1章

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頼んだ料理が全部揃って、普段どんな仕事をしているかを互いに話した。 仕事の話が終わると趣味の話や実家のペットの話なんかをした。 永瀬さんが3杯目を飲み終え、わたしも3杯目のロックグラスの残りが3分の1くらいになった頃。 「で、離婚のこと話してくれる気になりました?」 表情も口調も変えずに彼は聞いた。 「それは話しません」 「うーん、まだダメか」 これが今日の本題だったらしい。 どうしてそんなに聞きたがるのか、意図がつかめない。 「なんでそんなこと聞くの」 「気になったから」 「気になるって、どうして」 友達や身内でもないのに、普通は気になっても聞かない。 ただの会社の同僚に話す理由もない。 「だって原田さん、ときどき会社で泣いてましたよね」 「え?」 思いがけない指摘に次の言葉が見つからない。 「目に涙浮かべてトイレに向かうの何度か見てるんですよ。何かあったのかと思ったら離婚したって言うから、関係あるのかなって」 毎日のように泣いていた時期があった。 仕事の帰り道に泣いて、東吾が仕事の日は家で1人で泣いて、夜はベッドに入っても眠れず毎晩毛布で涙をふいた。 仕事中にも堪えきれないときがあって、そんなときはトイレに駆け込んだ。 涙が完全にひいてから席に戻っていたから、うまく隠せているつもりだった。 まさか永瀬さんに気づかれていたなんて。 「泣いたときは、あった、けど……」 どうするのが正解なのかわからない。 気丈に振る舞っていた職場での自分をすべて見透かされているようで、自分を守る殻にヒビが入る。 「つらかったんじゃないですか。会社で泣くって相当ですよ」 ヒビの隙間にそっと入り込むように、彼の言葉は心を揺さぶった。 誰にも言えなかった。気持ちに蓋をして押さえてきた。 その蓋も押し返すくらい、溢れそうな気持ちはピンと張りつめていた。 彼は軽く触れただけ。 それだけで溢れてしまうには十分だった。 「話してもいいけど、聞かなきゃよかったって思うよ」 「自分から聞いたんで、何を聞いても受け止めますよ」 「うち、レスだったの。結婚してから1度もしてなかった」 想定外の答えというような表情で永瀬さんは黙っていた。 引かれたかな。性の話で恥ずかしがる年齢でもないけど、こんなカミングアウトされたら誰だって困るよね。 やっぱり言わなきゃよかったかな。 気持ちが緩んでつい話してしまった。下を向いて、膝の上で握った手に力をこめる。 「1度も?」 「え?」 「1度もなかったんですか」 「うん」 「相手が拒否してたんですか」 「……うん」 「思った以上に深刻な話でした。それは話したくないですよね。無理に聞き出してすみません」 「そんな言うほど、かな?」 「夫婦の問題に他人が口出すものじゃないですけど、そういうのって健全じゃないと思います」 「うん。そう、だよね」 あれ、なんか、視界が歪んできた。 「それ、誰かに話しました?」 「話してない……」 届いたのかわからないほどの声をしぼり出すと同時に涙が頬を伝う感触。 なんで泣いてるんだろう。こんなはずじゃなかったのに。 「すみません。泣かせるつもりじゃなかったんですけど」 「わたしこそごめん。こんなところで泣かれても困るよね」 慌ててハンカチを取り出す。 友達にも親にもこんなこと話せなくて、1人で抱えるしかなかったから余計につらかった。 堰を切ったように涙が止まらない。 ずっと誰かに聞いてほしかった。つらかったねと言ってほしかった。 その相手は誰でもよかった。 「デザートでも食べませんか」 永瀬さんは少し困ったようにそう言った。 言いづらい話を無理に聞き出してしまったことを申し訳なく思っているようだ。 「プリンが食べたい」 涙を拭きながら答える。 永瀬さんの気づかいとプリンの優しい甘さが心にしみて、ようやく涙は止まった。 「あの、本当に気にしないで。むしろ誰かに聞いてほしかったからちょうどよかった。誰にも相談できないのがつらかったから」 「それなら、よかったです」 少しほっとした表情を見せる。 安心させるために言ったわけじゃなく、心から出た言葉だった。心のモヤモヤはすっかり晴れていた。 「じゃあまた誘ってもいいですか」 「へ?」 しゅんとしていたのも束の間。 また涼しい顔して、恥じらいなんてカケラもなさそう。 「えーっと、じゃあ次は他の人も誘って、ね? わたしも野崎さんとか誘ってみるし……」 あからさまにスネた顔をする。 この表情はわざとなのか無意識なのか。 「確認なんですけど、僕の下心は伝わってますよね?」 「よくそんなことを恥ずかしげもなく……」 「結婚まで経験したいい大人が気づいてないとは言わせませんよ」 言い寄られているはずなのに、責められているようなこの気分はなんだろう。 「だってこういうの慣れてないのよ。今までつきあったのだって元夫だけだし」 「そうなんですか」 目を丸くしている。 30にもなって恋愛経験が1人だけなんて、今度こそ引かれただろうか。 「じゃあ僕2人目になれるかもしれないんですね」 なぜ喜ぶ? 「まだ新しい恋をする気にはなれませんか」 「そういうわけじゃないけど」 「けど?」 困ったな。どう説明すればいいんだろう。 「わたしけっこう面倒くさいタイプだから、やめた方がいいと思う」 「面倒くさいって?」 「理屈っぽいし」 「僕も根っからの理系人間ですよ」 「記念日とかイベントとか面倒だし」 「それは助かります」 「自分にも他人にも厳しいし」 「甘やかされるよりいいと思います」 「結婚する人としか付き合えないし」 本当に伝えたかったのは最後の一言。 彼は目を伏せて考え込んでしまった。 正直、永瀬さんには惹かれつつある。 こんなに積極的にアプローチを受けるなんてはじめてだし、気づかいやスマートな対応もできて素敵な男性だと思う。 何よりつらかったことに気づいてくれていたこと、吐き出させてくれたことで弱った心をグッと掴まれた感じはしている。 でも。 「永瀬さん、いくつ?」 「29です」 「わたし、今年で31になるの。もっと若い子と気楽に恋愛した方がいいんじゃない?」 「……わかりました」 ひと呼吸おいたあとでそう答える。あきらめてくれたようだ。 「気持ちを伝えるのはもう少しあとにします」 あきらめてなかった。 「悪いけど遠慮する気はさらさらないので。またごはん行ってください、2人で」 悪そうな笑顔で念を押されてしまった。 でも、ちょっと喜んでいる自分がいる。新しい恋に踏み出すのは怖いのに。 「そうだ、社内のチャットを私用に使うのやめなよ。バレたらどうするの。システム部の管轄でしょ」 「じゃあ連絡先教えてください」 とびっきりの笑顔でQRコードを差し出される。 自分から言った手前断れないじゃない。なんか悔しい。 この先どう転んでも不安しかない。 それなのに拒むことができない。 こんなに心を揺さぶられるのははじめてで、きっともう彼の手の内なんだろうと思う。 駅まで歩いて別れた。 そんなに飲んでいないのに顔が熱い。 少し風に当たりたくて、遠回りして家に帰った。
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