沈華

1/19
67人が本棚に入れています
本棚に追加
/19ページ
町中を流れるコンクリートの川のように、激流もなければ淀みもない。それがあたしの人生だ。 働くストレスがない優雅な主婦生活も三年を過ぎた。時和理香子(ときわりかこ)は今の暮らしに少なくとも満足はしていた。望みはいくらでもあるが、上を見ればきりがないことは新社会人になって嫌というほど学んだ。だからこそいろんなことに見切りをつけて、今の夫と結婚して家庭に入ったのだ。 その選択は今振り返っても、おおむね正解だったと思っている。  ランチの予約をしている駅前の店に向かって歩きながら、ガラス張りのウインドウに映る自分の姿をチェックする。 昨日美容室で巻き直して染めたばかりのセミロングの茶髪、首元に光るラグジュアリーなネックレス、ピンク色の透け感があるゆるりとしたチュニックに裾が広がる上品な黒いスカート。 よし、完璧だ。ガラスに映る自分に微笑みかけると、パンプスを鳴らして颯爽と歩きだす。  五月に入ったばかりだというのに、夏のような日差しが照り付けている。地上の者をバーベキューにしてやろうと企んでいそうな凶悪な日差し。日焼け止めを塗ってきてよかった。必要以上に紫外線を恐れているわけではないが、三十歳目前。そろそろシミができやすい年齢だ。気を付けなくてはいけない。  予約した店、マイプラネットの前にはすでに上田愛弓(うえだあゆみ)の姿があった。 花柄のガーリーなひざ丈のスカート、レースのブラウスに淡い色のカーディガン。お菓子の家みたいな外観のレストランにはお似合いのメルヘンチックな服装だけれど、二十九歳になったばかりの彼女には少し痛い。 若々しくて可愛いなら似合う服装かもしれないが、愛弓は一重まぶたの地味な顔だち、いや、古き良き日本人顔だから微妙だ。きっと平安時代に生まれて十二単を着ていたらそこそこイケていただろう。とにかく、まったく似合わないわけではないけど、夢見がちな少女という雰囲気が彼女の理知的な顔を台無しにしている。 昔の愛弓はもっとユニセックスな服装が多く、彼女のシャープな印象を引き立てていてよかったのに、社会人になった頃から女らしい服装を好むようになった。 今日はこの前会った時よりも一段と乙女チックだ。ほとんどゴスロリと言っても差し支えのない服装に、なにかあったのではと疑念すら過る。 「愛弓、もう来てたのね。遅くなっちゃったわ、ごめん」  理香子は謝りながら、腕時計を確認する。 十一時二十分、予約した十一時半より十分も早い。自分が遅かったのではなくて、愛弓が早すぎたのだ。謝り損じゃないか。 「大丈夫だよ、まだ麗奈ちゃんも来てないし」  そりゃそうだろうと、心の中でだけつっこむ。 几帳面なのは愛弓のいい所だが、時間に関してはいきすぎているところがあるのが玉に瑕だ。いつも五分前行動どころか二十分前行動をしている。早ければいいというものでもないのに。  指摘するほどのことじゃないのでいつも黙っているが、約束の時間よりも早めに来たのにも関わらず遅れてきたような雰囲気を出されるのはちょっとしたストレスだ。滓のように積もったモヤモヤはそろそろ爆発しそうだ。そんなだから男ができないのよと言いたくなる。  理香子と愛弓が待つこと数分。約束の時間ぎりぎりになって汐崎麗奈(しおざきれいな)が現れた。 「二人ともそろっていたのね。遅くなってしまったかしら」  藤紫色のカットソーに金と白の縞模様が入った紺のスカーフを巻き、黒いスラリとしたスキニーを履いた麗奈が、ハイヒールを高らかに鳴らしながら優雅に近付いてくる。 持っているバッグはシャネルで、上から下までお金がかかっていそうな上品で煌びやかなファッション。そこにいるだけでパッと場の空気が華やかになる、麗奈はそんな人物だ。 友達として彼女はこれ以上ないくらい私に相応しい。理香子は彼女が友人であることがずっと誇りだった。もちろん、いまでも。 