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第一部 神殿編 第1話 神殿の子供たち 1、娼館の子供
小さいながらも隅々にまで水が循環するように整えられた泉がある。
水面は、春はあんずの花の淡紅色に染まり、初夏にはしだれる藤の花房が影を落として涼やかに風を通し、秋には紅葉した落ち葉の小舟を浮かべる。
日差しが強烈なうだるような暑さの午後に飛び込み、彩り豊かな鯉を追いかけまわして怒られたこともある。
漆喰の塗りあとが大波のように重なる白壁と、居住する女の衣や脂をぬった肌が何度も触れたために黒く照り光る柱でできた豪奢な二階建ての建物の、すれ違うのに苦労するほど狭い階段を上がった二階には、庭に面した南向きの二間続きの部屋がある。
季節ごとに飽くことなく目を楽しませてくれる泉がすぐそこにある。
部屋の前を行き交う、おしろいの匂いと濃厚な花の匂いを混濁させた女たち。
入れ替わりたち代り訪れては朝にはいなくなる男たち。
それが、少年と母の、ちいさな世界だった。
「ラズ、そろそろ行きなさい」
それが合図だ。
夕刻からラズと母の世界は賑やかに華やかに、そして猥雑に、雑然となる。
女たちは動き出し、料理人は大量に運ばれる食材を受け取り、外から手伝いの者たちが入ってくる。
化粧師、衣装師、着付師、楽団、料理人、護衛を兼ねた草履番。
少年は、髪を解き始めた母のそばから離れて、忙しく立ち動き始めた館の一階の台所へ行く。
ナイフを手にジャガイモだって剥けるようになった。
ここでの一番小さな子供はラズだった。
一緒に魚を捕まえて怒られたひとつ上のおしゃまなアンは、最近は姉さん付きになって、口紅を引く。
顎を上げてラズを馬鹿にするようになった。
ここは女たちが主人で、男はあたりさわりのない添え物のような、彼女たちにかしづく奴隷のようなもの。
ここで生まれたちいさなラズは、男にも数えてもらえていない。
皆の玩具のようなもの。
かわいがられ、愛でられ、時には大した理由もなく叱られる。
誉められ、化粧されて遊ばれ、キスされる。
その玩具のラズの心を独占するのは、リリー。
一番美人で、一番優しくて、一番怖い。
誰よりも大好きなリリー。
ラズの母。
「ラズ!お酒を温めてくれ!」
樽から瓶に酒を移し替えて、湯の中にひたすこともできる。
忙しい彼等の手伝いはなんだってする。
リリーがかまってくれないから暇なのだ。
「湯気に気を付けろ!やけどするなよ!酒ができたら、宴会の机が準備できているか見てきてくれ!」
料理長から指示がでると、ラズは廊下にでて宴会場へ駆け出した。
「やあ、坊主、今日も元気だね!慌てて転ぶなよ」
時間よりも早く客が上がっている。
いつもご機嫌な髭の商人は、リリー曰く、とても気前の良い上客だそうだ。
ラズにも、懐のポケットの中からいつも飴やら饅頭やらをとりだしては、内緒だよと握らせてくれる。
髭の商人は、温室で育てた牡丹か芍薬か、見事な大輪の花を束ねて持っていた。
その中にいつも百合が混ざる。
「あの子は女の子かい?10歳だって?まだ店に出るには早そうだけど、かわいいねえ」
ラズを見かけた別の客が振り返る。
「旦那、何をいうのです!男の子ですよ!だめですよ!そもそも若すぎて店には出せませんよ!手を出したら出禁になりますから!でもま、そっちに興味があるようでしたら別の店を紹介いたしますよ、ふふふ」
廊下の角を曲がると、いやらしい目をした男と含みのある笑いをした厚い化粧の女将のことなど忘れてしまう。
リリーのように年齢も様々な客を迎えることはないけれど、ラズはずっとこの桃源郷のような花々咲き乱れる館の、庭師か料理人か、草履番かになるかと思っていた。
だがその冬、リリーは咳をする。
嫌な咳だった。
次第に咳は激しくなり、昼も夜も伏せがちになった。
やせ衰えていくリリーを客や店の女たちは敬遠する。
律儀だった髭の男が届ける見舞いの花は、枯れても次の花が届かなくなった。
リリーは死んだ。
窓からは重い雪の世界しか見えなかった。
寒さは感じなかった。
相変わらず賑やかな喧騒は毎晩続いているのに、ラズはひとりになった。
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