1章

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***** 課長と一緒に会議室を出て席につく。 他の人には聞かれたら答えればいいや。 「原田さん。ちょっといいですか」 「うん、どうした?」 隣の席の野崎さんが声をかけてきた。 彼女が入社したとき、わたしは教育係を任された。 中途採用のわたしとちがって新卒で入ってきた彼女はビジネスマナーや電話応対に苦労していたけれど、1年半経ってようやく顔つきが変わってきたと思う。 「部長が決算のお疲れさま会をしようって言ってるんですけど、来週都合の悪い日ありますか」 「うーん。特にないかな」 「わかりました。ありがとうございます!」 小動物のような動きでメモをとっている。 素直でかわいらしい子だ。 「幹事任されたの?」 「そうなんです。やってみてって」 「まだ経理部だけの飲み会だからいいけど、大変だよね」 「はい、何したらいいかわからなくて……」 「困ったら相談のるよ」 「ありがとうございます!」 野崎さんはメモを机の引き出しに片づけた。 わたしがずっと席を外していたから待っていたのかな。 飲み会、そんな気分じゃないけど、かわいい後輩が幹事をやるのに行かないわけにはいかないよね。 午後3時。 コーヒーを淹れに給湯室へ行くと、部長がタバコを吸っていた。 喫煙所は別にあるのに、ここは暗黙の了解でエラい人たちが一服する場になっている。 社長と部長が込み入った話をしていることも多く、給湯室を使いたいだけなのに気をつかう。 「何かあったのか?」 「何か、とは?」 「人事で手続きしてるって聞いたから」 「離婚しました」 「はぁ?」 部長はタバコをくわえようと動かした手を止めた。 課長よりリアクションが大げさだ。 「あの登山とか一緒に行ってた旦那と?」 「はい」 相手が驚くほど自分は冷静になっていく。 そんなにビックリするくらい、わたしに離婚という言葉は縁がないものだと思われていたようだ。 「なんで別れた?」 「まあ、いろいろありまして」 理由なんて言えない。 本当の理由は親にも言っていないのだから。 「ケンカしたとか?」 「ケンカは一度もしたことありません」 「そう言ってたもんな。じゃあなんで」 「2人の見ている未来がちょっとちがったってことですかね」 「はぇー。むずかしいな」 部長の質問を適当にかわして、話はもう終わったという顔をしてコーヒーを淹れる。 理由を聞かれるのは覚悟していたけど、 なんでと言われてもセックスレスが原因だなんて言えるわけない。 結婚して2人の子供に恵まれて、部長という役職について。 わたしから見れば十分すぎるほど順風満帆な人生を歩んでいる部長には絶対に話したくない。 冷やかされて終わるのは目に見えている。 この人にも家庭の悩みだって仕事の悩みだっていくらでもあるだろうと思う。 でもそういうことじゃない。 もともとわたしの夫婦生活の問題から生まれたひがみの感情で、外に吐き出すわけでもないから理屈なんてどうだっていいんだ。 まだタバコを吸っている部長を尻目にマグカップを持って席へ戻る。 野崎さんは飲食店の口コミサイトでお店の情報を見ていた。 「部長につかまってたんですか」 「うん、わかる?」 「さっき給湯室に入っていくのが見えたので」 「タバコの臭いついてないかな」 「シュッシュッしますか」 「ありがとう」 若い女の子が好みそうなピンクのパッケージの消臭スプレー。 フロアに甘い香りが広がる。 前にお昼に誘ったとき、野崎さんは5つ年上の彼氏がいると言っていた。 それを聞いたわたしは、彼女も幸せなセックスをしているのだろうかと下品なことしか考えられなかった。 1番つらかったときだったと思う。 離婚を考え始めた頃から意外にもつらさは軽くなっていった。 「決算の打ち上げなんですけど」 声をかけられて我にかえる。 仕事中になに感傷的になってるんだか。 「部長と課長のスケジュールを見ると来週は火曜日しか無理そうなんです」 「そういえば部長は出張だって言ってたね」 「みなさん金曜日だと気兼ねなく飲めるんでしょうけど、再来週は振込や経費精算で忙しいですもんね」 忙しい部長たちのスケジュールは社内共有のカレンダーで調べ、毎月の繁忙期まで考慮して日程を考える後輩に感心してしまう。 「原田さん?」 「ああ、ごめん。もうあなたは立派な幹事だよ。わたしの助けは必要なかったみたいだ」 「ええっ。困ります。これからいろいろ相談しようと思ってたのに。何か気をつけることってありますか」 野崎さんが入ってくるまで、パートさんを除けば1番下っ端だったから幹事は何度も経験してきた。 「まず人数変更の期限の確認と、クレジットカードが使えるか、席でタバコが吸えるかどうか。あと部長は卵が食べられないから気をつけて。マヨネーズもダメ」 「そうなんですか。聞いておいてよかったです。ありがとうございます!」 慌ててまたメモをとる。 本当にすべての仕草がかわいらしい。 彼女は短大を出てこの会社に入って、今年22歳だっただろうか。 22歳の頃、わたしはまだ交際経験がなかった。 恋愛に憧れて、ただ憧れるだけで何もできなくて、このまま彼氏なんて一生できないんじゃないかと思っていた。 東吾と出会って、2年付き合って結婚して4年半。 悲しい思いだけして何も残らずに30歳になってしまったな。 新しい恋愛をしたい気持ちはあるけれど、24歳でようやく念願の彼氏ができたのに、今からまた新しい相手が見つかるのか。 また仕事中によけいなこと。 東吾と結婚してからこんなことばかり。 でも、この先ずっと1人は寂しいな。
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