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麦穂の君
「払えないならば、身体で払えば良いだろ?」
彼のその一言で、私は思わず後ずさりしました。良からぬ想像が駆け巡り、気持ち悪い冷や汗がダラダラと背中を流れていきます。
背が高く体格の良い彼に襲われたら、背の低い私は抵抗するのもままならないでしょう。
野苺摘みに来ただけなのに、今まさに貞操の危機に直面しているのですから、自分の不幸度合いには嘆くしかありません。
「あんた、どこかで働いてんのか?」
「え、あ、はい……近くのお屋敷でメイドをしております」
「じゃあ、休みの日にしばらく手伝いに来い。代金はそれでチャラだ」
「へ……?」
身体で払うとは、どうやら労働を対価とするという意味合いのようでした。
「どうだ?」
「その、やっぱり申し訳ないですし……」
「あ?」
前髪に隠れた奥の目が、ぎらりと光りました。獣のような迫力に、断りの言葉を飲み込むしかありませんでした。
「勘違いするな。これは人助けじゃない。物作りだ」
正直、彼のその言葉の意味はよく理解出来ていませんでした。しかし彼の雰囲気に気圧されて、断りきれないのは明白でした。
「お願いします……」
「よし、決まりだな」
何処と無く、彼は満足げに見えました。
こんな森の奥に通える筈なんてないのに。そんなことを考えていると、彼は別の部屋まで歩いて行きました。覗いてみると、様々な道具や素材が置かれており、どうやらそこが作業部屋のようでした。
やがて彼は、幾つかの道具を持って戻ってきました。
「取り敢えず、採寸だけしとくか」
「……っ!」
「それを脱いで、足をこっちに向けてくれ」
水に浸したタオルを絞りながら、彼は言いました。タオルで足を拭いた後、裸足で採寸していくようでした。
しかし袋を脱ぐのだけは、どうしても避けたいことでした。
「その……ずた袋を履いたままでは、駄目でしょうか?」
巨人に戦いを挑むような覚悟で、私は質問しました。
「採寸が?」
「……はい」
「分かった」
意外にも、彼はあっさり頷いてくれました。
その後。袋越しに定規や鉛筆を押し当てて、彼は採寸を進めていきました。なんとかなりそうで、内心私はホッと息をつきました。
「じゃあ、次来る時までに試作品で一足作ってみるから、そこで一旦ずた袋は卒業だ。良いな?」
「分かりました」
「手伝いに来る日はいつでも良いが、夜は危ないからなるべく早い時間に来い。以上。質問は?」
「その……私は今日、どう帰れば良いのでしょう?」
小人を追うのに夢中で、帰り道など分かるはずもありませんでした。そして当てもなく歩いてお屋敷に帰れる程道のりは易しくないことは明白でした。
「ああ、こいつを使うから問題無い」
そう言って彼は、ずた袋に向けて手を振りました。意味が分からなかったものの、ずた袋は急に早足で歩き出したのでした。
「きゃぁぁぁぁ!?」
「次も同じずた袋を履けば、ここに来れる。じゃあな」
バスケットを投げ寄越しながら、彼はことも無さげに言いました。
私が森に悲鳴を響かせながら歩いたのは、言うまでもありません。
+
自分の足について行く形で必死に歩き続けたところ、知らぬ間にお屋敷の前まで辿り着いていたのでした。ぴたりと足が止まったところで、私は堪らず倒れ込みました。
「つ、疲れた……」
お屋敷に入ると、室内がやけに賑やかなことに気が付きました。皆嬉しそうに、広間のテーブルに集まっていました。
不思議に思い人だかりを覗いてみると、沢山のクッキーや焼き菓子が並んでいました。外遊に行ってらしたご令息が、使用人にもお土産を買ってきてくれたようでした。
けれども。私はその輪の中に入ることはできません。
「……」
身寄りの無い貧しい孤児だった私を使用人として引き取ってくださったのが、このお屋敷の主であるモントゴメリー家でした。
モントゴメリー家の皆様は慈善事業にも力を入れており、使用人を労って休みを下さったり、外遊の度土産物を買ってきてくださったりと思いやりのある素晴らしい方々でした。
そのためお屋敷に来た当初の生活は、非常に楽しいものでした。
転けて食器や洗濯物を落として叱責されることはあれど、使用人仲間達と交流したりして、充実した毎日を過ごしていました。
しかしいつの間にか、使用人達が私を避けるようになっていきました。
話しかけても無視され、皆目も合わせてくれなくなりました。完全に除け者になってしまったのです。
どうやら、近寄りたくない存在と思われてしまったようでした。
理由を聞いても誰も答えてくれないので、私にはどうすることもできません。迷惑がかからないよう、黙々と仕事をする他ありませんでした。
使用人達の賑やかな話し声が、やけに遠く感じました。
「どうした?菓子は嫌いだったか?」
「ひぁ!?」
声を掛けて下さったのは、外遊から帰ってきた張本人、当家次男のクレイグ様でした。
「いえ、今お腹がいっぱいですので」
「そうか。また後で食べると良い」
クレイグ様は、菓子を囲む皆を眺めながら言いました。
麦穂の君。礼儀正しく教養があり、容姿端麗な彼は、密かにそう呼ばれていました。
金色の麦穂のように綺麗な髪と睫毛からその名が付いたようです。この屋敷の使用人達は、やたらとあだ名を付けるのが好きなのです。
「そうだ。菓子とは別に、皆に一つずつ土産を配っているのだが」
差し出されたのは、包装紙に包まれた箱でした。
「これ。良ければ履くと良い」
「ありがとうございます」
こういう時、彼から私への土産物は必ず靴なのでした。
私などを気にかけてくださる、奇特な方。本当にありがたいことです。けれども残念なことに、日常で履き続けられる靴だったことは一度もありませんでした。
……私の足が悪いばかりに。
嬉しさよりも、罪悪感の方が大きいというのが本音でした。
そして私は、彼のことをなるべく避けて過ごしていました。先程の靴屋さんとはまた違う押しの強さ。それに……。
「どうした?」
「いえ、何でもございません。ありがとうございます」
「そうか。じゃあまた」
そう言って、クレイグ様は去っていきました。
この距離が一昔前まではもっと近かったなんて、今や信じられません。
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