最愛。

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最愛。

こんなに愛せる人には、もう出逢えない。 6月19日。午後3時。 講義が終わり、 土砂降りの雨を避けて入った喫茶店で、 「すみません、混み合っているので 相席でお願いします」 とカウンターにいたマスターに言われ、 渋々座った席に彼がいた。 目が合った瞬間、恋に落ちた。 川瀬由貴と名乗った彼は、 同じ大学に通う現役の3年生だった。 「岸野葵です」 「素敵な名前だね」 「ありがとうございます」 由貴さんと呼んでもいいですかと 言葉を続けると、彼は微笑み頷いた。 「僕が一浪してなければ、同級生でしたね」 そう言いながら僕は、 チーズケーキのフォークを弄び、 なかなか食べられずにいた。 色素の薄い髪と瞳。 しなやかな身体のライン。 黒縁の眼鏡をかけた彼の眼差しに、 色気を見ていた。 「僕、今日誕生日なんです」 もっと一緒にいたい。 このままで終わりたくなくて、口にした。 「そうなんだ。おめでとう」 「由貴さん、この後は」 「ん?夕方からバイトがあるけど」 「そうなんですね」 「でも、せっかく縁ができたことだし、 連絡先交換しようか」 「ホントですか‥‥?」 彼の繊細な指先が、スマホの画面に触れる。 「LINEで良ければ」 「はい」 僅かな手の震えを抑えながら、 彼が出したLINEのQRコードをスマホで 読み取った。 「ありがとうございます」 「岸野くんはお酒飲める?もし良ければ、 近いうちに飲もうよ」 「はい、ぜひ」 「じゃあそろそろ、時間だから。またね」 伝票を持って、彼が立ち上がった。 「また」 名残惜しくて、ぎこちなく微笑んだ。 彼が去った後、 残されたコーヒーカップを見つめた。 一目で惹かれた彼に、もう逢いたくなった。 「岸野葵」 翌朝いちばんの講義が始まる直前。 教室に入ってきた同級生、佐橋雄大に 声をかけられた。 友達のいない僕とは違い、 明るく華やかな雰囲気で友達の多い佐橋が 話しかけてくるのは、初めてだった。 「何」 「3年の川瀬さんと、昨日会った?」 「あ、うん」 そう返事をすると、 佐橋は僕の耳元に顔を寄せて囁いた。 「彼氏にちょっかい、出さないでね」 「えっ」 「じゃあね」 佐橋は踵を返し、 振り返りもせずに教室を出て行った。 とんでもないことを聞いてしまった。 まさか、佐橋が彼と付き合ってるなんて。 気落ちする反面、 あれだけ魅力的な彼に 恋人がいない訳がないとも思った。 彼に一目惚れして、僅か1日。 こうして僕はあっさり、恋に破れた。 はずだった。 その夜。 バイトが終わり、スマホを開くと、 彼からLINEが届いていた。 『佐橋から今朝のこと聞いた。 気分を悪くさせて、ごめんね』 『いえ。大丈夫です』 これで終わりになると思っていたが。 数分後、また彼からLINEが届いた。 『岸野くんに、話したいことがある』 彼の意外な言葉に首を傾げながら、 LINEの文字を打った。 『何ですか』 『明日、どんな予定?』 『午後に一コマだけ講義を受けたら、 あとは暇です』 『僕は明日、受ける講義がないから、 15時に駅で待ち合わせしない?』 彼に逢えると喜べたのは、一瞬だけ。 佐橋の顔を思い浮かべて、不安に囚われる。 しばらく考えてから、指先を動かした。 『佐橋が、怖いんですが』 僕が彼に片想いしていることを 佐橋は知らないはずなのに、 彼氏に近づく存在には徹底的に釘を刺す。 そんなことをしてくる佐橋をわざわざ 敵に回すような真似はしたくなかった。 僕の返信に、彼からの連絡は止まった。 彼から話があると言われ、 彼に逢えるなら逢いたかったし、 話を聞きたいのはやまやまだったが、 佐橋をあしらう程の能力は僕にはない。 特定の相手がいる人には、 最初から近づかない。 後ろ髪を引かれる思いだったが、 彼に誘われたことだけを喜ぶことにした。 