沈華

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実家で暮らしはじめて数日が過ぎた。待てど暮らせど、悠一から謝罪の連絡がかかってくることはなかった。 やっぱり彼は本気で離婚するつもりなのだ。理香子は愕然とする。  社会人になって仕事の大変さを知り、実家暮らしは天国なんていう人は少なくない。家賃を払わずに済むし、なにもしなくても食事が出てくるし、洗濯もしてもらえる。楽には楽だけど、理香子にとって実家は天国なんかじゃない。むしろ地獄に近い場所だ。 紀美子は突然帰ってきた娘を気遣ってくれない。それどころか早く自分のアパートに帰れと罵ったり、働かない怠け者だから旦那に嫌われたんじゃないかと嘲ったりする。 昔からそうだ、紀美子は娘のあたしをぜったいに褒めない。  幼い頃から長年溜めてきた恨みごとが一つ、また一つと蘇る。 友達の母親から可愛いと言われたと喜んで報告すれば、そんなのただのお世辞だと笑い、先生に歌が上手いと褒められたと自慢すれば、教師は誰でも褒めるものだと呆れる。 紀美子はとにかく勉強していい大学に行くことがすべてと考え、勉強以外の長所は一切褒めてくれなかった。 理香子は多くの一般的な子供と同じように勉強が嫌いだったし、苦手でもあった。 それでも平均より上の偏差値をキープするのに必死に勉強していた。 だけど、勉強でさえもそれくらいのがんばりは当然だと言われ、一度も褒めてはもらえなかった。 高校生の頃、本気で歌手になりたいからスクールに通わせて欲しいと何度もせがんだけど、願いは毎回すぐに却下された。 「あんたが歌手になんてなれるはずないんだから。歌手なんて、才能のある選ばれた人間の仕事なのよ。時間とお金の無駄だわ。塾にでも通いなさいよ」という母の台詞は一言一句違わず、一生傷のようにずっと頭に刻みついている。  あたしはいい声をしているし、顔もそこそこいけている。歌はとびきり上手くて、合唱コンクールではしょっちゅうパートリーダーに選出されていたくらいで、頑張ればきっと歌手になれた。 それなのに、頭ごなしに無理だと決めつけられて、あたしはその通りなのだと信じ込んでしまった。 大人になった今では自分は歌が上手いとはっきり言えるけど、少女だった頃は母に普通だとか自惚れだと言われ続けて、自分の才能に自信が持てなかった。 そのせいで、歌手になりたいという夢に向かって、努力したり挑戦したりする機会さえも奪われた。 今の子供たちはナンバーワンよりもオンリーワンだと、勉強以外の才能にも目を向けてもらえるから幸せだ。 なんでもいいから一つ好きなことを見つけて極めろという親が多いように思う。親のいいなり人形だった昭和時代の自分達とは違う。  紀美子は毒親だ。あたしは母に歌手という夢を奪われた。せめて人並みの幸せは手に入れようと結婚したのに、それも失敗した。 頑張って嫌いな勉強をして四大を卒業した。努力してきたというのに、今不幸のどん底にいる。 紀美子、悠一、そして由希。彼らがあたしを不幸にしたのだ。 実家に居ればお金はなくとも、衣食住に困りはしない。だけど精神が削られていく。すぐにでもこんな家出て行きたい。 今のところ独身時代に貯めていた自分名義の通帳と、悠一が施しのつもりで置いていった通帳の預金があるからお金に困らないけど、今までみたいに習い事と豪華なランチやお出かけに遣っていたら、あっという間に貯金は底をつく。 普通ならばここで結婚前のように働きに出ようと考えるだろう。しかし、理香子はもう二度と働きたくなかった。 長時間拘束され、たくさんの書類仕事に追われてクタクタになる。そのわりに一人で暮らせるような給料はもらえない。 頑張ってもこの不景気じゃ昇進はおろか、毎年の昇給さえないのが現状だ。 偏差値が平均的な文系の大学卒の女は仕事での成功は望めない。正社員の職があるかどうかさえ怪しい。男女平等など嘘っぱちだ。 