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「黒岩さんも、白澤作品好きだよね」
「はい。大好きです」
「うふっ」
急に口元を覆い姫宮さんが笑うので、何か変なことを言ってしまったのか不安になってくる。
「いや、ごめん。真顔の大好きが効いて」
「そうですか」
こうなるともうダメだ。
彼の言葉が耳に入らず会話に集中できない。
冷や汗が止まらない。
顔が強張ってうまく笑えない。
「黒岩さん、お願いがあるんだけど」
「はい」
お腹痛くなってきた。
もう帰りたい。
「俺が次のおかわりを10秒以内に飲み干したら、デートしてくんない?」
「はい。……はい?」
突然周囲から悲鳴と笑いが起きて我に返った。
今なんと?
目の前の姫宮さんは、目を輝かせてビールを追加注文している。
「おい、姫宮悪ノリやめろよ」
先輩社員の苦言にギクリと胸が痛んだ。
悪ノリ。
凄く苦手な言葉。
「悪ノリじゃないっすよ。俺、本気で」
「だったら俺もやる」
「俺も」
他の男性社員までニヤニヤと挙手し始め、ハッキリ言って不快だった。
____『牛乳早飲み競争で勝ったら雪ちゃんとデートできる賞ねー』
なんでまた、思い出しちゃうの。
『お前早く飲めよ!』
『お前だって』
『だって勝ちたくないもん』
その時は気にも留めない振りして、心の奥底に蓋をしていた感情が、何故今になって蘇るの。
「外野はうるさいよ。俺、本気だから」
「そういうのやめてください」
気づいた時には勢いよく立ち上がり、呆然とする姫宮さんを睨みつけていた。
私の睨み、結構迫力あるでしょう。
よく言われます。
「すみません、お腹痛いんで帰ります」
嘘はついてない。
とりあえず千円札四枚を震えた手で財布から出しテーブルに置くと、しんと静まり返ったお座敷をあとにした。
……またやってしまった。
今日は悪態ばかりついてしまう日だ。
姫宮さん、私のこと助けてくれたのに。
どうしても昔のフラッシュバックに抗えない。
緩みそうになる涙腺をきつく引き締める。
今頃きっと、皆私の醜態をつまみに笑ってる。
どうして人は、いつだって悪役、蔑む相手を求めずにはいられないんだろう。
どうして誰かが悪でないと、落ち着かないんだろう。
「待って!黒岩さ……」
「……雪ちゃん?」
めちゃくちゃに掻き乱された心に染み渡る優しい声。
顔を上げた先には、今一番顔を見たかった人が立っていた。
「雪ちゃんも飲んでたの?……って、泣いてる?」
「王寺さん……」
この状況での王寺さん登場はまずい。
こんなの、泣かせる気満々じゃないですか神様。
防波堤が決壊したように涙が溢れた瞬間、右腕を力強く掴まれる。
「待ってよ、黒岩さん」
背後には、困った顔の姫宮さん。
今はまだ笑えもしない私の状況を察してくれたのか、王寺さんは私の左手を握った。
「ごめん、俺今日はパス」
一緒に来ていた男性達に声をかけ、王寺さんは入ったばかりの居酒屋から私を連れて駆け出す。
「黒岩さん、」
振りほどけた姫宮さんの手に振り返る余裕はなく、王寺さんの背中を黙って見つめていた。
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