ちた歌です。
前回93番の、実朝の鎌倉の海は、視覚に訴えかけてくる歌でした。
そして94番の、雅経の吉野のふるさとは、聴覚に訴えかけてくる歌です。
93番の、寄せては返す波に、繰り返す自然と人の営みがいつまでも変わらずにあれ、という願いもむなしく、94番は、なくなってしまった都への寂寞たる思いが詠まれています。
視覚聴覚の対比、永遠への願いと滅びゆく世の現実…実朝と雅経の歌を対で鑑賞すると、味わいが深くなります。
というのも、定家は、百人一首の歌を基本的には前後の歌をペアにして、歌人たちの関係性や歌の広がり・流れを作るように配置しているようなのです。
もう少し、雅経について書いてみます。
雅経の父は、源頼朝の弟、源義経と親しかったそうです。
ところが、「頼朝VS義経」の兄弟対決の際、雅経父は流罪となり、雅経も鎌倉に飛ばされてしまいます。
親子で憂き目に遭いつつも、雅経は、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも仲が良かったそうです。
そして、鎌倉幕府から重んじられ、政所別当である大江広元の娘を正室に迎えました。(ちなみに大江広元は、ドラマの鎌倉殿に登場します。)
雅経は、建久8年(1197年)に頼朝から罪を許されて帰京した後は、後鳥羽上皇(彼は99番目の歌人です。)の近臣として重用され、承久2年(1220年)に参議に任命されました。
また、後鳥羽院歌壇でも活躍しており、本歌取りが得意でした。
本歌取りとは、有名な古い歌の表現を取り入れて歌を作ることです。
今風に俗っぽく言うと、元歌の一部をパクッて歌を作ることですが、これは、元歌を知っていなければできない作歌方法なので、使いこなすためには、かなり多くの古の歌を知る(暗記する)必要があったことでしょう。
冒頭の雅経の歌も本歌取りです。
彼は本歌取りのテクニシャンだったので、元歌よりもさらに高度でセンスのある歌にしてしまいました。
雅経は、平安時代のサッカー(?)蹴鞠も得意で、後鳥羽上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられました…やれめでたや。
長者というと、日本昔話に出てきそうなイメージですが、名人のことでしょうね。
ちなみに、蹴鞠には、鹿のなめし皮で作った鞠を使います。
直径19センチ前後、重さは100~110グラム、サッカーボールより一回り小さく、重さは4分の1だそうです。
複数人(6人または8人)で、この鞠を落とさないように蹴りあいます。
現代でも保存・普及活動が行われていて、蹴鞠保存会の上田理事長さんによりますと、
「蹴鞠は世界でも珍しい勝ち負けのない球技」で、「誰が蹴るかを瞬時に判断し、各人のクセや好みを把握し合い、思いやりを持って優雅に蹴る。まさに『和をもって貴しとなす』。日本古来の精神を現在に見事に伝えるのが蹴鞠なのです」
そんな「本歌取り名人」で「蹴鞠長者」な雅経は、京都に戻ってからも鎌倉幕府の招きによって鎌倉に度々下向し、実朝と定家の間を取り持ちました。
実朝と定家の和歌のキューピッド役をしたのは、雅経だったのです。
それでは、次回は、天台宗最高責任者にして最高位の僧だった慈円の歌を投稿したいと思っています。
最初のコメントを投稿しよう!