同じ四大卒でも男と女の給料や待遇には雲泥の差がある。新卒の段階では同じくらいでも、勤続年数が長くなると差は開いていく。そもそも職種によっては女だからという理由で採用してもらえないことも多い。  浮気の挙句、離婚したいなどと言い出した悠一が許せない。いっそ、悠一の職場に「この浮気男!」と怒鳴り込んでやろうか。 自室のベッドでふて寝をしていた理香子は起き上がった。 思い立ったが吉日だ。ぼさぼさのまま放置していた髪を梳かし、ばっちりとメイクをする。 それからとびきり綺麗なワンピースを着てトレンチコートを羽織った。 自分が持っているなかで一番高いハンドバッグを肩に掛けて、家を飛び出す。  外に出ると頬を撫でる風はひんやりと透き通っていて、すっかりと秋めいている。空は黄昏に染まって美しく燃えていたが、今の理香子の目には映らなかった。 突然夫に捨てられたことや、自分を労わってくれない周囲の人間に対する憤りが瞳を曇らせている。 悠一の会社に乗り込むつもりで家を出たのに、足は別の場所に向かっていた。一度しか降りたことない駅で電車を降り、大通りを進んでいく。 緩やかに続く坂道を登ったその先に見えてきたのは、夕日に染まった赤い校舎。  部活帰りの学生が楽しそうに話しながら、すれ違っていく。 呑気な学生たちは般若のごとき顔をした女が大股で迫ってこようが、気にも留めない。もしもこちらに殺傷意志があれば、彼女達は簡単に死んでいただろう。まったく、呑気極まりない。  気持ちが奈落の底に落ちていると精神的に怪物じみてくる。幸せそうな連中をかたっぱしから不幸にしてやりたいという、凶悪な考えが頭を占拠している。 いま刃物を手にしていたら、凶悪な連続殺人鬼になっていたかもしれない。 丘の上の私立高校だから、さぞ警備が手厚いのだろうと思っていた。しかし、意外にも正門は開け放たれており、守衛もいない。 はじめて入る場所にもかかわらず、理香子は我が物顔でどうどうと校庭を闊歩した。そのおかげですれ違う生徒や先生に不審人物だと思われることなく、学校の関係者だと勘違いされ、すんなりと職員室まで来られた。 理香子がドアを開けようとした瞬間、たまたま若い女の先生が職員室から出てきた。 「こんばんは、何か御用ですか?」  にこやかに尋ねられ、理香子は眦を下げてマダム風の優雅な笑みを浮かべた。 「ええ、由希くん、いらっしゃるかしら?」 「由希くん……、ああ、霧生(きりゅう)先生ですね。お待ちください」  職員室のドアを全開し、若い女教師が職員室の奥に向かって叫ぶ。 「霧生先生、知り合いの女性がお見えです」  窓際の席に座って書類とにらめっこしていた由希が顔を上げる。そこだけスポットライトが当たっているかのような神々しさに、理香子は思わず目を奪われた。  由希は怪訝な顔をしながらも立ち上がった。由希の斜め前の席には、悠一の友人の近藤が座っている。 近藤がこちらをみてぎょっとした顔をした。由希は近藤の慌てた顔に気付かず、悠然とした足取りで近付いてきた。  月に似た琥珀色の瞳が理香子を映す。アーモンド形の瞳に見詰められると、心臓が奇妙なリズムを打った。 「どちら様ですか?俺に貴方のような知り合いはいませんが」 「いいえ、知っているはずだわ。あなたと一対一で話がしたいの、来てちょうだい」 「お断りします、見知らぬ人と話す時間はないので」  毅然とした態度でつれなく断られて、頭に血が昇った。ここが学校だということも忘れて、理香子は地団太を踏んで大きな声を上げる。 「いいからさっさと来なさいよ!あんたに用事がなくても、あたしにはあるのよっ!」  ヒステリックな金切り声に、職員室にいた教師たちがぎょっとした顔で一斉にこちらを振り返る。理香子のすぐ隣に立っていた若い女教師が焦った顔になった。 「あの、霧生先生の知り合いじゃないんですか?私はてっきり、霧生先生が担任している生徒の関係者だと思って。困ります、部外者がなんのご用でしょうか?」 