でも、もうこの時点で手遅れだった。 彼と佐橋の関係の中に、 良くも悪くも僕が強く絡んでいたのだ。 翌日。午後の講義が終わり、 教室で帰る準備をしていた僕は、 彼が教室に入ってきたのに気づき、驚いた。 「岸野くん、行くよ」 リュックに無造作に僕の荷物を詰めた彼は、 強引に手首を掴んできた。 「えっ、待って」 そのまま彼に引きずられるように 教室を出る羽目になり、頭が混乱した。 もしこんなところを佐橋に見られたら、 洒落にならないと思った。 「由貴さん、ヤバいですって」 外に出ても、彼の勢いは止まらない。 敷地内の駐車場のある一角まで 引っ張ってこられ、 やっと彼に手首を離された。 「早く乗って。これなら大丈夫でしょ」 この人意外とワンマンだと戸惑いながらも、 仕方なく目の前の車の助手席に乗り込んだ。 どこに向かっているんだろう。 大学を出て、20分。 車は僕の知らない道を走り続けていた。 運転席の彼は、さっきから黙ったままだ。 僕は不安になって、彼に声をかけた。 「由貴さん」 とはいえ、それ以上言葉が続かなかった。 再び沈黙に包まれた車内に、 やがて彼の言葉が響いた。 「岸野くん、ごめんね」 「えっ」 「キミを巻き込んでしまった」 「あ、はい‥‥」 「佐橋が何て、言ったか知らないけど。 僕と佐橋は、もう終わってる」 「終わってる?」 「うん。この後、話すよ」 車はあるマンションの駐車場で止まった。 彼のひとり暮らしの部屋に、 緊張しながら足を踏み入れた。 1人で過ごすには、広すぎるリビング。 リビングの奥にあるドアの中はたぶん寝室。 白を基調として、チリひとつ落ちていない。 「コーヒー、淹れるよ」 キッチンに立った彼に、 リビングのソファで待っていてくれと 案内されていた。 佐橋のことがなければ、 天にも昇る気持ちでいられたのに。 「‥‥お話とは」 彼とソファに並んで座り、 淹れてもらったコーヒーを飲みながら、 彼の言葉を待った。 「佐橋とは昨年春に付き合い始めたけど、 ケンカばかりで秋には別れたんだ。 佐橋がキミに釘を刺してきたのは、 僕がキミと知り合えたと知ったからだと 思う」 「佐橋がどうして、僕と由貴さんが 知り合ったことを知ったんですか」 「おととい、佐橋からLINEが来た。 喫茶店に入った僕を追いかけて入口の陰で 待っていたら、キミが入って行ったのを 見たって」 「それだけじゃ、中で関わったかも わからないじゃないですか」 「岸野くんは、僕と会ったのはあの日が 初めてだと思ってる?」 「え?」 「僕は、キミが入学する前から知ってた」 「えっ」 「大学受験のために、塾に行ったでしょ。 Uっていう塾。僕たち高3の冬に会ってる」 「嘘ですよね」 こんなに目を惹く人に、 僕は気づかなかったというのか。 「志望校に学部まで一緒だって知って 楽しみにしてたんだけど、キミは大学に 落ちてしまった‥‥まさか、一浪して この大学を受けているとは思わなくて。 諦めかけてた春に、佐橋に告白された。 好きな人がいてもいいからって言われて、 付き合い始めた。でも、夏休み前に 学食でキミを見かけて‥‥」 「ちょっと待ってください、由貴さん。 話が見えないです」 「佐橋と別れたのは、キミに再会した からだよ」 「えっと、つまりそれって」 「キミのことが好きだ。ずっと前から」 やっぱり。 でも、信じられない。 彼が僕のことを好き?! 呆然とする僕の右手を握りながら、 彼は更に言葉を続けた。 「もう佐橋は、関係ない。 岸野くんに迷惑をかけてしまうかも 知れないけど、僕はキミが好きなんだ」 「迷惑だなんて、そんな」 彼が強引になってでも話したかったことが 僕への告白だったことが嬉しくて、 慌てて首を振った。 何と話し出せば、彼に僕の気持ちが伝わる? 握られた手を握り返しながら、息を吐いた。 「あのっ」 思いが溢れるあまり、言葉が途切れた。 