沈華

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 あの月のせいでなにもかも無茶苦茶だ。あたしは美しい満月の狂気に晒され、可笑しくなってしまった。  預金通帳の額がみるみるうちに減っていった。独身時代に貯めたお金はすっからかんになり、悠一が置いていった貯金だってゼロの数が減っている。 それだけじゃない。最近何をしていても楽しくない。気付けば美しいあの月のことばかり考えて虚しさを募らせている。 理香子は自分が空っぽになっていくことに恐怖していた。  彼氏と同棲を初めて幸せの絶頂にいるであろう愛弓とは暫く会っていない。習い事をやめてしまったので専業主婦友達ともずっと会っていない。 キャバクラで働いていることを知ってしまってから、麗奈のことも信用できなくなった。それに彼女とは気まずくて顔をあわせられない。 「ちょっと、理香子!いつまで家にいるつもりよ!」  ノックもせずに紀美子が部屋のドアを開けた。ベッドに蹲っていた理香子は、のろのろと顔を上げて母を見た。 「なによ、もう昼間だってのにまだゴロゴロしていたの?だらしない子ねえ。働きに出たらどうなの?」 「うるさいわね、いいのよ、働いたりしなくて。あたしは専業主婦よ」 「うるさいじゃないわよ、まったく、このだらしなさは誰に似たのかしらね。それに金遣いの荒さなんて酷いったらありゃしない。この前あんたの通帳を記帳に行ってあげたら、驚いたわよ。すごい勢いでお金を使ってるじゃない。悠一さんの通帳のお金まで使っちゃって、何考えてんのよ!」 「ちょっと、あたしの通帳勝手に持ち出したの?」  通帳は部屋の引き出しにしまってあった。紀美子がこの部屋に勝手に入ってたまに掃除機を適当にかけていたのは知っているが、まさか、引き出しまで漁って通帳を持ちだしていたなんて。  ぎょっとした顔をする理香子に、紀美子は悪びれもしない。 「あんたがちゃんとしてないから、私が管理してあげてるのよ。お金、何百万も何に使ったのよ。雄一さんとはどうなっているの?いつまで家に帰らないつもりなのよ!」  ぐちゃぐちゃと金切り声で怒鳴る紀美子に胃の底がカッと熱くなる。うるさい、うるさい。頼むからやかましい鸚鵡みたいに喋り続けるのはやめて。静かにしていて。  声から逃れようと耳を塞いでも、紀美子は姦しく罵り続けている。 どうやったら、あの耳障りな音を止められるだろう。いっそ、これ以上喋れないように首を絞めてしまおうか。物騒な考えがふつふつと浮かび上がり、気が狂いそうだ。 「うるさいわねっ!黙りなさいよ、このクソババア!」  大声で叫ぶと、理香子は部屋の入り口で喚き散らす紀美子を突き飛ばした。ドスンと重たい音がして獣みたいな叫び声が聞こえたが、気にせずにドアを閉める。 子供部屋には昔から鍵がなかった。家族なんだから鍵なんて必要ないでしょと言って、鍵をつけてもらえなかったのだ。ドアを開けさせないために、本が入った小さな棚をドアの前に移動させてバリケード代わりにした。  実家に暮らしながらこんなにもお金が減ってしまったのは、ホストクラブで使ったからだ。 女としての自信を失い、悠一の裏切りで傷付いた心を癒すのに、一度だけと思ってホストクラブの扉を開いてしまった。それは禁断の扉だった。  甘い誉め言葉、若い男たちからのチヤホヤ、煌びやかな世界にすっかり目が眩んだ。ホストクラブにさえ由希ほどの美男子はいなかったが、それでも髪の毛をしっかりとセットしメイクをして、いいスーツを纏って、自分をかっこよく見せる努力を最大限にした男達はかっこいい。 あっという間にのめり込み、習い事をやめたりランチを控えたりして節約していたはずのお金は底をつきかけている。 