恋しぐれ

3/3
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
 後宮女房の朝は早い。  高貴な姫君や公卿の妻女は自分で自分の顔を洗うこともできないので、邸に仕える女房達は彼女達に代わって日々の様々な雑務を担う。邸によっては、妻女が月の障りや産後の時に代わって主人の夜のお相手をすることもあるというが、幸い綾音は今のところ、そこまでのことはしたことがなかった。  空が白みがかった頃に置き出した綾音が湯漬けをかきこみ、自分で着替えと化粧を終わらせて庭に下り立った時もまだ、太陽は完全に昇りきっていなかった。  中宮様は今の都で身分の高い女人であり、彼女の暮らす藤壺は調度品も仕える女房も庭のあつらえもすべてが一流品だ。苔むした地面に置かれた岩の位置でさえ、計算されつくしている。庭の片隅で薄紫の撫子の花が咲いているのもまた庭師の計算だろうか。燕子花や菖蒲よりも儚げで、そこはかとない風情がある。  朝陽の下で庭の景色を眺めていると、どこかで何かが「みゃう」と啼いた。どこの局の猫だろうか。白黒ぶち模様の愛らしい子猫が、庭の小道をころころと走って来る。猫は本来鼠取りの道具だったのだが、最近、人々の間で愛玩動物として定着した。女房仲間の間では誰かのところで子猫が生まれたと聞くと奪い合いになる。綾音もぜひ飼ってみたいと思っていたのだが、なかなか順番が回ってこなかった。 「可愛いわね。どこの子かしら?迷子になってしまったの?」  随分人慣れしているらしく、綾音が抱き上げても抵抗する素振りすらなく大人しく抱かれている。指先で喉の下をさすってやると、ごろごろ喉を鳴らして目を細めた。――とても可愛い。  しばらくそうして猫と戯れていると、背後に人の気配がした。振り返るとそこにいたのは整った顔立ちの貴公子――あの歌合せの日、綾音が大人げなくやりこめてしまった定頼中納言である。 「ぶち!おい、どこに行ったんだ!って、え、あ……あ、綾の君?」 「あら、この子は定頼様の猫でしたか?今、お返ししますね」  白黒ぶちの子猫を差し出された定頼は何故か目の下を赤く染め、その場から一歩引いている。遠目でもなく月明りの下でもなく、朝陽の下で見る男の立ち姿は引き締まっていて、肌には健康そうな艶があった。綾音が思っていたよりはるかに若いのかもしれない。ぶちと呼ばれた猫が定頼を認め「みい」と嬉しそうに鳴いている。 「ああ、うん。実家の姉のところに生まれた猫なんだけどさ……、返さなくていいよ。もともと、あなたにあげようと思って連れてきたんだ」  定頼のこの発言に、子猫を抱いたまま綾音はびっくりして固まってしまった。 「え?わたくしに?」 「あれ?藤壺の女房達にあなたが最近、猫を欲しがっているって聞いたんだけど、違った?」 「え、ええ。確かにそうですが……」  よく考えると、彼は何故こんな朝早くに藤壺にいるのだろうか。中宮様は昨夜は主上のお召があって、清涼殿に渡っている。男君一人では着られない直衣をきっちり着込んでいるあたり、どこかの女官の部屋にしけこんで、たった今褥から出てきて朝帰り……というわけでもないのだろうし。 「こないだは、すまなかった!」  猫を抱いたままの綾音に向かって、若者が突然深く頭を下げたので、これには心の底から驚いた。基本的に京の男は女に対して頭を下げたりしない。お后様や内親王様に対しては平伏しても権中納言ともあろうお人が、受領の娘に頭を下げる道理はないだろう。 「頭をお上げ下さい、定頼様。あの歌合せの時のことでしたら、わたくしはもう気にしていませんから」  むしろ彼に対して八つ当たりをした自覚はあるので、謝るのであれば綾音の側だと本気で思う。  ぶちは定頼にとても懐いているらしく、先ほどから小さな前脚をこれでもかと伸ばして、彼のところに行きたいと訴えている。頭を上げた定頼の腕に子猫を渡してやると「みい、みい」と鳴いて嬉しそうにすり寄った。小さな頭を撫でる手が優しい。とても仲良さそうだ。 「許してもらえるのなら……一つお願いできないだろうか」 「はい?」 「綾の君、どうかおれに和歌を教えてくれ!」 「えっ?」 「これまで本で学んだり……母や姉に教えてもらったりもしたんだ。だけど、みんなどうして、ああもすらすらと言葉が出てくるんだ?おれには無理だ。どうしてもできない。だからいつも父に代作を頼んでいたのだが……こないだ、いつまでも成人した息子の歌の代作などできるか、もう大人なのだから歌くらい自分で考えろと、ついに父上に突き放された」 「まあ」  歌を詠むのは京の貴族のたしなみであり常識であり作法でもある。すべての人が歌詠みの才に溢れているわけではないので、和歌の代作や代筆は珍しくも何ともないが、権中納言ともあろう人がまったく歌を詠めないとなると、お役目にも差し障るだろう。  ――丹後へつかはしける人は参りにたりや?  不意に、あの時の定頼の言葉を思い出した。  定頼が綾音の歌は母の代作と信じていたのは事実だろう。だがあの時の口調や声音に嘲る色はなかった。むしろ労わるように優し気だった。――彼は母親が遠方にいて代作を頼めない綾音を自分の同類だと思って、憐れんでくれていたのか。  馬鹿にされたと感じたのは、こちらが卑屈になっていたからだ。母が月で自分が星屑だなどと。今思えば何と愚かなことを考えていたのだろう。  悟った瞬間、胸の内から温かなものが沸いて出た。母は恋とは自分の意志でするものではなく落ちるものだと言っていたが、落ちたというより落ちてきた気がする。若者と子猫が一緒になって。ある日突然、空の上から。  きっとそれでよいのだ。母と綾音は別の人間なのだから。物事の感じ方も歌の詠み方も違う。――そして多分、恋の仕方も。 「あの日、あなたの歌を聞いた瞬間、どうせ詠めやしない……と諦めていた自分のことが恥ずかしくなった。おれはあなたを尊敬している。おれもあなたのように歌を詠めるようになりたい。頼む、どうかおれに歌を教えてくれ!」  あれは嫌味と皮肉の歌なのだから、そんなものを尊敬などするな、とか。女と近づきになりたいなら、夜に花でも持ってくるべきで、朝に子猫はどう考えでも違うだろう、とか。言いたいことはたくさんあったはずなのに、真面目で真剣そうな定頼の様子を見ていると、何だかどうでも良くなってきた。いや、猫だけは連れてきてもらおう。こんなに懐いているのを引き離すのは可哀想だから。時々、彼と一緒に綾音の局に。 「……わたくしでよろしければ。喜んで」  その瞬間、とても嬉しそうに笑った定頼とぶちの顔を見て、綾音は今、自分に恋が落ちてきたことを悟った。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!