堕ちた天使と人魚姫

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 波の音のように美しい歌声が、細く開いた窓からするりと流れ込んできた。  王子様は顔を上げた。  白い満月が夜の海をきらきらと照らしている。  先ほどまで談笑していた婚約者は、突然部屋を出ていった王子様に目を丸くした。 「君が歌っていたのか……?」  波間の岩に腰掛けた人魚の姿を見て、王子様は訊いた。  心を満たしていく優しい余韻と、微かな高揚。こんなにすばらしい歌声を聴いたのははじめてだった。 「こんばんは、王子様。今夜はお月様がとっても綺麗ね」  透き通った声でかろやかに笑う。  王子様はびっくりした顔で、けれどとても嬉しそうだ。 「もう人間の言葉を覚えたのかい?」 「ううん、あなたとお話したくてずっと練習していたの。わたし、海の中からずっとあなたを見つめていたのよ。格好よくて、いつも少し退屈そうにしてるから」  王子様は舞い上がって、人魚とたくさん話をした。  きっと彼女なら、僕を知らない世界へ連れ出してくれると思ったのだ。 「あなたは泳いだことがある?」 「いや……しばらく泳いでいないな。好きなんだけど、恥ずかしいことに上手く泳げないんだ」 「わたしと一緒なら大丈夫。海はとても広いから、誰もが自由になれるのよ。わたしの世界を案内してあげたいの」  人魚に誘われて、王子様はふらふらと海に入っていった。  手を繋いだまま、薄暗い海を泳いでいく。  海の底は冷たくて、けれどとても広くて静かだった。  小さな魚を見て王子様が微笑む。目が合った人魚はにっこりと微笑み返す。  月光に照らされたその笑みに見惚れていたら、少し息苦しくなってきた。  ゆらゆら揺れる水面を見上げた王子様の身体を、人魚が抱きしめた。  ──人魚は手を放さなかった。  王子様の呼吸が止まるまで。  そうして動かなくなった身体は水面に浮き上がり、天使のいる砂浜までゆらゆらと漂ってきた。  蒼白な顔をした天使は、再び王国へと泳いでいく人魚の後ろ姿を見て、すべてを理解した。  王子様を探して砂浜に降りてきた女性。婚約者であり隣国の姫君である彼女に、人魚はその美しい歌声を聴かせた。  彼女は人魚を見て、驚きと喜びの表情を浮かべた。  幼い頃に遊んだあの魚の女の子だと、すぐに気づいたようだった。  騙されていた痛みが天使の胸を襲った。  それでも人魚を助けると誓った彼は、人魚の最後の願いを叶えてやった。  人間の身体を手に入れて、彼女は愛する(ひと)と結ばれたのだった。
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