最悪のシナリオに向かって突き進んでいるのは間違いない。 悠一と離婚するつもりはない。別居状態を早く解消して彼をもとのアパートに連れ戻したいのだけれど、話し合おうにも悠一は着信拒否でラインもスルーだ。悠一に会いに会社に行っても拒否される。 悠一の浮気相手の由希の家は突き止めて訪問したが、一度目にドアを開けて以来、彼はこちらに対して強い警戒心を持ち、二度目以降はドアを開けようとしなかった。 悠一が彼の家から出てくる瞬間を押えたわけじゃないが、間違いなく彼は由希の家に転がり込んでいる。由希が暮らすアパートの部屋のカーテンに彼らしき影が映ったのを見た。 あたしはこれからどうしたらいいの?途方に暮れて、理香子は溜息を吐く。 このまま一人で悩んでいたら病んでしまう。やっぱり、誰かに相談しよう。紀美子は相談相手にはならない。 愛弓もしっかりしているようで男にへいこらする気弱な女だからだめだ。やっぱり、麗奈しか相談できる相手はいない。 スマホで連絡を取ると、麗奈はすぐに応じてくれた。 今日の夕食を一緒に食べる約束をとりつけた。 すぐに美容室に出かけて、髪の毛のカラーリングをして巻き直す。女友達にボロボロの落ちぶれた姿なんて見せたくない。批難がましい目で自分を見ている紀美子のことを無視して、理香子は華やかな装いで家を出た。  待ち合わせ場所は家から近いスーパーの駐車場だ。今回は麗奈が店を決めて、迎えに行くとまで言ってくれた。お酒が飲める個室があるビストロらしい。初めて行く店なのでワクワクする。 悠一に別れ話を切り出され出て行かれたことは話していないが、実家に帰っていることを話している時点で、麗奈は夫婦仲が険悪であることを見抜いているだろう。 まだ由希の正体を知らない時に、悠一が由希という人物と浮気していることを相談したし、大体の事情は彼女なら推測できてしまうだろう。 こうなったら全部ぶちまけてしまって、麗奈に今後どうすればいいのかアドバイスをもらおう。 ライターとして独立してから隠れてキャバクラでバイトするほど売れていないとはいえ、麗奈が聡明であることに変わりはない。 「久しぶりね、理香子。さあ、乗って」  駅前のロータリーに車を停め、助手席のドアを開けてくれた麗奈は相変わらずバリバリのキャリアウーマン然としていた。  あたしにはキャバクラ勤めがばれているっていうのに、滑稽ね。  思わず漏れそうになった本音を呑み込み、理香子は彼女に負けない華やかな笑みを浮かべた。助手席に乗り込むと、車がゆっくりと走り出す。  どれほど走っただろう。窓の外が完全な闇に包まれている。二十分ぐらいの場所だと思っていたけど、もっと遠いらしい。一時間近く走っている。街中を離れて山の方に向かっていることになんとなく不安を覚えた。 「喧騒から離れた、山道にポツンとあるビストロなのよ。遠くてごめんなさい、でももうすぐ着くわ」  こちらの気持ちに気付いたような抜群のタイミングで麗奈が言った。理香子はなんだそういうことかと胸を撫でおろす。  言葉通り、十分したら車が停まった。寂しい山道の中、オレンジ色のライトに照らされて古民家風の建物が佇んでいる。和モダンな雰囲気の素敵な外観だ。  店内も和と洋が混ざり合った、期待を裏切らないお洒落な場所だった。小さな個室に通されて、二人きりの食事会が始まる。 麗奈とこうして二人で食事をするのも久しぶりだ。 席だけの予約だったので、コース料理もあったがアラカルトで注文することにした。麗奈が「運転は私に任せて、理香子は思いっきり飲んでちょうだい」と言ってくれたので、遠慮なくアルコールを注文する。 いつもならそれほどアルコール度が高くない甘ったるいカクテルを注文するが、今日は酔いたい気分だった。 一杯目から度数の高いブルームーンを選ぶ。  