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お姫様に憧れて
その昔、私は絵本の世界のお姫様に憧れていました。
とは言っても、可愛らしい服や宝石にはあまり興味はありませんでした。皆に祝福されて王子と二人幸せそうに笑うお姫様の姿が、ただ羨ましかったのです。
いつか、誰かの大切な存在になれたら。密かにそう思っていたのです。
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幼少期のある日、私は休憩時間に庭で絵本を読んでいました。その頃には既に使用人から避けられていたので、周りに人はいませんでした。
「何読んでんだ?」
「クレイグ様!」
すると、どこからかクレイグ様がやってきました。私が皆から爪弾きにされてからも、彼は変わらず話しかけてくれていたのでした。
使用人と主人という立場こそあるものの、いつしか彼と過ごす時間は、心安らぐ一時となっていました。
否。いつしか私の胸の中には、それ以上の思いが芽生え始めていました。
「その……お勉強は?」
「ああ、今休憩時間なんだよ。テストに満点取れたら休憩するって、家庭教師に頼み込んだんだ」
貴重な休憩時間を使って、私に会いに来てくれるなんて。内心私は嬉しさでいっぱいでした。
「で、今日は何の話だ?」
「ふふっ、一番お気に入りのお話ですよ」
私の右側に座り、クレイグ様は本を覗き込みました。私は分け合うように、彼の左膝に本の右片側を乗せました。
本の挿絵の中では、姫と王子が舞踏会で楽しそうにダンスを踊っていました。
「ずっと、これが憧れなんです」
本の世界では、夢いっぱいの幸せな空間が広がっていました。
「少し、踊ってみるか」
姫と王子を指差し、クレイグ様は言いました。
それから困惑している私をよそに、彼は片手を握って私を立ち上がらせました。
「む、無理です!踊ったことなんて無いですし……」
「取り敢えず一緒にやってみろよ。リードしてやるから」
こうして、彼のダンス講座が始まりました。手取り足取り、彼は優しく教えてくれたのでした。
「そう。俺の足に添わせるように踏み出せば何とかなる」
戸惑いつつも、私は胸が高鳴るのを感じました。そして指を絡めるように繋がれた手から、彼の体温が伝ってくる気さえしたのです。
胸の奥の温かな気持ち。それは紛れもなく、クレイグ様に対する恋心でした。
それに気付いてから、私はずた袋を脱ぎ、合わないながらも靴を履くようになりました。無論それは痛みを伴う行為でしたが、彼の前で少しでも可愛くいたかったのです。
痛みすら気にならない程、私は彼に夢中でした。それはまるで、恋の魔法にかけられたかのようでした。
童話の王子様とお姫様も、こんな気持ちを抱きながら一緒に踊っていたのでしょうか。
「上出来だよ」
「……ありがとうございます」
風が吹き、彼のさらりとした前髪撫でていきました。その靡く音すら聞こえてきそうな程、二人の距離は近いものになっていました。
それはこの上無い程に、幸せな時間でした。
けれども、残念ながら彼は童話の王子様ではありません。私はお姫様ではありません。
決して結ばれることの無い関係。初恋は叶わないと言うけれども、その事実は針のように心を突き刺したのでした。
「私もいつか、あんな風になれると良いのですが」
だから敢えて、彼に向けてではなく「絵本への憧れ」として、願いを呟いたのでした。それならば、密かに望んでいても許されると思ったのです。
しかし。そう言った瞬間、クレイグ様はぴたりとステップを止めてしまったのでした。
「それは違う」
氷のように冷たく、鋭い否定の一言。彼がなぜそう言ったのかは分かりません。しかし、身の程を知れと思われたであろうことは直ぐに想像できました。
使用人などがお姫様のような存在にはなれない。それは至極当然のことなのですから。
「……そうですよね」
彼の言葉に、私は力無く頷くのがやっとでした。
「じゃあ、勉強に戻るから」
「ダンスのご指導ありがとうございました。……行ってらっしゃいませ」
繋がれた掌は解かれ、クレイグ様は去っていきました。いつの間にか暖かいはずの昼下がりの空気は、やけに冷たく感じられました。
私はその日を境に、再びずた袋を履くようになったのでした。
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そんな過去の話を思い出したのは、夜ベッドに入った時でした。
初恋の寂しい終わり方と言えばそれまでですが、当時思い上がっていた私には、それで良かったのかもしれません。
厳しくとも、現実を受け入れることは大切なことです。そういった意味では、気持ちに区切りをつけて下さったクレイグ様の言葉は、必要なものでした。
しかし。頭の中ではそうと分かっているものの、憧れが打ち砕かれた傷は中々治りませんでした。
「もうだいぶ昔の話なのに、馬鹿みたい」
それ以上考えると涙が出てきそうなので、私は眠りにつくまで、別の楽しいことを考えることにしました。
そこで頭をよぎったのは、昼間聞いたローナさんの昔話。
ローナさんとご主人。別れは悲しくとも、それまでの日々はきっと幸せだったに違いありません。
「お姫様、か」
消し去れない憧れを胸にしまってから、私は眠りにつきました。
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