彼が僕をまっすぐ見つめている。 僕の言葉を待つ、 切ないくらいの彼の眼差しに目が眩んだ。 僕は震えを隠さずに、口を開いた。 「佐橋と付き合っていると聞いて、 由貴さんを諦めようとしました‥‥ でもそうじゃないのなら、 僕と付き合って欲しいです‥‥」 「岸野くん」 今度は、彼が動揺しているのがわかった。 「岸野くんも、僕を好きだったなんて。 ホントに?嘘じゃないよね」 そう言いながら彼の口を押さえる手が 震えているのを見た僕は、 彼が愛しくてたまらなくなり、 彼に向かって腕を伸ばした。 「好き、です」 彼の首筋に両腕を回し囁いたら、 彼も僕の背中に腕を回してきた。 間もなく、彼の唇が僕の唇を静かに塞いだ。 彼と抱き合い、深いキスをしながら、 まつ毛が触れ合う距離の近さに 今更ながらドキドキし始めていた。 佐橋のリサーチ能力は、半端なかった。 僕と彼が思いを確かめ合った翌日の朝。 講義に合わせ、自宅の最寄駅に足を運ぶと、 改札の前に佐橋が立っていた。 予想だにしないことに怯んだ僕は、 佐橋と一瞬目が合い、後退りしたが。 「岸野葵っ」 結局、噛みつかれそうな勢いで、 こちらに向かってきた佐橋に捕まった。 「ちょっかい出すなって言っただろっ」 「もう、別れたんでしょ?」 「僕は認めてない。何故、お前なんだよ」 「し、知らないよ‥‥」 柱の陰で男子2人が 言い争いをしていたのが珍しいのか、 行き交う人々が何事かと目をやってきた。 「ちょっとここじゃ、ヤバいって」 周りを見回しながら佐橋にそう言うと、 佐橋もそれに同意した。 「じゃあ、お前んち行こう」 「無理、今日落とせない講義が」 「それこそ無理」 ほらっ早く家に案内してと佐橋に言われ、 僕は溜息をついた。 トイレに立つ振りをして、 昨日帰る時に、 今日のこの時間は家にいると聞いていた彼に LINEで佐橋と自宅にいることを報告した。 「ちょっと、長くない?!」 佐橋にドアをノックされ、 慌ててトイレから出た僕は、 佐橋に誰もいないリビングに引きずられた。 「どうせ、由貴を呼ぶんでしょ」 「呼ばないよ。まだ自宅、知らないもん」 「どうだか」 佐橋はソファにどんと音を立てて座り、 僕を睨みつける。 「というか、お前じゃ話にならない。 由貴を呼んでよ」 「えっ」 スマホを確認すると、 既に彼からの着信が多数あった。 心配させるだけさせて放置じゃ悪いよなと、 佐橋に渋々頷きながら、彼に連絡を取った。 同じ市内に住む彼が タクシーで駆けつけてきたのは、20分後。 「自分の車で来れば良かったのに」 佐橋に話しかけられても まともに反応しない彼を見ながら、 一歩間違えると佐橋の立場が自分になるかも 知れないと思っていた。 「佐橋。僕とはもう別れたはずだよな」 「で?僕を捨てて、岸野に乗り換えるの」 「時期は被ってないだろ」 「ずっと好きだったんだよね?僕と付き合う 前から。僕と別れた理由は、何だっけ? いるはずのない岸野が、大学にいたから? 何、ファンタジーなこと言ってるの」 「佐橋」 「岸野も岸野だよ。僕の手垢がついた男と、 これから付き合うんだからさ」 「おい」 「というか、好きなだけ言わせてよ。 どうせ僕が何を言っても、由貴たちは 付き合うんだから」 「‥‥どうしたら、離れてくれるの」 佐橋に向かって、呟いた。 「由貴さん、困ってるじゃない? 好きなら好きな人の迷惑にならないように しないとダメじゃないかな」 「由貴さんねえ」 「佐橋、何が気に食わない?」 「全部に決まってるじゃん!あー腹が立つ」 「だからって、岸野くんにまで迷惑かける のは違くないか」 「由貴と寄りを戻せるなら、どんなことでも するよ」 これは長丁場になると思った。 でも仕方ない、 佐橋も僕と同じく彼を愛する人だ。 無碍にはできない。 「佐橋。訊いてもいいかな」 「何だよ、岸野」 「由貴さんのどんなところが好き?」 「愚問だな。