麗奈は男女問わず人を惹きつける魅力があり、学生時代モデル業界から声を掛けられたこともあるらしい。すごく羨ましい。ずっと物を書く仕事につきたかったからとモデルの誘いを断ってしまったなんてもったいない。自分だったら後先考えずに誘いに乗っていただろう。 でも麗奈の場合、やりたかったライターの仕事に就いていて、ちゃんと成功しているのだから、断って正解だったのかもしれない。 今年二十九歳になるとは思えない肌の張り、切れ長の瞳に高い鼻の美しい顔と抜群のスタイル、売れっ子のライターという華やかで高収入な仕事。ショートヘアがとてもよく似合う、誰から見ても美人でできる女。一度でいいから彼女になりたい。  思わず向けてしまった羨望の眼差しに気付いたのか、麗奈がこちらを向いて「どうかした?」と首を傾げた。 「えっと、そのイヤリング素敵だなって」  理香子はごまかすように目についた彼女のイヤリングを褒める。形の良い耳で人魚姫の涙のように美しい青いしずく型の石が揺れている。素敵なイヤリングだ。 「ありがとう、先週買ったばかりのティアラーズの限定品なのよ。このイヤリングに気付くなんて流石は理香子ね。お目が高いわ」  麗奈のいたずらっぽく微笑む顔のなんて魅力的なことか。 ティアラーズといったら、ラグジュアリーな宝石の新鋭ブランドだ。一定のセレブしか買えないというほどではないが、一般人が容易く変えるブランドじゃない。そこの限定品を持っているなんて、さすが麗奈だ。 「素敵、ティアラーズなんて羨ましいわ」 「別にブランドだから買ったんじゃなくて、たまたまデザインが気に入ったのよね。理香子のネックレスも素敵よ。4℃でしょう?人気よね、女の子の憧れのブランドよ」 「そうなの、ちょっと奮発しちゃって」 「みんなそろったなら、お店に入ろうよ」  麗奈とアクセサリーの話で盛り上がっていると愛弓が割り込んできた。店前で長話をしていた自分達も悪いが、楽しい気分に水を差されて興ざめだ。 どうして愛弓はこういつも空気が読めないのだろう。ちょっと空気を読みなさいよ。 腹が立ったけれど、ここで愛弓に注意するのは大人げない。理香子は「ごめんごめん」とにっこり笑って、店の扉を開けた。 「いらっしゃいませ」 「予約した時和です」 「時和様ですね、お待ちしておりました。あちらの席へどうぞ」  店員に案内されて窓際の明るい席に座る。早めに予約してよかった、店内は既に客でいっぱいだ。カウンター席さえほぼ埋まっている。 「予約ありがとうございます」  愛弓が律義に頭を下げる。 「本当、いつもありがとうね」  麗奈が軽く手をあげて礼を言った。  どういたしましてと二人に対して微笑みながら、理香子は内心不満を抱いていた。麗奈に対してではない、愛弓に対してだ。  そんなに丁寧にお礼を言ってくれなくていいから、たまには店を選んでよ。そう言いたいのをぐっと我慢する。 三人で集まる時、店を選ぶのはたいてい理香子の仕事だ。店選びは主婦で暇な理香子の仕事と思われているのかもしれない。 愛弓と麗奈は働いている。二人に比べて、専業主婦の自分には確かに時間がある。子供もいないからかなり時間に余裕があると言ってもいい。家事をさっさと済ませて、自分の時間を毎日謳歌しているぐらいだ。店を探すのは嫌いじゃないし、忙しいから店を決めてと言われたら喜んで決めよう。 麗奈は会って話したいけど忙しいから段取りをする暇がなくて、こちらに甘えて丸投げしている節がある。それについてはしょうがない。彼女は売れっ子ライターだから、こうして会う時間もないくらい忙しいのだろう。段取りをしてくれなんて頼めない。 しかし愛弓は違う。彼女も残業が多い仕事だけど、土日は休みだし毎日終電というわけでもない。六時過ぎには職場を出られる日だってそれなりにある。 愛弓との付き合いは大学で知り合った麗奈よりずっと長く、小学校からずっと友人だった。彼女には昔から主体性がない。 