沈華

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北風が頬に吹き付けた。冷たさに冬の訪れを感じる。今日の夕飯は暖かい鍋物がいいかもしれない。霧生由希は買い物かごに白菜と豚バラ肉を入れた。  夕食の支度は大学卒業後にすぐ独り暮らしを始めたので手慣れている。でも、自分一人のために食事を作る時は、こんな風に外の気温や旬の食材、毎食のバランスにそれほど拘りはなかった。 手早く作れることが最重要であり、あとは二の次だった。 誰かの為に献立を考えるのは張り合いがある。由希は口元を緩めた。  アパートに着くとすぐに食事の準備に取り掛かる。 白菜と豚バラを重ねたミルフィーユ鍋を土鍋で炊き、青ネギ入りのたれを作る。それだけでもボリュームはあるので、一人ならばこれで済ませていただろう。 でも今は愛する人も一緒に食事をする。こまごましたおかずもつけようと、冷蔵庫を開いた。ネギとこんにゃくの酢味噌和え、茶わん蒸し、ほうれん草のお浸しを作ろう。  材料を取り出し、調理しているとアパートの玄関を叩く音がした。悠一が帰ってきたのだろうか。由希は包丁を置き、玄関に急いだ。  ドンドン、ドンドン。激しく玄関を叩く音、揺れるドア。 悠一はのんびりした性格だ。こんな風に人を急かす真似はしない。そもそも、彼には合鍵を渡してある。忘れていったり落としたりしない限り、自分で勝手に鍵を開けて家に入ってくるはずだ。 「悠一さん……?」  玄関に向かって声を掛けてみるが、返事はない。 由希は形のよい眉を寄せて、玄関に静かに近づいた。ドアスコープを覗いてみるが、誰もいない。怪訝に思ってドアを開けようとした矢先、また誰かが扉を叩く。  ほんの少し怖いと思った。だからすぐにドアを開けず、普段は使わないドアスコープをもういちど覗き込む。 覗いた瞬間、誰かの瞳と目があった。マスカラに彩られた黒い目、女の目だ。  まさか、また彼女が来たのか。  ぎくりとして、慌ててドアの鍵を開ける。扉を勢いよく開くとドアの向こうには誰もいなかった。 由希は首を捻りながらドアを閉めて鍵をかけた。キッチンに戻って、夕食の準備を再開する。不気味なノック、誰もいない玄関。二の腕がぞわりと粟立つ。 「由希、ただいまー」  のんびりした声が聞こえてきて由希は表情を明るくする。エプロンを着けたまま、パタパタと玄関に向かった。 「おかえりなさい、悠一さん」 「おう。いい匂いしてんなー。あー、腹減った」 「ちょうどできあがった所です。手を洗ってきて、席に着いてください」 「ん、了解。いつもサンキューな」  二人で向かい合って食卓に着く。他愛ない話をしながら夕食をとる時間の幸福は、二カ月前に同棲をはじめた時から色褪せることない。 穏やかで楽しい時間は、ちょっと前に感じた恐怖を忘れさせてくれた。  夕食後の片付けは悠一も手伝ってくれた。家事は嫌いじゃないからいいと断っているのに、悠一は何かと家事をやってくれる。  二人でやると食器洗いはすぐに終わってしまう。二人で並んでソファに腰掛け、テレビドラマを眺めた。 ちょっとホラー風味のサスペンスドラマだ。ドラマを観ていたら、ふとここ最近の奇怪なできごとを思い出した。今日のドラマの内容が今の自分の状況に少し似ていたからかもしれない。 「悠一さん、理香子さんは見つかりましたか?」 浮気相手の自分が正妻のことなんて尋ねない方がいいのかもしれない。そう思ったものの、気になっていたのでつい質問してしまった。 子供の頃から言葉をオブラートに包んだり、周囲に気を使って自分の意見を飲み込んだりするのが苦手だった。だから、余計に義父に嫌われていたのだ。 「理香子な、まだ見つかんねえよ」 「そう、ですか―…」 「浮かない顔だな、なんか気になる事でもあるのか?」  悠一が心配そうな顔で覗き込んできた。 昔から変わらない優しげな顔に嬉しくなる。彼はぶっきらぼうで吊り目が薄情そうに見えるけど、心根は優しい。