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『出会い』
目が覚めると、微かな埃の匂いが鼻の奥をくすぐった。どうやら俺はどこかの建物の床に転がされているらしい。
ゆっくり目を開けて、首を回してみる。牢屋みたいなところに閉じ込められているのかと思ったが、どうも違う。何か調度品の足のようなものが見える。
『気がついたな』
頭の中に声が響いた。俺はうすらボケた頭と身体を叩き起こし、可能な限り早く立ち上がった。よし、最低限身体は動く。頭にも痛みはなく、取りあえず無事だ。
『身構えなくていい。君に危害を加える気は無い』
普通の声と違うから、どこから話しかけられているかわからない。
周囲を見回してみて、大きな机の向こうに座っている人物が俺の頭の中に語りかけているらしい、とわかった。女だが、さっきのやつとは違う。もっと歳上のようだ。
パツキンの結構……いや、かなりの美人である。
「俺、無理矢理ここに連れて来られたっぽいんだけど」
俺が言うと、女は黙って自分の口元を指差した。暫し考えて、口は開かなくて良い、というジェスチャーだとわかった。話は通っているようだ。
『無理矢理連れてこられたぞ』
もう一度、頭の中で繰り返すと、女は妙な表情で俺の顔を凝視した。
『? ここに来たのは意に添わないことだ、と言いたいのか? まあでもケガはないだろう?』
言われて俺は改めて自分の身体を確認してみる。どこも問題無く動くし、傷も無い。服も破れてない。丁寧に運ばれたみたいだった。
『まあ、そりゃそうみたいなんだけど……』
『ようこそ! 私のことはシャスと呼んでくれ。君を歓迎するぞ!』
女は大仰な仕草で立ち上がり、満面の笑みを浮かべる。とりあえず本当に害意はなさそうだ。
俺は困惑を隠さず、どうも、みたいなことを伝えた。挨拶しているということは向こうもわかったらしく、向こうも手を振って答える。
『まあ、そう固くならず安心してくれ。話し合いの結果、一応君の身の安全は保障されているのだ。今のところ』
『今のところ……』
シャスと名乗った女は、こちらの緊張をほぐそうとしているようだが、どうしても一抹の不安が残ってしまう。
『良ければ名前を聞かせてくれないか?』
俺が問われるままに自分の名前を思い浮かべると、女は急に真面目な顔になった。
『カツムラ・ケイゴ。勝村啓吾。ケイゴ・カツムラ……。なるほど、うん。興味深い』
俺の名前から何事か咀嚼しようとしている。
『俺の名前がどうかしたの?』
『いや、現在我々が把握している古代人の人名の中に君と似たものが無い。表記も。君は当時、他所の土地からここに……連れて来られたか、来たかした可能性があるな』
『あ、そのことなんだけどさあ。俺日本ってとこから来たんだけど』
『来た? どうやって?』
『それはわかんない。気付いたらいた、って感じ。で、その、帰りたいんだよ。元居たとこに。誰かさ、偉い感じの人に伝えてくんないかな』
『偉いとは?』
好奇心に満ちた爛々と輝く瞳で、シャスとかいう女は訊ねてきた。そう言われても俺も曖昧にしかわからないのだが。こういう場合どういう手続きを踏めばいいのか。
『こう……なんか責任のある仕事をしてる感じの。政府とかなんとかの』
シャスはしばらく、俺を瞬きもせずに見つめていた。
『……うん。今君が思い浮かべたものに、私はだいたい近い立場にいる』
『えっ! マジ?』
嘘は言ってないようだが、あまり偉そうに見えなかったので意外だったのだ。確かにこういう部屋を一人で使っているらしいので、ある程度の地位にはいるだろうと思っていたのだが。
『ここアーヘンの最高意思決定機関は評議会と呼ばれていて、それは五人の評議員で構成される議決機関であり、私はその五人の内の一人なのでかなり偉い』
『じゃあ話が早ぇや。どうにかして日本に帰してくれよ。頼む。えー、ジャパン。聞いたことない? スモウスシテンプラ富士山。な?』
シャスは目を閉じて、〝スモウ……スシ……〟と律儀に俺の言葉を繰り返している。
『何かの競技に……食べ物。それに地名……景勝地、山か。だいたいどんなものかはわかったが、私の知識の中には無いものだ。君の力にはなれそうにないな。すまない』
時間をかけた割にシャスは随分あっさり言った。
『あの悪ぃんだけど……。もうちょっとこう……物知ってる人っつうかさ。賢くて色々知ってる人いない? その人なら俺の言ってること分かるかもしれないし……』
俺の言葉を聞いたシャスは、えもいわれぬ哀愁のようなものを、その両の眼に湛えた。
『あ、いや、別にあんたをバカにしてるわけじゃねえんだよ。俺だって外国のことなんかほとんどわかんねえしさ。行ったこともねえし……』
『いや、それは気にしなくていい』
シャスは首を大きく横に振り嘆息する。
『君にとっては非常に残念な知らせになるが……君が今いる場所は学校であり、アーヘンには公的な教育機関はここしかない。そして私はここの学長だ』
『な、なに? なんて?』
『つまり、ここアーヘンで私以上に物を知っていて賢い人間はいないと言って良い、ということだ』
俺は絶句してしまった。
まあ、この女の言うことを丸呑みにしているわけでもないので、これから可能な限り自分で調べていくしかないが、どうも嘘を言っているような気がしない。気負っている感じも驕っている感じもないのだ。よほど演技が達者か、完全に気が狂っているなら話は別だが。
……どうもここは、余程辺鄙なところにある国らしい。日本に帰れるのは結構かかりそうだ。
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