愛弓と会う約束をするのはとても疲れる。万事が万事、こちらに決定権を委ねてくるからだ。  こちらが「久しぶりに三人で集まろう。ランチがいいかな、カラオケもいいよね」と送ると、愛弓から「集まりましょう。ご飯と遊びに行くのと、どっちがいいかな」と返信がある。そこでランチをすることに決めて「どのお店にしようか」と尋ねると、今度は「どんなお店がいいかな?」と疑問形で返ってくる。 しょうがないから二、三個候補をあげて「どこがいい?」と聞くと、次には「理香子ちゃんはどこがいい?」といった調子で、毎回疑問が疑問で戻ってくる。 苛立ちを抑えて「あたしはイタリアンがいい。愛弓はどう?」と尋ねると「わたしも理香子ちゃんと同じ」と返事があるのだ。 疑問の終着が同調なんてあまりにも酷くないだろうか。ここまで主体性が無いと、さすがにイライラさせられる。 しかもそれならそれで予約ぐらいするとでも言ってくれたらいいのに、いつの間にか流れで店を決め、予約まで自分がすることになっている。 最初から、お店を探す時間がないから決めておいてと言ってくれる麗奈の方がよほど可愛い。 麗奈は常に忙しそうで、こちらから誘わなければ自分から誘ってこない、店選びもしないというスタンスを決め込んでいる。 そういうタイプの人だと理解しているので気にならないが、愛弓の誘ってほしいのに受動的な態度なので気に障る。 愛弓と会って話せば楽しくて会う段取りで感じた腹立たしさは忘れてしまうが、毎回会うまでが大変だ。たまにはいつ会うか、何をするか、どの店に行くか決める役を買って出てほしい。それは自分の心が狭いのだろうか。 いや、ぜったい違う。悪いのは愛弓だ。間違っているのは彼女に決まっている。 だめだめ、せっかく楽しいランチ会なんだから。イライラしていたら損だ。 理香子は気持ちを切り替え、メニューに手を伸ばす。 パスタやパンケーキなどいろいろなメニューがあるなか、理香子はスープ、前菜、メイン、デザートの本日のランチコースBを選んだ。本当はもう一つ上のスープとハーフパスタがついたCコースを注文したいところだが、値段が三千円を超える。 コスパは抜群だが、ランチにしては少々痛い出費だ。それに比べてランチBは二千円と手ごろな値段だ。 「あたしはランチコースのBにしようかな。みんなはどう?」  理香子が尋ねると、速攻で愛弓が便乗する。 「いいね、ランチコースB。わたしもそれにするね」 まるであたしがメニューを決めるのを待っていたみたいだ。いつものことながら、また理香子は小さく苛立った。  理香子と愛弓がランチコースBに決めると、他のページを見ていた麗奈もページを捲ってコースメニューに目を遣る。 「パスタもいいと思っていたけど、コースもおいしそうね。でもランチコースCも捨てがたいわね。ああ、でも量が多そう。太ってしまうから私もBにするわ。すみません」  麗奈が手を挙げて店員を呼び、手慣れた様子でランチコースBを三つオーダーする。 さすがはライターだ。きっと取材や打ち合わせで、いろんなレストランに行ったことがあるのだろう。 オーダーが決まった瞬間にすかさず店員を呼び、淀みなくオーダーする麗奈の姿に思わず惚れ惚れしてしまう。いかにも自立したできる女という感じだ。 「お二人さん、最近仕事はどうなの?」  理香子の質問に、愛弓が少し苦々し気な顔になる。 「いろいろ大変だよ。あんまり昇給しないのに仕事ばかり増えちゃって。営業職みたいに大きなノルマがないだけマシだけど、総合職だからけっこう大変なの。ほんの少しだけどノルマもあるし。営業じゃないわたしがノルマなんて達成できるはずがないから、保険とか投資信託とか親や親戚にやってもらって、自転車操業状態だよ」  地方銀行に勤めている愛弓は相変わらず苦労しているようだ。 就職活動の時、愛弓も理香子も銀行は安定しているからという親の勧めで銀行への就職を目指し、文系学部の理香子は採用試験で落ちて理系学部の愛弓は受かった。