沈華

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バーベキューは一か月後、六月の第一土曜となった。 ランチ会の後、喫茶店でゆっくりと話してから夕方四時前にアパートに帰った理香子は、気合の入った肩の凝る洋服を脱ぎ捨てて、部屋着のシャツとジャージに着替えてソファに座り込んだ。 悠一の姿はない。土日はダラダラとリビングのソファに寝転んで漫画を読んでいたり、ゲームをしたりしていることがほとんどなのに、珍しくどこかに出掛けているようだ。 そういえば最近、悠一は土日にふらりとどこかに行ってしまうことが多い。土日くらい主婦業から解放されたいとランチだカラオケだテニスだと外に出てしまうからあまり気にしていなかったが、愛弓が休職していた間は愛弓や麗奈との約束がなくて土日を家で過ごす日も多かったので、悠一の不在が多いことに初めて気が付いた。 まさか浮気だろうか。 いや、ない。あんなぼんやりして冴えない男が浮気なんてありえない。 脳裏に過った妄想を鼻で笑い、図書館で借りてきた旅行雑誌をめくる。 沖縄の真っ青な海が目に飛び込んできて、思わずほうと溜息が漏れた。悠一と二人で旅行してもつまらない。愛弓も元気になったことだし、今年は彼女と麗奈を誘って沖縄にでも行こうか。  積み上げた旅行雑誌を見て何処へ行こうか思いを馳せていると、玄関のドアが開く音がした。ただいまの声もなく、悠一がリビングのドアから顔をのぞかせる。 「うおっ、いたのかよ」  ソファに寝転がって雑誌を眺める理香子を見て、悠一が驚いた顔をする。 理香子は悠一が洒落っ気のないポロシャツにハーフパンツ姿で帰宅したことに内心ほっとした。あの恰好じゃ女と浮気していたわけじゃなさそうだ。 「人の顔みて驚かないでよね。いちゃ悪いの?」  つっけんどんに言い返すと、悠一は覇気のない顔で後頭部をポリポリと掻いた。 「別にそういうわけじゃねぇけど、珍しく早いな。もっと遅く帰ってくるかと思った」 「疲れたのよ。こんど愛弓たちとバーベキューに行くことになっちゃったし。面倒ね、バーベキューなんて。大学のサークル仲間とやったとき以来よ」 「いいじゃねぇか、バーベキュー。楽しんで来いよ」 「愛弓の彼氏とその男友達もいるのよ」  雑誌から顔をあげて挑発的な目で悠一を見る。しかし、悠一は興味なさげにスマホを取り出して弄っていた。 「ふうん、いいんじゃねぇの。バーベキューは大人数の方が楽しいだろ」  なによ、その態度。美しい妻が他の男とバーベキューに行くのに心配じゃないの?結婚前は男友達と出掛けるってだけで嫉妬していたくせに。  理香子はフンと鼻を鳴らして旅行雑誌に視線を戻した。 お互い会話のないままリビングでそれぞれ別のことをする。どうせ悠一と会話したってつまらないから、静かにしていてくれた方がありがたい。理香子はテレビをつけると、録画しておいたドラマを再生した。  ドラマを見ているうちに窓の外が薄闇に包まれていた。壁の時計に目を遣ると、もう六時半を過ぎている。面倒だけどそろそろ夕食の準備にとりかからなくては。 理香子はソファから起き上がると、キッチンに向かった。   ご飯を炊くのは面倒だ、簡単にできる焼きそばにしよう。冷蔵庫から焼きそばの麺を取り出し、賞味期限が一昨日で切れていることに気付いた。 しまったとゴミ箱に捨てかけるが、すぐに二日ぐらい大丈夫だと思いなおして袋を開ける。  リビングのソファで漫画を読んでいた悠一が立ち上がる気配があった。のそのそとシャワールームに向かっていく。  人が夕飯を作っている間にシャワーなんていい気なもんね、いくらあたしが専業主婦だからって少しは家事を手伝ってくれてもいいのに。  ムカムカしながら野菜を炒めていると、リビングからバイブ音が聞こえてきた。 いったん火を止めるのはガス代が無駄なので火を弱めてキッチンを出る。自分のスマホが鳴っているのかと思ったけれど、違った。机に伏せて置いてあった悠一のスマホが震えている。  なんとなくスマホを手に取って表を向けた。液晶に表示されている名前を確認する。 ゆき。 ゆきって誰なのよ?まさか、女? 耳の音で鼓動が響く。理香子は震える指でスマホをテーブルに戻し、逃げるようにキッチンに引き返した。 フライパンの中で野菜や肉がところどころ焦げている。慌てて麺を入れて水を少し注いだ。じゅわっと水が蒸発する音が、乱れた心音をかき消す。フライパンからわいた水蒸気をぼんやり見詰めていると、リビングの扉が開いた。 「ん?どうしたんだよ理香子」 オープンキッチンはこういう時に厄介だ。ぼんやいるのを見られてしまった。アパートを出てマイホームを手にする時は、オープンキッチンじゃないキッチンも視野にいれた方がよさそうだ。 理香子は顔を上げずに「なんでもないわよ」と冷たく返事をする。 悠一は少し不思議そうな顔をしていたが、それ以上何も言わずにテーブルに置かれたスマホを手に取った。 理香子は料理に集中しているふりをして、注意深くソファの悠一を見る。悠一はスマホの着信を確認すると、その場で電話を掛け直した。 調理音に消されて会話はまったく聞こえないが、妻がいる場所で電話を掛け直すということは、電話の相手は浮気相手ではないのだろうか。 それとも、声は聞こえないだろうと敢えてその場で堂々と掛け直したのか。 前者に決まっている。悠一はそんなに器用な男でも計算高い男でもない。  びっくりさせないでよ。肩透かしを食らった気分だ。 まったくもうと呟くと、理香子は乱暴にフライパンの中身を混ぜ合わせた。
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