困っている人を放っておけない人だ。 悠一と出会ったのは中学生三年生の六月、悠一が由希の通う中学に教育実習にやってきた時だ。 由希の本当の父親は幼い頃に交通事故で死んだ。母の再婚相手は金持ちだけど自分本位で暴力的で冷酷な男で、血の繋がらない由希に躾だと酷い暴力をふるっていた。 そのことに気付いた教育実習生の悠一は、何度も由希を助けてくれた。一か月の教育実習が終わったあとも、時々様子を見に来てくれたし、義父の機嫌が悪くて家に帰れない時はアパートに泊めてくれた。 味方がいて、逃げ込める場所がある。そのことは由希にとって、とても心強かった。 年上の頼もしいお兄さんとして、由希はずっと彼を慕っていた。 大学卒業後、科学機器や教材を取り扱う商社に入社した悠一は、由希が通う高校に訪れるようになった。 高校二年から卒業までの間、お昼休み前に搬入にやってくる彼と昼食を一緒に食べたり、たまに遊びに連れて行ってもらったりしているうちに、だんだん彼に惹かれた。 大学生になってからも彼との親交は続いて、いつか彼に気持ちを告げたいと考えるようになった矢先、彼は結婚してしまった。 ショックだったけれど悠一が幸せならそれでよかった。 同性から好きだと言われれば悠一も困るだろうし、彼への想いは墓場まで持って行こうと決心した。 しかし、結婚して一年もしないうちに彼は暗い顔をするようになった。 結婚生活が上手くいっていないことを知り、閉じこめたはずの彼への想いが封を破った。 思いを告げると彼はかなり戸惑っていたが、距離をとられることはなかった。 嫌われていないならと粘り強さを武器に猛アタックしたのが功を奏して、不倫ではあるが彼と恋人同士になれたのだ。 心配してくれる悠一につい見惚れていると、悠一が眉根寄せてさらに顔を近づけてきた。 「どうしたんだよ、由希。気になることがあるならちゃんと言えよ」 「じつはここ最近一人でいる時に、アパートのドアを誰かが叩くんです。でも、ドアを開けても誰もいなくて。それだけじゃない。仕事を終えて学校から帰るとき、時々誰かに背後からつけられていることがあるんです。もしかして、理香子さんがと思って」 「まさか。理香子はまだ見つかってないぜ」 「そうですよね。すみません、変なことを言って」 「いや、謝らなくてもいいけどな。でも、理香子がオレを尋ねてくるならわかるけど、なんでお前を尋ねたり、つけたりするんだよ?」  悠一の質問に由希は口を噤んだ。  悠一と同棲をはじめてから数日後、理香子が自分の勤める高校に乗り込んできたことは悠一には話していない。 その後、彼女が何度かこのアパートにやってきて、自分に迫ってきていたことも。  黙っていると、悠一の大きな手がくしゃりと髪を撫でた。 「オマエ、なんかまだオレに隠しごとしてんだろ?心配だろ、言えよ」 「いえ、本当にたしたことじゃないので平気です。俺、そろそろ風呂淹れてきます」  由希はソファから立ち上がり、風呂場に向かった。  風呂から出ると、先にベッドに潜り込む。窓の外に行方不明になった理香子が立っているような気がして、柄にもなく怖くなった。 心臓に毛が生えていると称される男がか弱い女の影に怯えているなど滑稽だ。由希は小さく溜息を漏らす。 初めて理香子と会った時、彼女は憤怒した顔をしていたが、由希は彼女を怖いと思わなかった。 ヒステリーを起こしていたけど狂気じみた様子はなく、浮気されて腹を立てている普通の人妻という印象だった。 だけど、その後からは違った。  悠一が出張に行っていた日の夜、理香子が由希のアパートを突然訪ねてきた。 初めて会った日から一週間もしない時だったので、由希はてっきり理香子が自分に文句を言いに来たのだろうと思っていた。 不倫相手の自分には、正妻の理香子の怒りを受け止める義務がある。由希はためらわずに彼女を部屋にあげた。  教えてもいないアパートの場所を突き止められたことには少し驚いたが、それほど理香子のことを警戒していなかった。 