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マンションの部屋で勇は明美と朝食を取っていた。
テーブルの上にはトーストと卵、ミルクとサラダ。
ポコン、ポコンというテニスボールの音が、開いた窓からかすかに聞こえてくる。
「今日もやっているな」
その位置から少年の姿は見えないが、勇は音のする方を見て言った。
「昨日の夕方も長い間やっていたのよ。凄く熱心ね」
「ほう」
感心したように言い、勇は立ち上がると窓のところに歩み寄り、駐車場を見た。
少年は一心不乱にボールを打っている。どこかぎこちないが、昨日よりは動きがスムーズになっている。
「上手くなったな。それとも気のせいか? あの子を見たのは昨日の朝だったよな?」
勇は窓の外を見たまま明美に尋ねた。
「そうよ」
「そうだよなあ」
勇はつぶやくように言って少年をじっと見つめた。
「あの子、左利きよね」
「本当だ」
どこか違和感があったそのせいだ。
しかしテニスでは左利きは決して不利にはならない。大抵の人は左利きの相手と打ち合う機会が少なく、慣れていないからだ。特にサーブの場合は大きなアドバンテージとなる。もちろん、それなりに強力で正確なサーブが打てればの話だが。
明美にそんな話をしようとしてやめた。
明美は学生時代に陸上部で短距離走を専門にしていたが、卒業してからは走ることを止めてしまっていた。何か運動をしたらいいだろうと、勇は結婚前にテニスをやらせようとした。しかし明美は「私には球技は向いていないみたい」と言って、数回テニスコートに立っただけでラケットを握ることを止めてしまった。
二人の子供が勇の影響でテニスを始めて、大会があるたびに応援に行っては熱心に声援を送っていたが、それでもテニス自体には興味がないようだった。
「ねえ、昨日、下田大の交差点でD棟のおじいちゃんが車に轢かれて亡くなったんですって」
「下田大の交差点?」
勇は、明美を見てテーブルに戻り、椅子に座った。
「二カ月前にも高校生が車に撥ねられて重傷を負ったじゃない。前から信号機の設置をお願いしているのに設置してくれないって、その時も大騒ぎになったよね」
「そうだったな」
「それからまたすぐに昨日の事故でしょ。みんなはもうカンカンで、行政は何をしているのかって、すごい剣幕」
「あそこの交差点は確かに危ない。俺も何度かひやりとしたことがある」
「今度こそ信号機を設置してくれるわよ」
「そう簡単に行くかな」
勇はふと耳を澄ませた。
もうテニスボールを打つ音は聞こえてこなかった。
土曜日はよく晴れた気持ちのいい日だった。
勇と青山はポロシャツ姿でラケットとボールとタオルを持ち、テニスコートに入った。
隣のコートでは若い男女が笑い声を上げながらボールを打ちあっている。
「お互いに歳なんだから、決して無理をしないように。やっているうちに必ず熱くなってくるから」
「わかっているよ。俺は立ち仕事だからいいけれど、お前はオフィスに一日中閉じこもっているんだろ? お前こそ大丈夫か?」
「ま、最初のうちはそろりそろりとやるよ」
勇と青山はネットを挟んだライン際に立ち、ボールを打ち始めた。
一時間も満たないうちに二人は切り上げてクラブハウスへ戻った。
服を着替え、荷物を持って勇は更衣室を出る。
「明日は筋肉痛だ」
「明日? 明後日だろ」
勇の言葉を聞いて青山が言った。
そのまま二人は受付の前まで歩いていった。
「じゃ」
沙織に軽く頭を下げて勇と青山は受付の前を通り過ぎる。
「ありがとうございました」
沙織は笑顔で二人を見送った。
「今の、将暉君の嫁だろ?」
クラブハウスを出たところで青山が言った。
「そうだ」
「感じのいい子だね」
「将暉にはもったいないくらいの娘さんだよ」
「いや、お似合いの夫婦だ」
勇と青山は駐車場の車のところまで歩き、荷物をトランクに入れた。
「どうだ、これから一杯」
「そうだな、まだ早いけれど」
「知り合いの店があるんだ。美味い魚がある。早く開けてもらおう」
運転席に勇が乗り、助手席に青山が乗り込む。
車は傾き始めた日差しの中を、街へと走り出す。
勇は駐車場の隅に何本か立つ木の陰に、将暉が立っているのに気が付いた。
こちら向きに立つ将暉は深刻な表情で何か話している。向こうを向いて将暉と話をしているのは若い女性のようだった。
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