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「父親が病気してなんか弱気になっててさ。まだ引退を考えるような年じゃないけど、母親も不安そうだし俺に早く帰って来て欲しいみたいなんだよな。直接俺には言わないけど」  在学中に税理士試験に合格し、恵太は経験を積むためにとこちらの税理士事務所に就職した。  当然ながら会える時間は減ったものの、二人の付き合いは変わらず続いていたのだ。  税理士資格取得には、試験合格に加えて二年間の実務経験を要するため、厳密には彼はまだ『税理士』ではない。  そうなるべく修行中だと潤は理解していたし、それが事実だ。  彼の父親の具合が悪いというのは潤も聞かされていた。 「こういうわけでしばらく東京離れるから。週末会えなくて悪いけど、心配は何もいらないよ」  実際に恵太は様子を見るために帰省したりもしていたから、その際に説明されたのだ。  恋人がいずれ親元に帰らなければならないというのは最初からわかっていたことだ。  それでも、もっとずっと先のことだと思っていた。  まだ学生の潤には実感が湧かずに、考えるのを先送りにしたかっただけかもしれないが。  故郷に帰り実家の事務所を継いで、……結婚して、家庭を持つ。それが、恵太に周りが、親が期待する未来ではないか。  そこには潤の存在が入る余地はない。  恵太には、親を見捨てることはできないだろう。だからといって、恋人をあっさり捨てて行くことも。  彼はそういう人間だ。きっと惹かれた要因の一つだと思っている。  誰より何より彼が好きで愛しているからこそ、潤は恵太が苦しむ姿を見ていられなかった。  ──だから、自由になって。
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