沈華

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あどけない顔で眠る由希の柔らかな髪を悠一はさらりと撫でた。 安らかで美しい寝顔に満たされた気分になる。理香子と夫婦だった頃は、こんな気持ちになることはなかった。  昔から人間関係を築くのが苦手だった。両親が不仲で、ちゃんと大学まで通わせてもらって育ててもらったものの、両親から愛されていたと感じるような記憶はない。 だから、誰かを愛しいと思う感情がずっと欠けていた。 それでも近藤という親友に恵まれたし、教育実習先で知り合った由希に慕われ、今ではこうやって愛し合えている。  はじめは血の繋がらない弟みたいに時たま世話を焼いて可愛がっていただけなのに、こんなにも自分を慕ってくれるなんて思わなかった。 由希は誰から見ても美形で、きっと自分と違って女にもてただろう。それなのに、なんのとりえもない自分みたいな男と生きることを選ぶなんて。 申し訳ないことをしている気がするが、彼を手放すことは考えられない。 昨今では同性カップルも珍しくなくなってきた。 同性婚も一部の地域では認められているくらいだ。逃げられないように早いところ籍を入れてしまおうかなどとせこい考えさえよぎる。  正直な話、理香子が行方不明になってしまったことは心配だが、内心ほっとしている。 理香子は離婚に応じてくれそうにない。離婚裁判をしたとして、いくら理香子の夫への扱いが酷かったとはいえ暴力を振るったわけじゃないし、浮気していたのはこちらだから離婚は認められないだろう。 勝ち目はなく、ずるずると中途半端な別居を続けることになるだろう。しかし、失踪して三年以上生死がわからなければ離婚できる。 彼女との結婚は、失敗の多い人生の中でも最大の失敗だったと思う。  息子に関心はないくせに世間体を気にする両親から早く結婚して子供を作れと急かされて、会社の同期の喜多川もちょうど婚活にのめりこんでいたので、彼と一緒に街コンに参加した。そこで理香子と出会った。  理香子と彼女の友達の麗奈からアプローチを受けて理香子を選んだのは、彼女の方が麗奈より大人しそうだったからだ。 麗奈は洗練された雰囲気がありすぎて、結婚したらあれこれ細かいことを言われて苦労しそうで、自分よりも甲斐性がありそうだから避けた。 それに比べて出会った当初の理香子は明るくて優しい性格であり、おごってあげるといつも申し訳なさそうにお礼を言ってくれるし、車での送り迎えに対しても感謝を口にする女だった。 そういう控えめなところが気に入ってトントン拍子に結婚まで進んだ。 正直に言えば恋愛に興味がなく、見た目が好みで性格に問題がなければ誰でもよかった。 デートを重ねるうちに理香子に愛情を持ち始めたのも事実だ。 だけど、理香子を選んだのは大失敗だった。彼女は猫をかぶっていたのだ。それだけじゃなくて嘘を吐いていた。 「悠一さんみたいな素敵な人、今まで会ったことがないわ。あたしにはあなたしかいないの」  ちょっと大袈裟すぎる言葉だと思っていたが、少なくとも彼女は自分を好いてくれていると信じていた。 でも、真っ赤な嘘だった。彼女が自分を選んだのはただの打算だ。 浮気しなさそうで、ギャンブルも喫煙もしない、酒もそれほど飲まないし、大手企業で稼ぎが安定している。 将来、安心して暮らせる有望株だったというだけの話だった。人間性などまるで見ていない。  結婚なんて打算的な経済活動だ、愛なんて言葉は信じていない。 だから、理香子が打算で自分を選んだとしても責める資格はない。 自分だって彼女を心から愛していたわけじゃない。条件に見合っていたし、彼女と家族として生きていくことを想像できるぐらいには愛情があった。 だから、選んだ。  打算でもよかった。自分が外で働いて稼ぐ代わりに、理香子が家事をする。そうやって役割分担をこなし、お互いに助け合って生きていく。 ついでに情熱的な愛とまでは言わなくても、互いを人生というレースを共に走るパートナーとして愛着を持ち、尊重して大切にし続ける。そうすれば結婚生活はうまくいくはずだった。でも、彼女は早々に本性を現した。  彼女が欲したのは共に生きるパートナーなんかじゃない。仕事をせずに遊んで暮らすためのATMが欲しかっただけだ。  掃除はしない、料理もろくにしない、洗濯物も貯め放題。 自分も几帳面じゃないからある程度の手抜きは許せた。 家事を手抜きしても、ちゃんと「おはよう」とか「いってらっしゃい」とか「おかえり」と言って微笑んでくれるだけでもよかった。 それなのに、理香子は結婚したとたん自分のことを物のように扱い始めた。それも必需品じゃない、邪魔な粗大ゴミ扱いだ。  仕事も好きじゃないが、家で過ごす時間はそれ以上に苦痛な時間となりはじめていた。 結婚してからは、大学への商品の納品でたまに会う由希と話す時間だけが癒しだった。 教育実習で出会った自分に憧れて、教師を目指して勉強していると言ってくれた時は本当に嬉しかった。先生と慕われるのがすごくくすぐったかった。 由希はクールな美貌に似合わず愛情深く、まっすぐで、優しい。美しい容姿とそれ以上に美しい心。恥ずかしくて由希には話していないが、由希から「好きだ」と告白されるよりも前からずっと惹かれていた。  柔らかい月明かりみたいな金糸を撫でまわしていると、由希がくすぐったそうに身じろいだ。 明日も仕事だ、腕の中で安らかに眠っている天使を起こしてはいけない。 慈しむように両腕に少し力を入れて抱きしめると、悠一も目を閉じた。  眠ろうと思ったが、急にトイレに行きたくなった。 ぐっすり眠っている由希を起こさないようにそっと彼から離れて起き上がる。薄いレースのカーテン越しに月の光がまばゆい。 きっと大きな月が浮かんでいるのだろう。 ベッドから降りると、悠一は静かにカーテンを開けてベランダに出た。  空には十六夜の月が浮かんでいる。綺麗な月だ。冬の空気は澄んでいて、星もくっきりと美しく見える。  尿意を忘れて暫く空を見上げていた。その時、ふと真正面から貫くような視線を感じた。こんな真夜中に、誰かに見られている。  正面にはここと同じくらいの規模のアパートが建っている。深夜だからどの部屋も明かりが消えているけど、確かにあのアパートから視線を感じる。  そういえば由希のヤツ、見られている気がすると怯えていたな。近藤の話じゃ、理香子は失踪するまえ由希を待ち伏せたり、後をつけたりしていたとも言っていた。 まさか、理香子があのアパートに住んでいて、オレ達を見張っているのだろうか。  ふいに過った考えに背筋がひやりとした。 そんな、ありえない。姿を消した理香子が自分たちを見張っているなんて、なんのためにそんなことをするというんだ。  悠一は自らの考えを笑い飛ばしつつも、ベランダから部屋に戻るとレースのカーテンだけではなく、分厚いカーテンも引いた。 トイレに行きたかったことをすっかり忘れ、由希が眠っているベッドに戻ると、彼を抱きしめて目を閉じた。
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