スモークサーモンのマリネ、ベーコンとほうれん草のキッシュ、マグロのカルパッチョサラダ、鴨のコンフィ、チーズの盛り合わせを一気に注文した。 広めのテーブルなので次々と料理が運ばれてきても平気だ。鮮やかな料理が並んだテーブルの華やかさにうっとりする。  はじめのうちは探り探り最近のはやりのドラマや、愛弓の同棲話で盛り上がっていた。 アルコールが回ってくると、重たい話題に関しても舌の滑りがよくなり、理香子は自分から悠一との話を切り出した。 「悠一の奴、本気で浮気してたのよ。それであたしとは別れたいって言い出して。最低でしょ!しかも相手は男、男だったのよ!」  麗奈が珍しくぎょっとした顔をする。 「えっ、その浮気相手って例の由希って子よね。男の人だったってことかしら?」 「その通りよ。ハーフっぽい若い子でね、悠一の親友の近藤さんと同じ高校の国語の教師よ。月みたいな色の髪と目をして背が高くて、手足も長細いの。あんな綺麗な子が、どうして悠一なんて―…」 「悠一さんは男らしくて魅力的だわ。それにしても、相手が男なんて驚きね」 「そうでしょ。それでね、離婚しようなんて言い出して、テーブルに離婚届置いてでてっちゃったのよね。もう、最低な男っ」 「そうだったのね、知らなかったわ。離婚届か、悠一さんは本気ってことよね。理香子はどうするつもりなのかしら?慰謝料だけとれたらとって、離婚するの?」 「いやよ、あたしは離婚なんてしてやらないんだから!悠一は地味だしパッとしないけど、優良物件だもの、離婚なんて勿体ないわよ」 「そう、離婚したくないのね。でも、悠一さんの意思は固い。大変ね」  親身になって話を聞きつつも、麗奈の赤い口紅を引いた唇の端がぴくりと吊り上がったように見えた。 気のせいだろうか。近頃、なんでもかんでも怪しく思える。 世の中すべてに欺かれているような孤独が、べっとりと影みたいに付き纏っている。  不安を消すのに、さらに強い酒が必要だ。理香子は今飲んでいるマティーニを飲み干すと、また新たなカクテルを注文する。 酒に酔うと、悠一に捨てられたことへの怒りが沸いた。それだけじゃない、由希に対する愛憎の混じったどろどろのコールタールのような感情が渦巻く。 理香子は荒波のように押し寄せる感情のまま、喚き散らした。 「ちょっと落ち着きなさい、理香子。暴れるなんて貴方らしくないわ。個室とはいえ、壁が薄いから他の部屋に筒抜けよ。みっともないわ」 「みっともない?それを言うなら、売れっ子ライターを気取ってキャバクラなんかで働いていた麗奈はどうなのよ!」 理香子の言葉に麗奈は口元に笑みを残したまま、凍えた瞳になった。しかし、酔っ払った理香子はそのことに気付かず、麗奈に文句をぶつける。 「キャバクラで働くなんて、女を切り売りしているみたいでみっともないわ。麗奈は憧れのできる女だと思っていたのに、がっかりよ」 「理香子、私がキャバクラに勤めてることは誰かに言った?愛弓とか、他の大学時代の友達とか」 「言ってないわよ、今のところ。自分でも恥ずかしいんでしょ。あたしも夫に逃げられてかわいそうだけど、麗奈もかわいそうよね」 「……そうね」 「ああ、もう、お金もいっぱい使っちゃったしもういや!どこか遠くに行ってしまいたい気分よ」 「どこか遠くね。それもいいかもしれないわね、理香子」  麗奈が穏やかな笑みを浮かべて笑っているのが、翳んで見えてきた。アルコールがかなり回ってきたらしい。強い眠気に襲われる。 本当に、目が覚めたらここじゃないどこかにいたらいいのに。 力が抜けた手から滑り落ちたカクテルグラスの割れた音が、どこか遠くで聞こえた。
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