1章

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1章

市役所のあとは運転免許と銀行口座の氏名変更。 一度に済ませたいから今日は有休をとった。 帰ったらネットでスマホとクレジットカードも手続きをしなきゃ。 あとは…、あと1ヶ月もすれば年末調整用の控除証明書が届く頃だから生命保険も名前を変えて、受取人が東吾になっている死亡保険は解約。 そうして大好きな人と同じ名字になった事実を1つずつ消していく。 離婚ってこんなにもあっけない。 皮肉にも子供がいなくてよかったと思ってしまった。 子供ができるはずもなかったのだけれど。 東吾はあの1人で暮らすには大きすぎる家に帰って、今頃また泣いているのだろうか。 ***** 「これが社員情報変更の書類と、給与振込口座変更の書類。これが扶養控除申告書でしょ。ここに住民票とか、そのほかに提出してほしい書類が書いてあるから早めに出してもらえるとありがたいです」 「はい」 翌日、出勤すると次は人事の手続き。 5枚ほどの書類をクリアファイルに入れて渡される。 住所も変わっていたらもっとたくさんの手続きが必要だったのだろうか。 「ようやく決心ついたんだ」 「ええ、おかげさまで」 半年前に別居を始めたことは人事部しか知らない。 言う必要もないし、どうせ近いうちに離婚するからそのときでいいやと思った。 人事の川田さんは自身も離婚を経験していて、なかなか別れる決心がつかないわたしを気にかけてくれていた。 住所変更の手続きをしてくれたのも川田さんだった。 世帯主がわたしになっていることに気づいて事情を聞かれたので正直に話した。 離婚したいと思っていること。 でも嫌いになって別れるわけじゃないこと。 だから情が湧いて踏んぎりがつかないこと。 でも東吾といる時間がつらかったからとりあえず距離をおくことにした。 決心がつけばすぐに離婚届を出すつもりだった。 半年もかかるとは思わなかった。 「原田さんから切り出したの?」 「そりゃあ、別れたいのはわたしの方だったので。向こうはわたしが帰ってくるのを待ってたみたいですけど」 「じゃあ彼のためでもあったのね」 10歳上の川田さんにはなんでもお見通しだ。 「ずっと期待させているのは心苦しいですから」 苦笑混じりで答える。 「とにかく答えを出せたのならよかった。それで、社内ではビジネスネームでいくのね?」 「はい、これからも原田でよろしくお願いします」 26歳で結婚したあとに入社したこの会社で旧姓を知る人はいない。 職場での呼び方なんてただのあだな。わざわざ変える必要もない。 それで変に気をつかわれるのも面倒だし。 後回しにしてしまわないよう書類は昼休みに書いてしまおう。 そう考えながら自分の部署に戻る。 経理部は全部で7人。 入って手前の島には入社7年目の男性社員とパートさんに課長の席。 奥にはわたしが入社時にお世話になった吉岡さん、入社2年目の野崎さんとわたしの席。 2つの島に面してコの字型になるように部長の席がある。 「戻りました」 人事に行ってきますとだけ告げていた課長に用事が終わったことを報告する。 「何かあったのか」 「そのことでお話がありまして。今日どこかでお時間いただけませんか」 課長がどんな反応をするか、想像するだけで気が重い。 「そんなに長くならなければ今でもいいけど」 「よろしいですか」 「なんだ、込み入った話か」 「ええ、ちょっと…」 わたしの表情から軽い話ではないと察したのか、課長は黙って会議室を指さして移動するよう促した。 「離婚?」 「はい…」 寝耳に水を絵に描くとこんな感じなんだろうと思った。 課長は目を丸くして口がぽかんと開いたままだ。 「えらく急だな」 「実は半年前から別居していたんですよ。人事にしか言っていなかったんですけど」 課長にはよく夫のことを話していた。 趣味が同じだとか、旅行に行ったことだとか。 そこそこ仲のいい夫婦だと思われていたと思う。 「詮索はしないけど、まあなんというか、大変だったんだな」 「それなりに。でももう終わったことなので」 そう、もう終わったこと。 1番難しかったのは東吾に離婚届をつきつけることだった。 そこをクリアすればとんとん拍子に話は進んだ。 半年かかったのは東吾が拒んだせいじゃない。 しかたないと言いながら泣く東吾を見て、わたしが押し切れず話をうやむやにしてしまっていたからだ。
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