「うるさいわね、部外者はあんたよ!ひっこんでなさい」  若い女教師を突き飛ばそうとした手を由希が掴んだ。 白くて細長い指。顔だけじゃない、手まで綺麗だなんて許せない。 「教師のくせに乱暴する気?離しなさいよっ」 「乱暴なことをしようとしたのはそっちだろう。どこの誰か知らないけど、学校で暴れるのはよせ。警察を呼ばれたいのか?」  由希は理香子が部外者と知ると、敬語で喋るのをやめて冷たい口調になる。凍えるような月に見詰められると、理香子はどんどん自分を見失っていく気がした。 「警察を呼びたいなら呼びなさいよ!警察に突き出されるのはあんたよ、この泥棒猫っ!」  事情を知らない由希の目には、今の自分はきっと頭のイカれた女に見えているだろう。もっと冷静に責めてやるつもりだったのに、あたしはどうしてしまったのか。 頭の片隅で冷静にそんなことを考えていながら、もう一人の自分が不規則になってしまった心臓に操られるように、感情的に喚き散らしている。 「理香子さん、落ち着いてください」  見かねたらしく、近藤が席を立って自分と由希の間に割り込んだ。由希がきょとんとした顔で近藤を見る。 さっきまでのクールな無表情とは違う、まるで無垢な子供のような顔。理香子は猛然と怒りながらも、心の片隅では由希に見惚れていた。 「理香子さん、由希君。ちょっと人がいない場所に移動しよう。さあ、こっちへ」  近藤に誘われて、理香子は由希と共に職員室を離れた。電気が消えた薄暗い階段を上って、二階の誰もいない教室に連れて行かれた。 「あの、近藤さん。この女は誰なんですか?」 「この女とは失礼ね。あたしは時和理香子よ。悠一の妻って言えばわかる?」 「悠一さんの―…」  アーモンド形の瞳を丸く見開く由希に、近藤が気まずそうな顔をした。眼鏡の奥の優しげな瞳が宙を彷徨っている。 どうやら近藤はある程度事情を知っているらしい。もしかすると、悠一は夫婦関係のことや、由希とのことを近藤に相談していたのかもしれない。  困惑する近藤に対して、理香子の正体を知った由希は納得したような顔になった。 「見知らぬ人だけど、関係者ではあったのか。失礼しました、俺は霧生由紀です」 「ふん、自己紹介なんていいわよ。あんたね、教師のくせに人の夫をたぶらかすなんて。それも男同士なんて、恥ずかしいと思わないの?」  由希は形のいい眉を顰めた。小さく溜息を吐くと、さっきの丁寧な態度をやめて威圧的な言葉遣いで理香子の質問に答える。 「恥ずかしいとは思わない。恋愛に性別は関係ないだろう。男だからといって、女を好きになるとは限らない」 「ふざけないでちょうだい!あんたのやっていることは犯罪よ、犯罪。訴えてやるんだから」 「訴えてもかまわないが、俺は罪を犯した覚えはない。裁判をしたければ、勝手にすればいい」 「悠一はあたしと結婚しているのに、どうして手を出すのよ。さっさと身を引きなさいよ、あたしは悠一と別れる気なんてないわよ」 「貴方には申し訳ないが、俺も悠一さんと離れるつもりはない。はっきり言って、悠一さんの心はとうの昔に貴方から離れている。俺のものだなんておこがましいことを言うつもりはない。でも、もう貴方の夫でいることに彼が疲れているのは確かだ。俺が言うのも可笑しいけど、貴方は悠一さんに対して愛情がなかった。貴方にとって彼は都合のいいATMだったんじゃないのか?」 暴言だけど否定できなかった。 そう、あたしは悠一のことを愛していたわけじゃない。 ただ専業主婦という立場が欲しかった。その条件を満たしてくれて、顔もそれなりにかっこいいと思えたのが悠一だっただけ。 別に、彼じゃなくてはいけないわけではなかった。  反論しなくては。だけど、言葉が出てこない。 物静かそうな見た目に反して、由希は小さな口から紡ぎ出すつらつらと言葉を重ねる。 低めだけど透き通った声で告げられる言葉はどれも、真っ直ぐ筋の通った正論で鋭く胸を貫かれた。 「ちょっと由希君、言いすぎだよ。