沈華

17/19
前へ
/19ページ
次へ
理香子のことは正直あまり好きではなかった。なんとなく、鬱陶しかったのだ。 麗奈は紫煙を燻らせた。 ストレスに負けて、また煙草をはじめてしまった。部屋を満たす煙にウンザリしながらも、ニコチンのおかげで尖っていた神経が緩くほぐれる。 部屋に煙草の臭いが染みついてしまうかもしれない。お洒落なインテリアを揃えた部屋は、女らしいフレグランスの香で満たしておきたいのに。  部屋が煙草臭くなるのがいやならせめてベランダで吸えばいいのかもしれないが、ベランダで煙草をふかしていて誰かに見られるのは避けたい。  煙草を咥えたままノートパソコンを開くと、新着メールが届いていた。すぐにクリックする。 今回の記事は不採用となったという残念なメールだった。 麗奈は肩を落とす。 せっかく時間を書いても、記事が無駄になることはよくある。ライターならば誰もが何度も経験することだ。没になるのは悲しいけど、仕方がない。 ただ、フリーランスになった今、記事の不採用が稼ぎなしに直結している。記事が採用されなければすべてが無意味だ。 出版社時代には没になっても一定の給与が支払われたのに。やっぱり独立なんてしなければよかったかもしれない。でも、あのまま仕事を続けていたら過労とストレスで倒れていただろう。  このままライターとして成功できずに、夜のバイトをする不甲斐ない日々が続くのだろうか。そう思うと背筋が冷たくなる。 友人や両親には羽振りがいいところを見せているが、家計は火の車だ。キャバ嬢としての稼ぎが無かったら、生活保護に駆け込むレベルだ。  美しい容姿のおかげで熟女キャバクラのキャバ嬢としてはそこそこ成功している。 自分を指名してくれる太客も居て、ブランド物のバッグや財布やアクセサリーを買ってくれるし、たまにお小遣いだってくれる。 だけどこんなことはいつまでも続かない。 熟女キャバクラといえど、三十路を超えると需要が一気になくなる。そうなれば、本格的に水商売を始めるしかない。  バイトならいくらでもあるのだろうけど、女友達に知られたくないのでコンビニやスーパーなど真っ当な昼の仕事はできない。 だから、夜のバイトを選んだ。  男の前で見栄を張るつもりはない。だけど、女友達の前ではバリバリのキャリアウーマンでいなくてはいけない。そんな強迫観念がある。 それなりに偏差値の高い学部を卒業し、文章のスペシャリストを目指して難関の出版社への就職を決めた。 女友達は誰もが私を美しいできる女だと思っている。常に成功者として優雅に君臨しなくてはならない。 そんな見栄に憑りつかれて、フリーランスになって落ちぶれても体面だけは維持しようとしてきた。 日の目をみないライターの仕事にしがみつきながら、キャバクラで自分を商品にしてなんとか人生の勝ち組の優秀な女ライターの仮面を被りつづけている。  惨めだと思う。もう、ライターなんて不毛な仕事、投げ出してしまいたい。 結婚して普通の主婦になりたい。理香子みたいにまったく働かない怠惰な専業主婦になりたいわけじゃない。 家のことを完璧にこなしつつ、パートで収入面も支える兼業主婦になれたらそれでいい。  でも、結婚したいからといって愛弓みたいに妥協するのはごめんだ。 老けた外見のうえに中身も小さい最低の男に養われるぐらいなら、今の生活を選ぶ。結婚は経済活動で愛などいらないというエコノミストがいたけど、そうは思わない。 やっぱり、愛がなければ結婚なんてできない。男に養ってもらうためだけの結婚なんて真っ平だ。  すっかり短くなった煙草を灰皿に押し当てると、すぐに水をかけて吸殻を始末した。 部屋が煙草臭くなるのを防ぐために、窓を全開して外の空気を呼び込む。