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花魁刃物沙汰
己はよお、どうやら江戸の遊び人の風体でさあ、人混みの中を長どす振りかざした花魁に追い詰められてひとつ突きぶすりとやられる、おんなじ夢をガキの頃から何度も見るんだ、それも色の着いてねえ白黒のよお
猪口の酒をぐいっと干して男はそう言ったのでございます。このうだつの上がらぬ会社勤めの男遠野と申しますのは東北の田舎から集団就職で東京に出て来た者でございます。家が寺で坊主になるのが嫌で半ば逃げるように故郷を出て来たのだと聞かされておりました。我々同僚はこの遠野という男を陰では摩利信乃法師と呼んでおったのでございます。がどうやらこの遠野という男は學もないらしくその摩利信乃法師を知らぬらしく、ついうっかり遠野が後ろに居るのを気づかずに摩利信乃法師と噂話をしているのを聞かれたことがございましたが何を気に留めるでもなく
「寺の子故に法師とはよきあだ名だ」
と寧ろ喜んでさえおったのでございます。ご存知のない方があってはいけませんのでこの摩利信乃法師とは芥川龍之介の未完の作邪宗門に登場致します怪しげな僧侶のことでございます。私のような臆病者が万が一にも自害してこの世を去る折には
未完となっている邪宗門の結末を聞きに芥川龍之介の元へゆく
と遺書を書く腹づもりでございます。話しが逸れましたがその摩利信乃法師こと遠野の話しを勘定台の向こうの大将も横並びした同僚らもみな不思議なこともあるものだと真面目に聞いておったのでございます。
「前世かね」
勘定台の向こうの大将が俎やらを洗いながらこちらに目もくれずひと言そう申したのでございます。とみな一様に前世の記憶がどうだの、そもそも前世などあるものかと喧々諤々酒飲み特有の個々の大演説が始まったのでございます。が肝心の摩利信乃法師はと云えば話しには関わらずひとり手酌酒をしておったのでございます。が周りの大演説がひと段落つきますと徐に
「己も前世の記憶に違いないと思ってんだよ」
とぼそぼそと言ったのでございます。が前世では色男であったかはそれは誰も存じ上げませんがこの馬鈴薯の煮っころがしのような男が遊び人風情とはどうも想像が追いつかないのでございます。やがて大将が勘定台の脇から出てまいりまして暖簾を片し始めたものですからその場は解散と相成ったのでございます。
「今夜もその夢を見そうかね」
同僚のひとりが全く揶揄う様子もなく星空を眺めながら申したのでございます。
「さあな花魁次第じゃて」
摩利信乃法師は深くため息をついてとぼとぼとひとりだけみなと違う方へと帰って行ったのでございます。
花魁の恨みを買うとは唯の遊び人ではなかろうぞ摩利信乃法師よ
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