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理香子の失踪から一カ月が経とうとしていた。
義理の父も母もはじめに一度だけ電話で理香子の行方を知らないかと電話してきたきり、後は音沙汰なしだ。
両親と不仲なのは自分と理香子の数少ない共通点かもしれない。
「理香子さんは、何のために何処に行ってしまったんでしょうか?」
そう呟いた由希は、珍しく憂鬱そうな顔をしていた。
「どうしたんだよ、由希」
悠一がそっと前髪を梳いてやると、由希はなんでもないと言いたげに笑みを浮かべる。
明らかに無理して笑っているのがばればれた。
由希は表情が乏しいけれど、ポーカーフェイスも嘘を吐くのも下手くそだ。そういう純粋なところを愛している。
「強がりも嘘もなしだぞ。ほら、なんかあるんだったらちゃんと話せよ由希」
「視線がまとわりついているんです」
「どういうことだ?」
「学校で授業をしている時、帰り道を歩いている時、家にいる時だって見られている気がするんです。なんだか、少し気味が悪くて。理香子さんに見られているんじゃないかなんて、妙な妄想をしてしまうんです」
「なんで理香子だと思うんだ?失踪してるんだぞ。それに、アイツがオマエを見張る理由がわからねぇよ。オレとオマエの浮気の証拠を掴んで、慰謝料ふんだくってやろうって企んでるとか?」
「その可能性もあるかもしれないけど、違います。それなら、俺が確実に家に一人でいる時間帯や、学校で授業をしている時まで視線を感じるのは可笑しいです」
「だったらなんだよ」
「じつは言い辛いんですけど、理香子さんに迫られていました」
「は?理香子がオマエに迫ったって、性的な意味でか?」
驚いて目を丸くすると、由希は申し訳なさそうに瞳を伏せた。金色のふさふさした長い睫毛が白い頬に影を落とす。
「はい。悠一さんより女の私の方がいいはずだと言って迫られました。黙っていてすみません」
「いや、謝らなくていいけど。まあ、由希はイケメンだからな。理香子はもともとオレのことなんて愛していなかったし、オマエに惚れても可笑しくはねえな。でも、それならそれで正面からオマエにアタックしたらいいじゃねぇか。それが、なんで失踪して影からストーカーするんだよ」
「ここからは俺の突拍子もない想像です。あまりにもくだらなくて、聞いたら悠一さんが不愉快な思いをするかもしれません。それでも、話していいですか?」
真剣な顔をする由希に、悠一はごくりと唾を飲む。
「いいぜ、話してくれよ」
「はい。オレは、理香子さんはもう死んでいるのではないかと思っています」
「理香子が、死んでる?」
本当に突飛な発想だな。さすが国語教師で幼い頃から小説という空想の世界に親しんできただけあって、発想力が豊かだ。
真剣な顔でミステリーやホラー小説の展開にありそうな斜め上の発想を語る由希に、悠一は思わず笑いそうになった。
いつもは大人っぽいし落ち着いているのに、由希はたまに妙に子供じみたことを言い出す。それもすごく真剣な顔でだ。
なんだか微笑ましくて口元が緩んでしまいそうだ。
でも相手はあくまで本気だ。ここで笑ったら由希が可哀想だと、悠一もむりやり硬い表情を浮かべる。
「理香子が死んでるかもって、どうしてそう思うんだよ」
「彼女はなんだか狂乱していました。俺がつれなく彼女の誘惑を断るたびに、どんどん可笑しくなっていくようだったんです。正直、怖いとさえ思った。俺にフラれ続けて、精神を病んでどこかの山奥で首を吊ったか海に飛び込んだかして、自殺したとは考えられないでしょうか?」
「まあ、恋に破れて死ぬヤツもいるかもしれないな。でも、仮にオマエの言う通り理香子が死んでいたとしたら、なんで視線を感じるんだよ。その方が可笑しいだろ」
「ゆうれい、とか」
「え、幽霊?」
「はい、幽霊です」
いや、さすがにそれはないだろう。
そう言いたかったが、由希は本気で怯えたような顔をしている。
いつでも気丈で精神的にもかなりタフな由希が恐怖するなんて、初めてかもしれない。
それだけ由希は見え無い影に追い詰められているのだ。
ここで笑わずにちゃんと味方になってあげるのが、パートナーである自分の役目だろう。
それに由希のいうような、絡みつくようなねっとりとした視線を何度か自分も感じていた。
まさか理香子の幽霊ではないと思うが、確かに気味が悪い。
「理香子の生死のほどはわからねえけど、そういうことなら今度お祓いでも行くか」
深刻にならないように明るい声で言うと、由希はパッと明るい顔になった。
「そう言ってくれるだけで嬉しいです。すみません、幽霊だなんて失礼なことを。なんだか、あまりに不気味なことが起るからつい現実逃避してしまいました。お祓いはいかなくても大丈夫です。俺の考え過ぎだと思うから」
「そっか。じゃあ、今日は休みだしなんか映画でも観に行くか。デートしようぜ」
「いいんですか?」
「人目を気にするのはもうやめようと思ってな。理香子もいなくなっちまったし、オレからはアイツにはっきり離婚の意思を伝えた。もう、オマエとのことをこそこそしなくてもいい気がする。ここらへんじゃ、手を繋いだり腕を組んだりして歩いたことなかったな。オマエさえ恥ずかしくないなら、外でももっと恋人同士らしく振舞おうぜ」
「嬉しいです。何の映画にしましょう?」
「映画館に行って決めようぜ」
由希にはずっと肩身の狭い思いをさせてきた。本人は平気だと笑ってくれているけど、外では隠さなくてはいけない関係であることを快くは思っていなかったはずだ。
幸か不幸か理香子もいなくなったことだし、隠さなくてはいけない関係は終わりにしよう。
部屋着から着替えると、悠一と由希はアパートを出た。
デート日和の青空だったらよかったのだが、外は薄暗かった。灰色の重々しい雲に覆われた空は今にも泣きだしそうだ。
なんだか悪いことが起りそうな空だな。
こういう予感に限って当たるものだ。嫌な気がしていたら、それが本当になった。
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