その時は嫉妬したけど、愛弓の苦労話を聞いていると受からなくてよかったと心底思う。 「銀行だから土日休みなのは嬉しいけど、日曜日になるとまた五日間仕事かって憂鬱になっちゃうよ。すごく残業が多いし、しかもサビ残。お盆はないし、お正月も短いし。麗奈はどう?」 「私はぼちぼちよ。今月もけっこう大きな記事の案件があるのよね。フリーのライターに転身したから自分の権限で仕事できるのはありがたいわ。五月蠅い上司に怒られずに済むしね」 「羨ましいよ。職場の人間関係って面倒なんだもん。六年も勤めていると、上も下もいるから挟まれて大変だし」 「仕事が嫌なら、愛弓も理香子みたいに結婚したらどうかしら?」 「結婚かあ。でもわたし、結婚しても働きたいんだよね。自分のために遣えるお金が欲しいし、現実的な話、旦那さんの稼ぎだけじゃやっていけない気がする。家事も好きじゃないし。理香子ちゃんはいい旦那さん捕まえたよ。いまどき専業主婦なんて貴重だよ」 「やだ、あたしの旦那なんて普通の旦那よ。まあ、安定しているけどね」  言葉とは裏腹に、羨望の眼差しで愛弓に見詰められて内心すごく得意だった。 夫の悠一(ゆういち)は全体的に地味だし優秀でもないが、大手商社の社員で、下っ端でもそれなりに稼ぎがあり、タバコも酒もしない安全パイだ。そこが気に入って結婚を決めた。 彼は共稼ぎが多い今の時代には珍しく妻は夫が食わせていかなくてはと考える古いタイプの男で、理香子が仕事を辞めると言っても一切拒否しなかった。子供もいないから優雅な主婦生活を送れている。 やっと人生の勝ち組になれたのだ。 「安定が一番だわ、理香子。愛弓は結婚願望はあるのかしら?」 「そりゃまあ、あるよ。親もまだかまだかって感じだし。結婚しなくちゃ」 「あら、別にしなくちゃいけないわけじゃないんじゃないかしら?私は一生一人で生きていきたいわ。男になんて頼りたくないもの」 「わたし、麗奈ちゃんと違って一人娘だし。結婚して親に孫の顔を見せてあげなくちゃ。やっぱり結婚はしなくちゃいけないよ。仕事も大事だけど、女としては結婚して子供を産まなくちゃね」  愛弓の考えは一昔前の考え方だ。このご時世、結婚なんて必ずしもしなくてはいけないわけではないと理香子は思う。 でも現実的に考えて都会ならまだしも、たいした職のない地方では女は契約社員か、正社員でも事務や一般職しかなくてとても一人で生きていける給料じゃない。 理香子も正社員の事務職として働いていたが、月の手取りはたったの十三万円だった。ほとんどアルバイトと変わらない給料で昇給はまったくなく、将来性は皆無だった。 それに地方ではまだまだ女は結婚して家庭に入るものという考えが根深い。実際、自分の親も社会人になるなり、結婚相手はまだ決まらないのかとうるさかった。 「つめたいサツマイモのポタージュです」  透明な小さなガラスの器がテーブルに並べられる。アイボリーのポタージュを彩るように鮮やかな紅のビーツのソース、白い生クリーム、緑の浅葱が散っていて、美しい見た目だ。 高級感のあるスープに早くもテンションが上がる。  冷たくて甘じょっぱい絶妙な味のスープが会話で火照った体を冷やしてくれる。 五月なのに冷製ポタージュなんてどうなのだろうと思っていたが、今日は夏ばりに暑いのでちょうどいい。 そこを踏まえてメニューを決めたのだとしたらたいしたものだ。残りの料理への期待が膨らむ。  前菜はスモークサーモンのサラダ仕立て、メインは肉を選んだ理香子と麗奈は豚のマスタードソテー、魚を選んだ愛弓はタイのポワレだった。 期待通りにどの料理もとてもおいしい。初めての店だから外れだったらどうしようかと不安だったが、大当たりだ。 値段はリーズナブルだけど料理は芸術的で味も抜群、店の中は小さなシャンデリアや白いテーブルクロスが美しくて落ち着きがある。お気に入りのお店がまた一つ増えた。  