94番 参議雅経

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94番 参議雅経

み吉野の 山の秋風 さ()ふけて ふるさとさむく (ころも)打つなり 《歌意》 吉野の山から秋風が吹き、夜は更けゆき、 寒々とした古い都に、衣を打つ砧の音が聞こえてくる 参議雅経は、藤原(ふじわらの)雅経(まさつね)のことです。参議(さんぎ)は官名で、朝政の政策に携わる要職だそうです。有能な人が任じられるポジションで、今でいうと、官僚クラスの役職になるでしょうか。 そして雅経は、「和歌」と「蹴鞠(けまり)」の歌鞠二道を柱とする、飛鳥井家の始祖でもあります。(*蹴鞠については、後述します。) さて、歌についてですが、元歌(本歌)は坂上(さかのうえの)是即(これのり)の「み吉野の山の白雪つもるらし ふるさと寒くなりまさるなり」という冬の歌です。 雅経は、白雪を風や砧の音に変えて、秋の歌に変えています。 吉野(奈良)の「ふるさと」とは、「生まれ故郷」ではなくて「古い都の跡」を指します。 天皇がいるところは都になるので、天皇の別荘、離宮があった吉野は「古い都」なのです。 「衣打つ」は、「(きぬた)を打つ(音が聞こえてくる)」という意味です。 砧とは、台の上に布をのせて木槌で叩いて、やわらかくしたりつやを出したりすることです。 秋の風情を伝えるアイテムの一つとして歌に詠まれます。 かつての都はなくなり、ただ、風と砧の音だけが響いてくる秋の寒い夜更け…寂寥感に満ちた歌です。 前回93番の、実朝の鎌倉の海は、視覚に訴えかけてくる歌でした。 そして94番の、雅経の吉野のふるさとは、聴覚に訴えかけてくる歌です。 93番の、寄せては返す波に、繰り返す自然と人の営みがいつまでも変わらずにあれ、という願いもむなしく、94番は、なくなってしまった都への寂寞たる思いが詠まれています。 視覚聴覚の対比、永遠への願いと滅びゆく世の現実…実朝と雅経の歌を対で鑑賞すると、味わいが深くなります。 というのも、定家は、百人一首の歌を基本的には前後の歌をペアにして、歌人たちの関係性や歌の広がり・流れを作るように配置しているようなのです。 もう少し、雅経について書いてみます。 雅経の父は、源頼朝の弟、源義経と親しかったそうです。 ところが、「頼朝VS義経」の兄弟対決の際、雅経父は流罪となり、雅経も鎌倉に飛ばされてしまいます。 親子で憂き目に遭いつつも、雅経は、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも仲が良かったそうです。 そして、鎌倉幕府から重んじられ、政所別当である大江広元の娘を正室に迎えました。(ちなみに大江広元は、ドラマの鎌倉殿に登場します。) 雅経は、建久8年(1197年)に頼朝から罪を許されて帰京した後は、後鳥羽上皇(彼は99番目の歌人です。)の近臣として重用され、承久2年(1220年)に参議に任命されました。 また、後鳥羽院歌壇でも活躍しており、本歌取(ほんかど)りが得意でした。 本歌取りとは、有名な古い歌の表現を取り入れて歌を作ることです。 今風に俗っぽく言うと、元歌の一部をパクッて歌を作ることですが、これは、元歌を知っていなければできない作歌方法なので、使いこなすためには、かなり多くの(いにしえ)の歌を知る(暗記する)必要があったことでしょう。 冒頭の雅経の歌も本歌取りです。 彼は本歌取りのテクニシャンだったので、元歌よりもさらに高度でセンスのある歌にしてしまいました。 雅経は、平安時代のサッカー(?)蹴鞠(けまり)も得意で、後鳥羽上皇から「蹴鞠長者(けまりちょうじゃ)」の称号を与えられました…やれめでたや。 長者というと、日本昔話に出てきそうなイメージですが、名人のことでしょうね。 ちなみに、蹴鞠には、鹿のなめし皮で作った鞠を使います。 直径19センチ前後、重さは100~110グラム、サッカーボールより一回り小さく、重さは4分の1だそうです。 複数人(6人または8人)で、この鞠を落とさないように蹴りあいます。 現代でも保存・普及活動が行われていて、蹴鞠保存会の上田理事長さんによりますと、 「蹴鞠は世界でも珍しい勝ち負けのない球技」で、「誰が蹴るかを瞬時に判断し、各人のクセや好みを把握し合い、思いやりを持って優雅に蹴る。まさに『和をもって貴しとなす』。日本古来の精神を現在に見事に伝えるのが蹴鞠なのです」 そんな「本歌取り名人」で「蹴鞠長者」な雅経は、京都に戻ってからも鎌倉幕府の招きによって鎌倉に度々下向し、実朝と定家の間を取り持ちました。 実朝と定家の和歌のキューピッド役をしたのは、雅経だったのです。 それでは、次回は、天台宗最高責任者(C E O)にして最高位の僧だった慈円(じえん)の歌を投稿したいと思っています。
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