お前こそ、何が好きなんだよ」 「僕はもう全部だよ。たとえ、だらしない ところやズルいところを見せられてもね。 場合によっては指摘するかも知れないけど、 愛していける自信がある」 「僕だってそうだよ。初めてこんなに人を 好きになったんだ。大切にしたかったよ」 「その割には、ケンカばかりだったけどね」 「由貴が悪いんだよ。岸野が大学にいるって 知ってから、今日は岸野に会えた嬉しいって やたらと言うから」 「‥‥由貴さん、それはいくらなんでも」 佐橋がかわいそうになり、彼に苦笑いした。 「佐橋には、僕に好きな人がいてもいいって 言ってたから、つい」 「由貴はズルいんだよ。僕は所詮代役で、 岸野みたいな本命が現れたら、あっさり 乗り換えるんだから」 佐橋の言葉を聞きながら、 さっきまでの勢いがなくなっていることに 気づいていた。 「僕を抱いた由貴は、それを忘れて近いうちに岸野を抱くんでしょ?それも許せない」 「「‥‥仕方ないよね」」 彼と同じ言葉を発して、笑ってしまった。 「岸野。今、由貴と運命を感じたでしょ」 「それこそ、ファンタジーだよね」 「何だよ、何かムカつく」 「あはは」 「ねえ。岸野の何が良くて好きになったの」 佐橋が彼に訊いた。 「本人にも言ってない、恥ずかしいことを この場で言わせる?」 「僕には、聞く権利がある」 「恥ずかしいことって、何?」 僕が彼に尋ねると、彼は僅かにテレた。 「聞きたい?」 「はい、ぜひ」 「岸野くんと塾で同じクラスになって、 席は自由だったけどなるべく近くに 座りたくて、よく後ろを選んでた。 ある日の授業は後ろの席が空いてなくて、 岸野くんのすぐ前の席しか空いてなかった。 うわ、恥ずかしいなあって思いながら、 席に向かって歩いてたら、誰かの足に 引っかかって、転びかけたんだ。 その時、心配してくれたのが岸野くん」 「え?大したことないじゃん」 「まだ話の続きがあってさ。聞いてよ。 授業が始まって、シャーペンの調子が悪くて 芯が出なくなった時に、軽く振ったんだよ。 そしたらシャーペンが手から抜けて、 岸野くんの机に落ちた。 あやうく怪我させられるところだって 怒るところを、岸野くんは優しく手渡して くれてさ」 「‥‥思い出した。あの人が由貴さん?」 「そうそう。あれから恥ずかしくて、 ずっと後ろの席を復活させちゃったけど。 岸野くんて、優しさが自然なんだよね」 微笑む彼に、佐橋がムッとした。 「見事にノロケを聞かされたんですけど」 「だって、岸野くんの好きなところでしょ」 そういう話になるに決まってるじゃんと、 彼は笑った。 僕が好きになる前から、 彼は僕のことを好きでいてくれたんだ。 僕は密かに、感激していた。 佐橋には悪いが、 何があっても彼を手放したくないと思った。 「あーあ。もういいや」 言いながら、佐橋が溜息をついた。 「由貴が大好きだったけど、岸野にあげる。 僕が入り込む隙間なんて、どこにもない」 次の講義、間に合うかなあと立ち上がった。 「もう邪魔しないから。じゃあね」 カバンを持ち、リビングのドアを開けた 佐橋に彼が声をかけた。 「佐橋、ありがとう」 「はいはい」 最後まで僕のこと名前で呼ばなかったねと、 佐橋は言って、ドアを閉めて出て行った。 佐橋の言葉で、リビングに切なさが残った。 ソファとカウチにそれぞれ座っていたが、 同じタイミングで立ち上がった。 「由貴さん。今日、講義は?」 「あるよ。あと1時間で始まる」 腕時計を見ながら、彼は言った。 「岸野くんも、一緒に行こう」 「はい。でも今出たら、佐橋と一緒に なっちゃうんで」 「せっかく気を遣って先に出てくれたのに、 また会ったってことにならないように」 じゃあもう少しだけ、と、 僕の顎に触れながら微笑んでいる 彼のキスを受け入れた。
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