あたしの店選びの腕前はたいしたものだわ。本当、二人とも大いに感謝してよね。  理香子は満足げな顔でデザートのクリームブリュレに手を伸ばす。カリカリの表面をスプーンで割っていると、愛弓がいきなりスプーンを置いて顔をあげた。 「じつはわたし、最近彼氏ができたの」  いきなりの告白に、理香子と麗奈は顔を見合わせた。彼氏いない歴が生まれた年のあの愛弓に彼氏ができた。重大ニュースじゃないか。 「ちょっとちょっと、どうして早く教えてくれないの?」 「理香子の言う通りよ、愛弓。いつの間に彼氏なんてつくったのよ」  二人そろって身を乗り出すと、愛弓がたじろぐ。 「落ち着いて、二人とも。ごめん、なかなか言い出せなくて」 「いつから付き合っているの?この前あたしたちが三人で最後に会ったのって、三カ月前で洋風居酒屋での飲み会よね。もしかして、その時にはすでに彼氏がいたの?」 「その時にはまだいなかったよ。ほら、わたしこの前の飲み会の少し後から二カ月心身の不調で休職していたでしょ。その間にできたの」  愛弓が鬱になって、二月の終わりから五月まで休職していたのは知っていた。 おかげで、三人で集まって日頃の鬱憤を晴らす会が、前回から三カ月以上もあいてしまったのだ。まさかその間に彼氏を作っていたなんて―― どんな人なのだろう。あたしの夫よりもお金持ちだろうか、かっこいいのだろうか。 愛弓本人は優しくてタバコや賭け事をしない男ならば誰でもいいと言っているが、その実、ハードルが高い。 愛弓に誘われて二十三歳の時に一緒に婚活をしていた。愛弓は婚活パーティーで知り合った男と何度か食事に行っていたが、どの男も一、二回食事に行ってから「なんか手を繋ぐのもいや、この人とは恋人になれない」と自分から振っていた。 何が悪いかわからないけどなんとなく嫌なのだと、困った顔で愛弓はぼやいていたけれど、理香子は薄々その原因に思い当っていた。どの男も顔がかなり微妙だったのだ。 愛弓と婚活パーティーで結ばれたのは十人並みかそれ以下の容姿の男ばかりだった。だから、彼女は恋愛する気になれなかったのではないかと睨んでいる。 そんな愛弓を射止めたのがどんな男なのか大いに気になる。おいしいクリームブリュレそっちのけで、理香子は愛弓に質問を浴びせた。 「ねえ愛弓、どんな人?その人とはどこで出会ったの?」 「職場の二つ上の先輩だよ」 「愛弓、職場にかっこいい先輩がいるって言ってたわよね。もしかしてその人かしら?」  麗奈の質問に愛弓の目が一瞬濁った。その人ではないのだと、理香子はすぐにわかった。 「ううん、その人はわたしの同僚と付き合いだしちゃって。その人じゃなくて、前からアプローチしてきていた村井先輩と付き合いはじめたの」 「村井先輩って確か、断ってるのに何度も食事に誘ってくる人でしょ。愛弓、しつこいってぼやいてなかったっけ?その人と付き合いだしたの?」  理香子が驚いて問い返すと、愛弓は恥ずかしそうに小さく頷いた。 「へえ、その情熱に押されたわけなのね」  からかい交じりに言った麗奈に愛弓の顔がますます赤らむ。 「そんなんじゃないよ、麗奈ちゃん。でも、なんか仕事でいろいろ落ち込んじゃって。休職していあいだ、わたしはこの先ずっと働いてけるのかってすごく不安で。そんな時、村井先輩がわたしのこと誘いだしてくれて。それでご飯に行ってみたら、優しくていいかもって思えて」 「そうなのね。ねえ、写真はないのかしら?愛弓の彼がどんな人か気になるわ。理香子もでしょう?」 「うん、あたしも気になる」 「いいよ、見せるね。先に言っておくけど、かっこよくないよ」  前置きすると愛弓はスマホをとりだして、彼氏と二人で映っている写真を見せてくれた。 その写真を見て、理香子は一瞬言葉を失う。 女の友達の前で自分の彼氏をかっこよくないと敢えて貶すのはよくあることだけど、たいていはかっこいいことが多い。 しかし、今回は違った。