理香子は九月も終わりに近づいて寒さが増したというのに、トレンチコートの下は胸元が大きくあいた寒々しいシフォンワンピースを着ていた。 殴り込んできたにしては、破廉恥で動きにくそうな服装だと思いながら、由希は理香子を見ていた。  いちおう客だ、お茶ぐらいは出さねばいけないだろう。台所で紅茶を入れてリビングに戻ると、理香子は暖房の入っていない寒い部屋だというのに、羽織っていたトレンチコートを脱いでいた。  もしかして彼女は暑がりなのだろうか。 熱々の紅茶を淹れたのは失敗だったかもしれないなんて暢気なことを考えていたら、いきなり彼女が飛びついてきた。 スポーツ万能で反射神経は抜群だったけれど、あまりに驚いてその時は動けなかった。 驚いている間に理香子にフローリングに押し倒されて、上にのしかかられた。 意外と肉のついた腰や豊満な胸を押し当てられると、高校二年の時に一度だけ酔っぱらった義父に襲い掛かられた時のことを思い出してぞっとした。 ぷよぷよした贅肉に押し潰されて、必死にもがいて逃げ出して何事もなかったが、あの時は殴られるよりも恐ろしい思いをした。 手足の先が冷たくなり、由希は凍りついていた。理香子は鬼気迫る顔を由希に近付けて媚びた声で言った。 「男の悠一なんかより、女のあたしの方がずっといいに決まっているわ。女を教えてあげる。そうしたら、悠一なんてどうでもよくなるわ」  彼女は何を言っているのだろう。驚いて声を出せないでいると、湿った唇が首筋に押し当てられた。 口紅をべったりと塗っているせいか、ペタペタとしてなんとも不快な気分だ。生温かい舌がずるりと皮膚のうえを這いまわってくすぐったい。 華奢な女の指がシャツの裾から入り込み、腹筋と胸襟をなぞる。湿った舌が首筋から鎖骨に移動していく。 この女は何をしているのだろう。思考が停止し、由希はされるがままになっていた。 「ほら、気持ちいいでしょ?」  理香子が柔らかい脂肪を纏った体を押しつけ、耳元で吐息を吹き込むように囁く。 胸や腹をまさぐっていた手が下の方へ移動し、ズボンのホックを外してその中に潜り込んだ時、由希は理香子が何をしようとしているのかやっと理解した。  夫の浮気相手にこんなことをするなんて、この女は正気なのか。  由希は理香子を押しのけて、勢いよく立ち上がった。媚びた目で見上げてくる理香子を軽蔑を露にした目で見降ろす。 「俺に触るな、なんのつもりだ」 「気持ちいいことを教えてあげようっていうのよ。あたしがただで抱かせてあげるっていうのよ、初体験の相手として申し分ない相手でしょう」 「冗談じゃない、帰ってくれ」 「女を教えてあげるっていうのよ、男が据え膳を拒否するなんてありえないわ」 「ありえないのはそっちだ。俺はてっきり、悠一さんのことで文句を言いに来たのだと思っていた。だから、ちゃんと話を聞こうと思っていたんだ。それが、こんなことをするために―…」 「何よ!あたしは女として魅力的よ!男の悠一なんかより、あんたを満足させてあげられるのよ!」  自分が着ているワンピースのファスナーを下ろし、肌や下着を見せる。 ブラジャーのホックまで外そうとする理香子の腕を掴み、由希は無理やり立ち上がらせた。 床に転がっているコートとバッグを拾い上げ、嫌がる理香子を引き摺るように玄関に向かう。 理香子はその間中喚いていたが、聞こえないふりをして彼女を玄関の外に放り出した。すぐに鍵をかける。 「開けなさいよ!あたしのどこが不満だって言うのよ!」  理香子はずっとドアを叩いて叫んでいた。隣人に迷惑がかかってしまう。でも、このドアを開けたら恐ろしい目にあいそうだ。  ドアスコープから様子を伺うと、髪を振り乱し、目を血走らせてドアに両手を叩きつける理香子が見えた。まるで鬼女だ。 「いい加減にしろ、ドアを叩いても無駄だ」 「開けなさいよ、開けろ、開けろ、開けろっ!」 「警察を呼ぶぞ」  由希が何度警告しても、理香子はドアを叩き続けていた。