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ローナの支え(1)
「ここは、どうだ?」
「ちょっと、痛いです」
「成程な。分かった。じゃあここも当たるか?」
「そっちは大丈夫です」
革靴越しに私の足を触り、リードさんは靴の確認をしていました。改良により転ける回数は大幅に減ったものの、長い時間履くと、やはり痛みが出てしまうのでした。
かつては耐えていた靴を履く痛み。それを取り除くために靴を作ってもらうなど、少し前の私は思ってもみませんでした。
「じゃあ、少し歩いてみて欲しい」
靴を履いた状態で数歩歩くと、彼は真剣な目で私の足下を見つめていました。その目つきがあまりに真剣で、私は落ち着かない気持ちになりました。
「歩き方からすると、左右の足の形が違うかもしれないな。右を少し高くするか」
独り言を言いながら、リードさんは紙に記録を取り始めました。彼はお客一人一人の足の特徴を個別に記録しており、最初は数行だった私の記録も、今や十数行にのぼっていました。
他人の足一つでこれ程にまで文章が書けることが、私は不思議でたまりませんでした。斯様にのめり込めるのが、職人というものなのでしょうか。
「ところで、リードさんは何で靴職人になったんですか?」
「履いた人を、支配できるからだ」
「……」
やりがいとか楽しさとか、そういった回答を想像していたので、あまりにも物騒すぎる応えに、私は黙り込みました。しかし、これまでの彼の態度を見るに、彼らしい回答のようにも思えました。
やっぱり、この人苦手だ。
リードさんの時折見せる棘のある物言いが、私はどうにも好きになれませんでした。
「支配して、どうするんですか?」
「どうもしないが、普通に考えて嬉しいことだろ?」
彼の言う普通が分かりませんが、彼とは価値観が合わないことだけは、今の会話で十分に理解できました。
ならば、彼が作った靴を履いた暁には、自分も彼の支配下になるのかと考え、少しだけ嫌な気持ちになったのでした。
そんな話をしていると、後ろで扉の呼び鈴が鳴り……。
ばたりと、何かが倒れるような音がしました。
驚いて振り向くと、大分腰が曲がり、杖を持ったお婆さんが玄関にへたりこんでいたのです。
「え!?大丈夫ですか!!」
慌てて手を引いて助け起こすと、お婆さんは自力でゆっくり立ち上がったのでした。けれども疲れているようで、来客用の椅子まで歩く足取りは、酷くおぼつかないものでした。
「森にある靴工房とは、ここで間違い無かったでしょうか?」
椅子に座ってから、彼女はリードさんに問いました。どうやら、この靴屋に来るのは初めてのようでした。
「ああ、間違いない。誰かの紹介だったかな?」
「紹介という訳ではないのですが、街でたまたま噂を聞きましてね。どうしても修理をお願いしたい靴があって、ここまで来ました」
なんとお婆さんは、たった独りで街からここまで歩いてきたようでした。年老いた彼女にとってそれは、辛い道のりだったに違いありません。
その証拠に、杖の先や靴底は土と泥まみれになっていました。
「この靴を、どうか生き返らせてはいただけませんか?」
お婆さんは背中に背負っていた鞄から、一足の靴を取り出しました。
年期の入った革靴。革に破れや傷は無いものの、所々色褪せてしまっていました。
「大切な、思い出の品なのです」
「少し見させてもらおうか」
靴を受け取った後、リードさんは机に置いた塗料の色見本と靴を見比べ始めました。
けれども、合う色は無かったようでした。
「倉庫からも塗料を持ってこよう。少し待っててくれ」
そう言って、彼は席を立ちました。
「……本当に、大切に履いてらしたんですね」
彼が居なくなってから、私はついそんな言葉を口にしました。当然、お婆さんは驚いたように少し目を見開きました。
余計な一言を言ってしまった。慌てて謝ろうとしたところ、お婆さんは穏やかに笑ったのでした。
「ええ。主人からもらった大事な宝物ですから」
「そうなんですか?」
「はい……って、あらあら」
ご主人との思い出話が始まると思いきや、お婆さんの目つきが急に鋭くなったのでした。
「お嬢さん、ちょっと良いかい?」
「あの……何か?」
「いいから、ちょっとこっち向いて」
どことなく厳しい口調。そこには、先程までの弱々しい老人の姿はありませんでした。
そしてお婆さんは、スカートのポケットからソーイングセットと老眼鏡を取り出したのでした。
「そのまま真っ直ぐ立ってて頂戴。ちょっとだけ、失礼するわね」
私が返事をする前に、彼女は目にも止まらぬ早さで''何か''を終えたのでした。
「ふう、お直し出来たわよ」
「え……?」
最初、何が起こったのかが分かりませんでした。けれども、自分のエプロンの胸元を見ると、隅っこに糸で穴を塞いだ跡が出来ていました。
何かに引っ掛けたのか、知らぬ間にエプロンが穴あきになっていたようでした。
「恥ずかしい……ありがとうございます!」
私がお礼を言った瞬間、お婆さんは我に返ったようにハッと目を見開きました。
「つい余計なお世話を焼いてしまったわ。ごめんなさいね」
「そんな、謝らないでください」
「職業病とは恐ろしいものだねえ」
老眼鏡を外しながら、お婆さんは困ったように笑いました。
「裁縫がお得意なのですね」
「得意も何も、現役の仕立て屋ですからね」
「流石……」
職人芸を前にして私が驚いていると、彼女の表情は段々と暗くなっていったのでした。
「……まあ、今は休業中ですけれどもね」
どこか寂しそうに、お婆さんは呟いたのでした。
「そうだ。彼が戻って来るまで、少しばかり老人の昔話に付き合ってくれませんか?」
「私で良ければ、喜んで」
「あら、嬉しい」
やがて、お婆さん……ローナさんはゆっくり話し始めました。
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