愛弓の言葉通り、あまりにもかっこよくなさすぎる。  某有名なテーマパークの入り口の前、控えめなピースサインをする愛弓の横に立っていたのは三十代前半とは思えない老けた顔の、背ばかり高いだらしないたるんだ体型の男だった。 今まで彼女が婚活で出会った男よりもさらに微妙な男だ。  ちらりと麗奈に目を遣ると、彼女もぽかんとした顔をしていた。しかし彼女はすぐに悠然とした笑みを浮かべる。 「あら、プーさんみたいに優しくて素敵そうな人じゃない」  誉め言葉のように聞こえるけれどきっと違う。ぼんやりした大きいだけの男と思っているのだ。 「えへへ、そうでしょう」 しかし、愛弓は麗奈の本音をうまく隠した華やかな笑みと声にすっかり騙されてはにかむ。 「麗奈の言う通り、ほんとに優しそうな人だよね」  理香子が麗奈の言葉にのっかって褒めると、愛弓は照れ臭そうにする。 「そうなんだ、わたしなんかの話をちゃんと聞いてくれるの。休職中に声を掛けてくれたのは彼だけだし、愚痴も聞いてくれて。すっごく嬉しかった」 「よかったわね、愛弓。デート代は彼持ちなのかしら?情熱的にアプローチしてくれるような人だから、きっと貴方のことをお姫様扱いしてくれるんでしょうね」  麗奈の質問に愛弓は緩く首を振る。 「お姫様扱いっていうより、亭主関白って感じかな。デート代はワリカン。同じ職場だし、自分の分は自分で払う方式なの」  休職中の年下の彼女のデート代を持ってくれない男ってどうなんだろう。 理香子は悠一と夫婦になる前は財布を出したことはほとんどない。 たまに少しだけ食事代を出すこともあったけど、基本的に彼が払ってくれた。 悠一ができすぎだったのかもしれないけど、同じ職場の先輩ならば彼女じゃなくても、少しくらい多めに支払ってくれそうなものなのに。 理香子は改めてスマホの画像を見た。優しそうだと麗奈が言っていたし、自分もそうやって褒めたけど、よく見ると優しそうでもない。ひたすら地味で老けた男だ。なんだかだんだんとせこくてケチそうにさえ見えてきた。 こんな顔も中身も微妙な男と結婚したらきっと苦労するだろう。もちろん、そんな本音を言うわけにはいけないので黙っていた。 愛弓が彼についてのエピソードを語り始める。三月と四月の間、愛弓は心を病んでいるからと会社を休み、女友達からの誘いを断って、彼氏とは食事や遊びに行ったりしていたようだ。 でかけた先は県内の鄙びたお金を掛けずに遊べる観光地や、チェーン店での食事ばかり。まるで高校生のデートじゃないかと突っ込みたいのを堪え、理香子は羨ましがるふりをした。 麗奈は相変わらず完璧な笑みを浮かべていたが、スプーンを手に取ってブリュレを食べながら話を聞いていた。愛弓の羨ましくもなんともない惚気話に興味をすっかり失っているといったところか。 「それで、二人にお願いがあるんだ。今度、彼氏さんが自分の友達を連れてくるから、おまえも友達を連れてきてみんなでバーベキューをしようって言うの。二人とも、来てくれないかな?」 「え、バーベキューか……」 嫌だな、ぜったい楽しめなさそう。でも、ここで断って長年付き合ってきた愛弓との関係にヒビが入るのは避けたい。理香子はにっこりと笑った。 「いいね、楽しそう。あたしはいいよ。麗奈はどうする?」 「そうねえ、忙しいんだけど。まあ、愛弓のお願いなら断れないわね。行くわ」 「よかった、二人ともありがとう。日は彼氏さんと決めて追って連絡するね」 今まで見たことのない朗らかな笑顔で愛弓がブリュレを口に運ぶ。 三カ月前、最後に会った時の無反応ぶりと元気のなさをずっと心配していたが、もう大丈夫そうだ。ほっとする傍ら、浮かれる愛弓に胸がチリチリとした。  コースの締めくくりのクレームブリュレは、味がよくわからないまま空っぽになった。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!