ATMだなんて、さすがに失礼じゃないかな」 「近藤さん、事実です。悠一さんから結婚生活について聞けば、みんな悠一さんはただの金蔓なんだと思いますよ」  近藤は由希の言葉に思い当たる節があるのか、口を噤んでしまった。 近藤は自分の味方にはならないのだと知り、あたしは孤立無援の哀れな女だと理香子は泣きたくなった。 「俺は彼女とは違う。悠一さんのことを愛している。俺なら悠一さんにあんな疲れた顔はさせない」 「なによ、愛なんて馬鹿馬鹿しい。あんたいくつよ?」 「俺は二十四歳だが、それがなにか?」 「ふん、若造じゃない。坊や、人間はね、愛じゃ食べていけないの。生活するにはお金が必要なのよ。そんなこともわからないのかしら」 「だから悠一さんに生活費を稼がせて、自分は遊んで暮らしていたというのか?呆れた怠け者だな」 「女なんだから、養ってもらってもいいじゃない」 「その点は否定しない、女性の年収は男性よりもずっと低いのが現状だと思う。俺は結婚して専業主婦になることに関しては、否定的じゃない。ただ、貴方のように家のこともろくにしないで、パートナーとして接することなく悠一さんを邪魔者のように扱い、自分は毎日好きなことに明け暮れて散財するのはどうかと思うだけだ。そんな妻だから、別れ話を切り出されるんだ」  由希に軽蔑した目で見詰められると焦燥感にも似た怒りを感じた。理香子はキッと由希を睨みつけるが、彼は相変わらず威圧的な顔をしている。 「悠一が別れ話を切り出したのは、あたしが怠け者だったせいなんかじゃない。あんたのせいでしょ。悠一を誑かしたくせに。不貞行為は犯罪よ、訴えてやるんだから!」 「残念だが、俺と悠一さんのあいだに明確な肉体関係はない。不貞行為を理由に訴えることは不可能だ」 「はあ?なにそれ、嘘つかないでよ」 「嘘じゃない、プラトニックな関係だ」  真面目な顔でのたまった由希に、理香子はくらりとした。 「そんなの、子供のお遊びの関係じゃない!悠一と寝てもないくせに、愛し合っているなんて嘯いていたの?恥ずかしいと思わないのかしら」 「悠一さんは、貴方と正式に離婚するまでは俺と肉体関係は持たないと決めているそうだ。あの人はルーズだけど、妙なところで生真面目だからな。そういうわけで、貴方が俺や悠一さんを訴えても勝ち目はないぞ」 「勝ち目がないのはあんたよ。なんだ、体の関係はないのね。びっくりしたわよ。仮にあたしと悠一が別れたところで、あんたの恋愛は成就しないわよ。セックスもしてないなんて遊びの恋愛じゃないの。悠一はノーマルよ、男に抱かれるのはもちろん、きっと男を抱くのだって無理だわ。あんたもそうでしょ。抱くなら男より女の方がいいに決まっているわ。経験はあるんでしょう?」 「ない。ずっと、悠一さんが好きだったから、他の誰かと恋愛関係になる気はなかった」  冗談だろう。抜群の容姿でさぞもてるだろうに、経験がないなんてありえない。  信じられないものを見るような目で由希を見る。二十代半ばにして自分が童貞であることを恥だと思わず堂々としている彼が、容姿の儚さも相まって妖精や天使に見えてきた。 ぐちゃぐちゃに彼を穢したいという邪な欲望が鎌首をもたげる。 「ふん、なによ。経験がないなんてますます子供ね。あんたがゲイかノーマルかは知らないけど、男同士のセックスはハードルが高いわよ。悠一だって、あんたと寝たら幻滅するかもしれないわ。そしたら、あんたは捨てられるのよ」 「そうかもしれない。でも、それでもいいんだ。俺は悠一さんを愛している。 それはこの先ずっと変わらない。だから、自分から手を引く気はない」  きっぱりと言い放った由希に理香子はよろめいた。自分を見据える琥珀の瞳に揺らぎはない。 完璧な敗北感に打ちのめされ、理香子は由希から目を逸らす。 踵を返して、ハイヒールを踏み鳴らしながら逃げるようにその場を去った。
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