暖房を入れていない部屋が外の冷気を帯びた風のせいで更に冷えた。 安いけどモコモコで温かいフリースを起毛ジャージの上に着込み、寒さをやりすごす。  外面を整えるため、家の中での生活は質素で地味だ。部屋の中で着ているのはお洒落な部屋着なんかじゃない。 安い大量生産の衣料品メーカーの服ばかりだし、食事もなるべく安く済むように半額シールの肉や魚を大量に冷凍庫に凍らせてある。 もやしは節約の必須食材だ。 昼間は電気を点けない、冷暖房も極力使わないと生活は質素倹約を極めているけど、誰がいつ尋ねてきてもいいように、インテリアは高級感のあるお洒落なものを選んでいる。 プレゼントしてもらった高級品のティーセットや食器も揃っている。 綺麗好きなので部屋にはゴミ一つない。モデルルームのように美しい部屋で暮らしている。 それに自分から人を誘うことはないが、女友達にランチ会や飲み会に誘われたら一切断らずに、完璧に洗練された服装とブランドものの小物を身に着けてフットワーク軽く出かける。 そうやって自分をできる女に見せるために、誰にも見られない日々の日常生活を犠牲にしているのだ。 子供の頃から自分をよく見せようと必死だった。それが加速したのは大学生になってから、理香子のせいだ。 理香子は自分のことを異常なまでにリスペクトしていた。 高校の時は気取った鼻持ちならない女と同性に嫌煙されていた麗奈にとって、理香子と愛弓は大学に入ってから初めてできた親しい友人といっても差し支えない。 二人は大切な存在だったはずなのに、今はまるで違ってしまっている。  大学を卒業して出版社にライターとして就職してから、理香子という女の本性に気付いた。 あの女は友達としての私が大切なのではない。美人で頭がよくてできる女に選ばれた親友という地位が大切だったのだ。  理香子は大学で出会って友達になってから、私が気付かないうちに『すごい女』というレッテルをベタベタと、これでもかというほど私に貼りつけていた。そのレッテルが私を苦しめているのだ。  部屋の中が清浄な空気で満たされると、麗奈は窓を閉めた。そろそろ約束の時間だ、でかけなくてはいけない。  ナチュラルに見えるけどしっかりとしたメイクを施し、ショートヘアをブロウできちんとセットしてお洒落でクールな服に着替える。ヴィトンのバックにスマホと財布を入れて部屋を出た。 「お待たせしちゃったかしら」  いかにも忙しい売れっ子ライターを装うのに、約束の時間ギリギリに麗奈は待ち合わせ場所の喫茶店にやってきた。 いつも通りすでに店の外で待っていた愛弓は、退屈そうな顔をぱっと柔らかな笑顔に切り替える。 頬が赤い、きっとかなり長い時間待っていたのだろう。 愛弓はちょっと時間に神経質すぎるところがある。 約束の時間に遅れまいとするのはいいことだけど、何十分も前に待ち合わせ場所にいるのはどうなのだろう。 「忙しいのに呼び出してごめんね、麗奈ちゃん」  申し訳なさそうに頭を下げる愛弓に「平気よ」と答えながら、麗奈はさりげなく彼女を頭のてっぺんからつま先まで観察した。 村井という冴えない彼氏ができて以来、どんどんと乙女チックになっていく服装。 今日は白いレースをあしらった膝丈のチュチュみたいなキャメルのスカートに、フリルだらけの白いブラウス、そして胸元に大きな黒いリボンと衿と袖口にファーをあしらったホワイトピンクのコートだ。 三十路手前の年齢的にきついし、シャープな顔立ちの愛弓には不似合いだ。  似合ってないわよ、やめたほうがいいんじゃない。  指摘したいけど、恋する乙女となってしまった愛弓には何を言っても響かないだろう。 少女趣味の服装は彼氏の好みだそうだ。 照れながら「似合ってないかな?