本当に警察を呼ぼうかと迷いだした頃、ようやく外が静かになった。理香子を追い出してから、三十分以上が経過していた。  恐怖の訪問から三日後、理香子はまた訪ねてきた。その時もやはり悠一は不在で、由希が家に一人でいた。 いつもならチャイムが鳴ったら相手を確認せず玄関を開けるが、理香子を警戒していたので、チェーンを掛けたままドアを薄く開いた。 その瞬間、隙間から歪んだ顔を覗き込ませた理香子に恐怖を感じた。彼女は目を肉食獣のようにぎらつかせ、毒々しいピンクの口紅をべったり塗った唇を歪に吊り上げていた。 「開けてよ、悠一なんてやめて、あたしと愉しみましょう」  三日月のように目を細める理香子に恐怖を感じて、由希はすぐさまドアを閉めようとした。 しかし彼女は細い指と足を滑り込ませ、ドアを閉めさせないようにしている。少しでもドアを開けてしまった自分の愚かさを由希は嘆いた。  さすがに相手の指や足を挟んだままドアを閉めるわけにはいかず、由希は言葉で理香子を帰るように促した。 しかし理香子は帰る気配がない。それどころか、ドアの前で服を脱ぎだそうとする始末だ。 今度こそ本気で警察を呼ぼうか迷っていたら、隣に住んでいる会社員の男が偶然通りかかって、理香子を注意してくれた。 隣の男は筋骨隆々の強面だ。実際は顔を合わせればにこやかに笑って挨拶をする気のいい男だけれど、初見で怒っている姿を見れば、怖い男だと勘違いしてしまうだろう。 理香子も彼を恐ろしいと思ったようで、文句をまき散らしながらも去った。  しばらく迂闊に玄関のドアを開けるのをやめて、理香子が来ても無視を決め込んでいたら、今度は勤め先の高校の前で待ち伏せされるようになった。 一度や二度じゃない、何度も彼女につけまわされている。それも悠一を取り戻しに来たのではない、自分を誘惑しに来ているのだ。  理香子という女は日に日に狂っていっている。そのうち、怪物になってしまうのではないか。 そう危惧していた矢先、彼女は行方不明になった。 一人の人間がいなくなったのに申し訳ないが、そのことに由希は密かにほっとしていた。 だけど、新たな恐怖が始まった。失踪した彼女の気配を感じる。 それも、一度や二度じゃない。何度も彼女の影に脅かされている。 今もふとした拍子に、彼女がドアを叩くのではないかと不安だ。寝室のバルコニーに出る窓の向こうから、こちらをじっと見つめる視線を頻繁に感じている。 向かいのアパートに彼女が身を潜めているような気がしてならない。 考え出すときりがない。明日も仕事だし早く寝ようと目を閉じかけた時、寝室のドアが開く音がした。 ベッドを軋ませて、悠一が布団に潜り込んでくる。 「由希」  低く囁きながら悠一に背後から抱き締められた。 背が高い自分よりもさらに背が高い悠一の腕は筋肉質で逞しい。彼の腕に包まれていると安心感がある。  理香子がいなくなってから数日後、もう理香子に義理立てする必要はないと悠一が初めて体を求めてきた。 男はもちろん、女とさえ経験がない自分がいきなり抱かれる側であることに不安があったものの、一度抱かれてしまうと彼から与えられる快感と愛情に溺れ、二度目以降は恥ずかしがりながらも彼の求めに積極的に応じられるようになった。  パジャマを脱がされ、素肌を重ね合わせる。のしかかる重みと体温が心地いい。  快楽に呑まれて恍惚としていると、ふと視線を感じた。薄いレースのカーテンだけを閉めた窓の向こうからの、強烈に突き刺さるような視線。  見られている。由希はうっすらと恐怖を感じたが、悠一の激しい腰の動きに翻弄されてすぐに思考が蕩けてしまう。 体位を変えて何度か交わってから繋げていた体を離すと、心地よい疲労感ですぐに瞼が重くなった。 視線なんて気のせいだ。考えることを放棄して、由希は眠りに落ちた。
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