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プロポーズ
僕がその森を訪れたのは、死ぬためだった。
森は鬱蒼としていて、昼間なのに薄暗い。
湿度が高く、空気も悪い。
魔物が住んでいそうな雰囲気だ。
僕は死ぬのが怖くなった。
自殺の名所だと聞いて来たけど、恐ろしくて、ちゃんと死ねる気がしない。
ここまで来て、死ぬなら美しくて、楽しい場所が良いなと思った。
死のうと思った理由は、医者から余命2年だと言われたことにある。
若いと病気の進行は早いらしい。
苦しいんだろうな。辛いんだろうな。
死に際のことを想像して、たまらなくなった。
死んだときは親や兄弟、友達にも迷惑をかける。
それならば、誰にも見つからず、ひっそりと死のうと思った。
遺書は置いてきた。感謝の言葉とこれからのこと、死ぬ理由もできるだけ詳しく書いた。僕の意志を尊重してくれるといいけれど。
でも、自殺も怖くなった。
周囲を歩き回ると、木漏れ日が差す泉を見つけた。
水が澄んでいて、清らかだ。
写真を撮ろうとスマホを手に持ったとき、スルッと滑って泉へ真っ逆さまに落ちた。
やばい。頭が真っ白になる。
自分で初めて購入したスマホだから、大切に使っていたのに。
その時、水面が泡立った。
こんなに激しく泡立つなんておかしい。
不安に思っていると、水面に大きな影ができた。
次の瞬間、姿を現したのは美しい女神。
僕は一瞬で心を奪われた。
全身に水が流れているのに、彼女は人間のような姿をしている。
切れ長の瞳に長いまつげ、鼻筋が通っていて輪郭が細い。髪はストレートで長く、キトンの腰くらいまである。
言うなれば、氷の彫刻のような。まるで芸術品だ。
「あなたが落としたのは金のすまほですか?それとも、銀のすまほですか?」
話しかけられて、ようやく頭が働き始めた。
「あ、スマホ!スマホですよね。落としたのは、普通のスマホなんですけど。えっと、緑のカバーがついた。」
自分でも何を言っているのか分からなくて、顔が熱くなる。
なんとか身振り手振りでスマホの形を作ったらちゃんと伝わったようだ。
「正直者のあなたには普通のすまほを返しましょう。」
女神は嬉しそうに笑った。
「あ、ありがとうございます。」
女神から自分のスマホを受け取って、まず電源を入れた。けど、入らなかった。水没して、データも消えてしまったのだろう。
「どうかしましたか」
女神は心配そうに僕を見つめている。
「スマホの電源が入らなくて。帰る道がわからないんです。」
「方位磁針は持っていますか。」
親切にも、女神は森の出口を教えてくれた。
スマホが圏外になったときのことを考えて方位磁針を持ってきて良かった。
「また、来ます」
女神は何も答えなかったが、微笑んでくれた。
多分、ここに来た目的を見透かされていたと思う。
僕には生きる意味ができた。
それから毎日、僕は泉へ通った。女神に会うために。
僕がペンダントを投げ入れたことを合図に、彼女が浮き上がってきて二人で話をした。彼女自身のこともたくさん知れた。
まず、彼女は女神ではなく、精霊らしい。
人に大切にされてきたものには心が宿る。
聖なる泉として、人に守られてきたイズミは、精霊となって人を見守っている。
見守っていると言っても、魔法のような特別な力はない。ただ、優しい人には泉に落としてしまったものを返すことにしているそうだ。
また、彼女は水で出来ているから、彼女に触れることはできない。彼女も、ものに触れたり、泉から出たりすることはできない。
唯一、誰かが泉に落としたものには触れることができるらしい。
僕が毎日来るのは迷惑かと思ったけど、しばらく人が来なくて寂しかった、とイズミは言った。時間を巻き戻せるなら、真っ先にここに来よう。そんなことができない僕は二人の時間を大切に過ごした。
春に咲いた青い花はイズミのイメージにぴったりで、僕は忘れることはないだろう。初めて見たホタルは幻想的で、夏の一番の思い出になった。秋は僕が落ち葉の上に寝そべって、二人で笑い合った。冬は時間が止まったみたいと言うから、本当に止まれば良いなと僕は思った。
イズミと話すうち、イズミに抱いている感情が恋心であることに僕は気づいている。
一年半が過ぎた頃、僕は彼女に告白した。
愛しているという気持ちとこの先もここにいたいという想いを伝えた。
イズミの返事は、イエス。ではなく、ノー。
人間としての幸せを見つけてほしいとイズミは言った。
しかし、イズミも同じ気持ちであることに僕は気づいている。顔を見れば分かる。
イズミは嘘をつけないから。
だからといって、これ以上想いを伝えたところでイズミの気持ちが変わる気がしない。彼女を困らせて、嫌われる方が嫌だ。
その日は帰ることにした。
精霊と人間は結ばれることはないし、触れ合うこともできない。
だからこそ、何か形になるような、思い出に残るようなことがしたい。
例えば、プロポーズとか結婚式とか。
単なる思いつきだったけど、良いんじゃないだろうか。プロポーズ。
指輪は用意したいなと考えて、求人ページを漁った。
イズミに会える日のことを考えると、不思議と力が湧いてきた。
できる限り働いて、気がつけば、目標金額を達成したときには半年が経っていた。
余命はすでに過ぎている。
貯めたお金で指輪を買って、森の中の泉へ急ぐ。
感謝の気持ちとこれからのこと、精一杯の愛を込めた手紙も書いた。
どんな顔をするかな。
喜ぶ顔、嬉しい顔、怒った顔、困った顔。
一年半を共に過ごしてきて、精霊にも色々な感情があることを知ったけれど、やっぱりイズミは明るい笑顔が似合う。
だから、悲しい顔はさせたくない。
一度目の告白は断られている。
もし、駄目だったら。
その不安はずっとある。
もし、断られたら、おとなしく家に帰ろう。きっぱり諦めて、サヨナラを告げよう。
だけど、僕はイズミに会ったときに決めていた。
ここを最期の場所にするってこと。
だって、美しくて、楽しい場所だから。
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