彼氏さんはかわいいって言ってくれるんだけど」と前に言われた時から、麗奈は愛弓に洋服に関する批難をしてもまったく意味がないと悟った。  二人で喫茶店に入ると、それぞれ好きなものを注文する。麗奈はオムライスランチを、愛弓はサンドイッチセットを注文した。 どちらも飲み物付きで千円しない。庶民的な価格帯だ。 安い喫茶店で助かる。理香子は自分が優雅な専業主婦になったとたん、高い店ばかりチョイスしてくるから内心困っていたのだ。  それにしても愛弓と二人で会うのなんて初めだ。いつもは理香子と三人で会っていたから、愛弓と二人きりになる機会なんてなかった。 理香子とはしょっちゅう二人で集まって、愛弓の陰口を叩いたり、人間関係における不満を吐き出したりしていた。 愛弓は他人に対して不満を抱えているくせに「悪口なんてダメだよ」といい子ちゃんぶっていて悪口や不満をぶつけられる相手じゃなく、理香子よりも愛弓との関係の方が希薄だった。 「麗奈ちゃん、お仕事は忙しそうだね。売れっ子のライターだもんね、すごいよ」  愛弓の言葉に麗奈は内心胸をなでおろした。 どうやら、理香子は自分がキャバクラでバイトしていたことを本当に愛弓に言っていないらしい。 キャバクラに勤めていることなんて、女友達には知られたくないことだ。 まだ言いふらされてなくて本当によかった。 「まあね、忙しくて嫌になっちゃうけどね。そういう愛弓はどう?」 「わたしはダメだよ。春先に体調不良で休職して復帰してからは、もう誰にも期待されなくなったって感じなの。腫れ物に触るみたいだし、あんまり仕事をふられなくなっちゃった。楽で良いけど、昇進はもう見込めないかな。仕事に生きるのは無理って感じがする」 「いいじゃない、村井さんと結婚するつもりなんでしょう?」 「うん、わたしはそのつもり。でも、彼氏さんははっきりしない性格だし、意気地もないからなかなかプロポーズしてくれないんだよね」 「今日はもしかしてその相談かしら?」 「ううん、理香子ちゃんのこと」  理香子のこと。麗奈は持ち上げかけたコーヒーをソーサーに戻す。 「もしかして、何か手がかりが掴めたの?見つかったとか?」 「見つかってないの。じつはこの前ね、悠一さんにたまたま会って話をしたの。わたし、実は悠一さんが殺したんじゃないかなんて思って。それで探りを入れたけど、あの人はそういうことをする人じゃなかった。殺人犯って疑ったのにちっとも怒らずに、理香子ちゃんを探してくれるって言ってくれて。口先だけじゃなくて、本当にちゃんと探してくれているみたい」 「ああ、それで悠一さんが私に話を聞きに来たのね」 「えっ、麗奈ちゃんの所にも行ったんだ」 「ええ。一週間くらい前だったかしら。由希って男の子と来たわよ」 「ああ、あの綺麗な顔のハーフの男の人。あの人と悠一さん付き合っているんだって。それも理香子ちゃんがいる時から」 「あら、そうなの?」  本当は知っているけど、いちおう驚いた顔をしておく。 鈍い愛弓は自分が演技をしていることなど見抜けず、驚いたでしょと言った。 「わたしはね、悠一さんが由希って子と一緒になりたくて理香子ちゃんを殺して死体遺棄したなんじゃないかって思ってた。でも、違ったみたい」 「やだ愛弓、理香子はもう死んでいるって思っているのかしら」 「信じたくないけど、もう一か月以上もなんの音沙汰もないんだよ」 「理香子が何もかも嫌になって蒸発しただけかもしれないわよ」 「それならまだいいんだけど。すごく心配。早く見つかってほしいな」  愛弓が憂鬱そうに重たい溜息を零す。 「本当、心配よね」  同調しながらも、麗奈は冷めた思いだった。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

75人が本棚に入れています
本棚に追加